瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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901a64ca.jpg 本日は3日振りの徘徊。駒形橋を渡り、水戸邸庭園から牛嶋神社、墨堤通りの歩道を北上。白鬚橋を渡り、橋場からテラスを桜橋まで南下して、帰宅した。
 牛嶋神社は、貞観2(860)年に御神託によって須佐之男命を祀り、後に天穂日命(下註参照)を祀り、ついで清和天皇の貞辰親王(第7子)を祀って王子権現と称す。本所区向島須崎町に鎮座していたが、昭和初期に現在地(水戸藩邸跡地)に移転。
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41e6aaa6.JPG 註:アマテラスとスサノオが誓約(うけひ)をしたときに、アマテラスの右の角髪(みずら)に巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中つ国平定のために出雲のオオクニヌシの元(もと)に遣わされたが、オオクニヌシを説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかったとされる。
新編武蔵風土記稿(昌平坂学問所地理局による事業。1810年起稿、1830年完成。全266巻)に書かれる縁起に曰く。『貞観2(860)年頃、慈覚大師(円仁)が当地に至ったとき衣冠を着けた老翁が現れこう言った、もし国土が乱れることがあれば我が牛頭を戴いて守護するであろう、我の姿を写し社を造立せよ。これが当社の御神体であり素盞鳴尊である。牛頭を戴いて守護とのことから、慈覚大師は牛御前と号して本地として大日の像を彫り、また釈迦像も彫った。弟子の良本阿闍梨がこの地に残って明王院(牛宝山明王院最勝寺は江戸末期では現在の東駒形2にあった、現在は江戸川区平井)と牛御前を建立(御神体は姿を写した書画)。また、清和天皇の皇子(第七子、貞辰親王)が故あって東国に移され、天慶元年(938)に亡くなられたとき、良本阿闍梨が当社傍らに葬して祀り、相殿とした。王子権現がこれである。治承4年(1180)源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、千葉介常胤が祈願し船筏をもって渡ることができた。翌年頼朝は社領を寄進し、以後代々の領主が神領を寄進した。天文7(1538)年に後奈良院より「牛御前」との勅号を賜わる。宝物には千葉氏関連の刀剣や旗指物などがある。建長年中(1249~1258年)に浅草川から牛鬼のごとき異形のものが飛び出し、島中を走り回り当社に飛び込んで忽然と姿が消えて社壇にひとつの玉を落とした。これが社宝の牛玉とされるが古い話なので危うい。』
 呼称は牛御前社。江戸名所図会にもほぼ同様の縁起が書かれている。呼称は牛御前王子権現社。
神社の縁起では配祀に天穂日命があるが、新編武蔵国風土記稿にも江戸名所図会にも天穂日命は書かれておらず2坐のみであるが、江戸名所図会に貞辰親王を相殿にした後に「霊告ありて素盞鳴尊第2の御子にて、仮に清和帝の皇子として生を替えたものなり云々」の興味深い1文がある。素盞鳴尊の第1子、第2子をだれとみるかは当時の考え方によるが、これが後に配祀となっている出雲臣族の祖の天穂日命に変化しているのかもしれない。対岸の浅草寺縁起では天穂日の後裔の土師(はじ)氏、大鷲神社(足立区花畑)にも土師氏が登場しているから、隅田川東岸にも天穂日命が祀られていても不思議はなく、その天穂日命に貞辰親王が重なって江戸時代では2坐のみになっていた可能性もある。
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d90c4884.JPG 江戸名所図会では牛御前の名称由来を牛島の御崎からであろうという説を紹介している。文武天皇(697~706年)時代に各地に官営の牛馬の牧が設営されたとき、当地にも「浮嶋の牧」が設営されており、明治となってからも乳牛が飼われていたという。慈覚大師の牛頭天王よりはるか昔から御牛がいたわけで、牛御前は「牛のおん前の社」というのが正解なのかもしれない。
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26a82258.JPG 新編武蔵国風土記稿に「源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、船筏で渡った」の記述があるが、洪水のために「道がなく」ということは、通常は歩いて渡っていたことを示す。当時の隅田川はこのあたりで東西に分流して浅瀬になっており、軍馬を含む軍勢はそこを渡っていたことが推定される。鳥越神社縁起にある源義家の渡河、遡れば日本武尊の渡河も同じ場所だったのかもしれない。
 図会の左手の堤が折れ曲がっているが、風土記稿には折れ曲がった向こう辺りまでが古来からの隅田堤であり、折れ曲がったあたりから手前が牛島堤であるとあります。家康入城直後(1590年頃)に牛島堤が築堤されて隅田川の分流部を遮断した可能性があるという。
図会の長命寺の南に「芭蕉庵」と書かれている。芭蕉は住まいを何度も替えているが、江戸での最後の住まい(1694年頃)が此処だったのかも知れない。
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