昨日久しぶりに横浜のIN氏から電話がありました。何でも爺の携帯にメールが入らないとのことでしたが、今朝のパソコンにメールが入っていました。曰く、
2017年2月17日17時54分着信 題:試みにメールが入るかどうか
日高節夫様
先ほどは、ご多用中、君の携帯宛にメールがはいるかどうか、お尋ねして申し訳ありませんでした。
これはなき大宰府の姉上様がご使用中のものを君が譲り受けて使っていたものと聞いていたが、今日私が発信したら、プロバイダーから返却された。該当がないというような表示だったが、詳しいことは分からない。そこで今後はこれは使わないことにして、電話帳から消去しました。
残っているのはこの番号だけなので、この番号をテストで使ってみます。
当家は、孫の大学の入学試験で、二浪の医学部志望。去年、一昨年は一校も引っかからなかったが、今年は、多少は脈がある様子。とかくこの季節は辛気臭いね。
ここのところ、携帯にメールが入らなくなったのは、携帯に異常があるのかも知れません。IN氏のメールを爺の携帯に転送してみましたが、反応なしでした。早速調べてみることにしましょう。
百人一首 41~50 についても調べました。
41. 壬生忠見 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか(拾遺集)
壬生忠見 (みぶのただみ、生没年不詳)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。忠岑の子。
現代語訳 恋をしているという私の噂が早くも立ってしまったのだよ。他人に知られないように思いはじめていたのに。
※『拾遺集』の詞書によると、この歌は、40番の平兼盛の歌とともに、天徳4年(960年)に村上天皇の御前で行われた歌合、いわゆる、天暦の御時の歌合(天徳内裏歌合)で、「恋」を題として優劣を競った歌です。しかも、この歌合の最後の勝負、いわばエース対決として戦った歌であり、判者の藤原実頼も優劣つけがたく、持(引き分け)にしようとしました。しかし、天皇が「しのぶれど」と口ずさまれたことから勝敗は決し、兼盛の勝ちとなりました。この敗戦が原因で、忠見は、拒食症に陥り病死したと『沙石集』は伝えています(既出、2月10日のブログ)。この逸話の真偽は定かではありませんが、当時の人々の歌合に対する思い入れが並々ならぬものであったことは、うかがい知ることができます。ちなみに、天徳内裏歌合の二人の直接対決は、2勝1敗で忠見の勝ち、団体戦でも忠見が属する左方が10勝5敗5分(そのうち忠見は、2勝1敗1分)で勝っています。対する兼盛は、4勝5敗1分で負け越し、右方の勝利に貢献することはできませんでした。
42. 清原元輔 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは(後拾遺集)
清原元輔(きよはらのもとすけ、908~990年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。
現代語訳 約束したのだなあ。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越さないように、二人の愛が永遠であることを。
※『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩きました。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話があります。清原元輔の剽軽な一面をうかがうことができます。
43. 権中納言敦忠 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり(拾遺集)
権中納言敦忠 藤原敦忠(ふじわらのあつただ、906~943年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。時平の子。管弦の名手。
現代語訳 あなたを抱いた後の恋しさに比べると、昔の恋の物思いなどは何も思っていなかったのと同じであったなあ。
44. 中納言朝忠 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし(拾遺集)
中納言朝忠 藤原朝忠(ふじわらのあさただ、910~966年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。定方の子。笙の名手。大食による肥満であったと伝わる。
現代語訳 男女関係が絶対にないのであれば、かえって、あの人に相手にされないことも自分自身のふがいなさも恨むことはないのに。
※『百人一首夕話』には、座るのも苦しいほどの肥満体で痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話があります。しかし、これは『古今著聞集』や『宇治拾遺物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われます。
45. 謙徳公 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな(拾遺集)
謙徳公 (けんとくこう) 藤原朝忠藤原伊尹(ふじわらのこれただ・これまさ、924~972年)は平安中期の貴族、歌人。『後撰集』の撰者にして和歌所別当。摂政・太政大臣を歴任。正二位・贈正一位。謙徳公は諡号。容姿端麗と伝わります。
現代語訳 私のことをかわいそうにといってくれるはずの人は思い浮かばず、はかなく死んでいくのだろうなあ。
46. 曽禰好忠 由良のとをわたる舟人かぢをたえ 行く方も知らぬ恋の道かな(新古今集)
曽禰好忠 (そねのよしただ、生没年不詳)は平安中期の歌人。丹後掾(たんごのじょう、地方官)。中古三十六歌仙の一人。自信家で奇人と伝わります。
現代語訳 由良の瀬戸を漕ぎ渡ってゆく船頭が櫂(櫓)がなくなって、行き先もわからず漂流するように、この先どうなるかわからない恋の道だなあ。
※寛和元(985)年の円融院(えんゆういん)の御幸の歌会に招かれなかったため、粗末な格好で乗り込み、「才能は決してそこいらの方々に比べ劣っていない。自分のような名歌人が招かれぬはずがない」と言ってまわり、襟首をつかまれて追い出された、というエピソードが今昔物語にあるくらいです。
47. 恵慶法師 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋はきにけり(拾遺集)
恵慶法師 (えぎょうほうし。生没年不祥、10世紀頃の人)。播磨国(兵庫県)の講師(こうじ=国の僧侶らの監督)だったらしい。清原元輔、大仲臣能宣、平兼盛らの一流歌人と親交を結んでいた。
現代語訳 つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。
※この和歌は、あるとき恵慶法師が河原左大臣 源融の別荘を訪れたとき、その屋敷の寂れた様子を見て詠んだ和歌だと言われています。その別荘は「河原院」と呼ばれていましたが、恵慶法師の時代では、すでに100年近く経っていて、源融の曾孫・安法法師が住んでいたと言われています。
48. 源 重行 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな(詞花集)
源重之 (みなもとのしげゆき?~1000?年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。清和天皇の曾孫。地方官を歴任。陸奥守に左遷された藤原実方とともに陸奥に下って没した。
現代語訳 風が激しいせいで岩を打つ波が、自分だけで砕け散るように、私だけが砕け散るような片思いにふけるこのごろだなあ。
49. 大中臣能宣朝臣 御垣守衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ(詞花集)
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ、921~991年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。伊勢大輔の祖父。神官。
現代語訳 皇宮警備の衛士の焚く火が、夜は燃えて昼は消えることをくり返すように、私の恋の炎も夜は燃えて昼は消えることをくり返しながら、物思いにふける日々が果てしなく続くのだ。
※『古今六帖』に、「みかきもり 衛士のたく火の 昼は絶え 夜は燃えつつ 物をこそ思へ」が、読み人知らずの歌として載っているため、この歌は、大中臣能宣の作ではないとする説が有力。
50. 藤原義孝 君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな(後拾遺集)
藤原義孝(ふじわらのよしたか、954~974年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。伊尹(謙徳公)の子。行成(三蹟の一人)の父。天然痘により兄挙賢と同日死去。
現代語訳 君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては、長くありたいと思うようになったよ。
sechin@nethome.ne.jp です。
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