『撰集抄』巻八第十八 実方中将桜狩ノ歌ノ事
昔、殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨ふりて、人々げにさわぎ給へりけるに、 実方の中将、いとさわがず、木の本に立ち寄りて、
桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
と詠みて、かくれ給はざりければ、花よりもりくだる雨に、さながらぬれて、装束しぼりかね侍り。 此の事、興有ることに人々おもひあはれけり。
現代語訳
昔、殿上人たちが花見のために東山に出かけたのですが、心ない俄か雨で大騒ぎになりました。 その中にあって実方の中将は少しも動じず、桜の木の下に身を寄せて
<さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にやどらん>
と詠みました。 他の人たちのように牛車に避難したりなどしなかったので、実方は桜の木から滴り落ちてくる雨のしずくで 濡れそぼり、装束をしぼりかねてしまうほどになっていました。
「花見に来たら雨が降ってきた。どうせ濡れてしまうのなら桜のかげで雨宿りをいたしましょうや」という 歌そのものの所業を、見ていた人々は「なんと風流な」と感心したことです。
※東山での花見の一件を聞いた、能書家で三蹟の一人である藤原行成は「歌は面白し、実方はをこ(馬鹿)なり」と申したところ、後日、その話を聞いた実方が怒りのあまり殿上に於いて、行成の冠を取り、庭へ投げ棄て去ってしまいました。その状況をご覧になった一条天皇は、「行成は召使うべき物」と蔵人頭に命じ、実方には「歌枕みてまゐれ」と、実質左遷のような形で、長徳元年(995年)9月27日に多くの人たちに別れを惜しまれながら、華やかな日々を過ごした京の都を後にして陸奥国の国司として赴任させられました。しかしながら、赴任後の実方は陸奥国の国司として昼夜問わず精力的に奉仕し、武士や庶民からも絶大な信頼と尊敬を受けていました。そうして、陸奥守として各地を巡閲してまわった際に、この地にて蝦夷鎮護・陸奥国長久平和を願い「夷之社」(後の廣田神社)を創建しました。
十訓抄 第八 諸事を堪忍すべき事
大納言行成卿、いまだ殿上人にておはしける時、実方中将、 いかなるいきどほりかありけん、殿上に参り合ひて、言うこともなく、行成の冠を打ち落として、小庭に投げ捨てけり。
行成、少しも騒がずして、主殿司を召して、 「冠、取りて参れ」とて、冠して、守り刀よりかうがい抜き取りて、鬢かいつくろひて、居直りて、 「いかなる事にて候ふやらん、たちまちにかうほどの乱罰にあづかるべきことこそ、おぼえはべらね。 そのゆゑをうけたまはりて後の事にやはべるべからん」 と、ことうるはしく言はれけり。 実方しらけて、逃げにけり。
折しも、半蔀より、主上御覧じて、「行成はいみじき者なり。かくおとなしき心あらんとこそ思はざりしか」 とて、そのたび蔵人頭あきけるに、多くの人を越えてなされにけり。 実方をば、中将を召して、「歌枕、見て参れ」とて、陸奥の国の守になしてぞつかはされける。 やがてかしこにてうせにけり。 実方、蔵人頭にならでやみにけるを恨みにて、執とまりて、雀になりて、 殿上の小台盤に居て、台盤を食ひけるよし、人言ひけり。
一人は不忍によりて前途を失ひ、一人は忍を信ずるによりて褒美にあへるたとへなり。
現代語訳
大納言行成卿が、まだ殿上人でいらっしゃった時、実方の中将は、どのような憤りがあったのであろうか、(行成・実方が)共に殿上に参ったところ、実方は何も言わずに、行成の冠を打ち落とし、小庭に投げ捨てた。
行成は少しも騒がずに、主殿司をお呼びになり、「冠をとって参れ。」と命じ、冠をかぶり守刀より笄を抜き出して、鬢を整え、座り直し、「いかなることでございましょう。にわかにこれほどの乱罰にあづかるような覚えはございません。(このような乱罰を受けるのならば)その理由を承って、後のことであるべきではないでしょうか。」と、礼儀正しくおっしゃった。
実方はそれを聞き、興ざめしてにげてしまった。
折しも、子蔀より天皇が(事の次第を)ご覧になっていて、「行成はすばらしい人物である。これほど落ち着いた心の持ち主であるとは思わなかった。」とその時、ちょうど蔵人頭の席が空いていたので、多くの人々を超え、その席に行成を任命なさった。
一方、実方の方は中将の官職をお取り上げになり、「歌枕を見て参れ。」と、陸奥守に任命して派遣なさった。そして実方はそのままその地で亡くなってしまった。
実方は、蔵人頭になれずに終わってしまった事を恨み、執着が残って、(死後)雀となり、殿上の小台磐にとまって、台磐をたべていたということを、人々が言っていた。
一人は忍耐することができずに、前途を失い、一人は忍耐の心を信じたことにより褒美にあずかったという例である。
sechin@nethome.ne.jp です。
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