瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 桜橋まで来ると、カメラを忘れて来たことに気付いた。取りに帰るのも面倒だし、そのまま桜橋を渡り、墨堤通りを北上、東白鬚公園を抜けて水神大橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで南下して、帰宅した。というわけで、本日の記録は9814歩、6.3㎞とあった。
 いやはや、写真の無いブログも間が抜けているので、インターネットからの写真を拝借することにした。
 墨堤通りに入り、アサヒビール配送場を過ぎた所に、なんでも本社は大阪だという共栄倉庫株式会社の東京支社がある。そのビルの前に「大倉喜八郎別邸」という説明板がある。彫り字に流した黒ペンキが剥げて読みづらいが、曰く、『この一角は、田沼意次にとり入り、養女を大奥にいれて権勢をほしいままにした。中野碩翁の別邸跡で隅田川に面してを贅こらしていた。そこを明治の政商、大倉喜八郎が受け継ぎ、大蔵別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた「蔵春閣」は船橋の「ららぽーと」に移築されている。(共栄倉庫株式会社)』
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 大倉喜八郎(1837~1928年)は新潟生まれの実業家で大倉財閥の創設者。父は新発田藩の大名主(おおなぬし)であったが、18歳で上京、乾物屋を営んだ後、慶応元年(1865)大倉屋銃砲店を開業、戊辰戦争に際し官軍御用をつとめて巨利を得たという。明治6(1873) 年大倉組商会を設立し、貿易業に着手、7年(1874)の台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍した。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテル等も含め内外に多くの事業を展開し、大倉財閥を築いた。また、教育にも関心をもち、明治33 (1900)年大倉商業学校(現東京経済大学)を創立。大正4年(1915)男爵となる。なお、ホテルオークラは長男喜七郎(1882~1963年)の創設になるという。
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