瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は、隅田公園を通って松屋まで夕飯の買い物に行きました。いつの間にやら大寒桜が三分咲きながら花を付けていました。スカイツリーをバックにカメラに納めてみました。俳句とも川柳ともいえぬ駄作をつけてみました。


宇治拾遺物語巻七、三(九四) 三条中納言水飯の事
 今は昔三条中納言といふ人ありけり。三条右大臣の御子なり。才賢くてもろこしの事この世の事皆知り給へり。心ばへ賢く胆太くおしからだちてなんおはしける。笙の笛をなん極めて吹き給ひける。長高く大きに太りてなんおはしける。
 太りの余りせめて苦しきまで肥え給ひければ薬師重秀を呼びて、「かくいみじう太るをばいかがせんとする、立居などするが身の重くいみじう苦しきなり。」と述給へば重秀申すやう、「冬は湯づけ夏は水づけにて物を食すべきなり。」と申しけり。そのままに食しけれどただ同じやうに肥え太り給ひければせん方なくてまた重秀を召して、「`云ひしままにすれどその験もなし。水飯食ひて見せん。」と述給ひて男ども召すに候ひ一人参りたれば、「例のやうに水飯して持て来。」と云はれければ暫しばかりありて御台持て参るを見れば御台かたがたよそひ持て来て御前に据ゑつ。
 御台に箸の台ばかり据ゑたり。続きて御盤捧げて参る。御まかなひの台にすうるを見れば御盤に白き干瓜三寸ばかりに切りて十ばかり盛りたり。また鮨鮎のおせぐくに広らかなるが尻頭ばかり押して三十ばかり盛りたり。大なる金椀を具したり。皆御台にとり据ゑたり。今一人の侍大きなる銀の提に銀の匙をたてて重たげに持て参りたり。金椀を給びたれば匙に御物を抄ひつつ高やかに盛り上げてそばに水を少し入れて参らせたり。殿台を引き寄せ給ひて金椀を取らせ給へるに、「さばかり大きにおはする殿の御手に大きなる金椀かな」と見ゆる。けしうはあらぬ程なるべし干瓜三切ばかりに食ひ切りて五つ六つばかり参りぬ。次に鮨を二切ばかりに食ひ切りて五つ六つばかり安らかに参りぬ。次に水飯を引き寄せて二度ばかり箸を廻し給ふと見るほどにおもの皆失せぬ。「また」とてさし給はす。さて二三度に提の物皆になればまた提に入れて持て参る。重秀これを看て、「水飯を役と食すともこの掟に食さば更に御太り直るべきにあらず。」とて逃げて去にけり。さればいよいよ相撲などのやうにてぞおはしける。

現代語訳
 これも昔の話、三条中納言・藤原朝成という人がいた。三条右大臣・藤原定方の御子である。頭脳明晰で、唐のことや我が国のことなどをよくご存知であった。心映えも素晴らしく、肝も太く、押しの強い性格でもいらした。笙の腕前も見事であった。背は高くなり、ひどく太っていらした。
 太りに太り、息苦しいほどに肥えられたため、医師・和気秀重を呼び、「こんなに太ってしまったのだが、どうしたらよいか。立ち居をするときも、体が重く、苦しくてかなわん。」と仰ると、重秀は、「冬は湯漬け、夏は水漬けで、食事をされるとよろしいかと。」と答えた。そこで、指示のとおりに食事をとってみたが、以前と変わらず肥え太られたため、しかたなく、また重秀を召し、「言うままにしてみたが、効果がない。いま水飯を食うから見ておれ。」と仰り、下男どもを召すと、侍が一人参上したので、「いつものように水飯を持って来い。」と命じられると、しばらくして、御台を用意する様子を見れば、二つある台の片方を運んできて、御前に置いた。
 御台には箸置きのみが置かれている。`続いて、御膳を捧げ持って来た。賄い役が御台に置くのを見れば、中の食器に白い干し瓜を三寸くらいに切ったものが十ほど盛られている。また、鮨鮎の、大ぶりで、身幅の広い、尾頭を押し重ねたのを三十ばかり盛り付けてきた。大きな鋺を持ってきた。それらすべてを御台に据えた。もう一人の侍が、大きな銀の提に銀のしゃもじを立て、重たげに持って来た。鋺を受けた侍は、しゃもじで御飯をよそって高らかに盛りあげ、そこへ水を少し入れて渡した。殿が、台を引き寄せられ、鋺を手にとられると、そんなにも大きくていらっしゃる殿の御手には大きな鋺だ、と見えた。それも不自然でなく思われた。干し瓜を三切りほどに食い切って、五つ六つほど召し上がった。次に鮨を食い切って、五つ六つほどぺろりと平らげられた。次に水飯を引き寄せて、二度ほど箸を回されたと見る間に、御飯は空っぽになっていた。「おかわり」と、差し出された。それが二、三度で提の御飯は空になるので、また提に入れて持って来る。重秀はこれを見て、「水飯を主に召されても、こんなに召し上がれば、御太りなど治るはずがありません。」と言って逃げ去ってしまった。すると、ますます相撲取りのようになってしまわれた。


※この話は『宇治拾遺物語』にあったものが、江戸時代に『百人一首一夕話』に採り上げられ、藤原朝忠の話ということになりました。しかし、もともと『宇治拾遺物語』「三条中納言」は藤原朝成(ふじわらのあさひら)という別人のことです。おそらく『百人一首一夕話』の作者尾崎雅嘉(おざきまさよし)の勘違いと思われます。今昔物語にも同じ話が載っています。2016/11/06 ()のブログを参照にしてください。


 http://sechin.blog.shinobi.jp/Page/7/


 


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