紫式部日記第二部第二章の四 日本紀の御局と少女時代回想
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ心憂きしりうごとの多う聞こえはべりし。
内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、
「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」
と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、
「いみじうなむ才がる」
と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。
この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし。
それを、「男だに才がりぬる人は、いかにぞや。はなやかならずのみはべるめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。
読みし書などいひけむもの、目にもとどめずなりてはべりしに、いよいよかかること聞きはべりしかば、いかに人も伝へ聞きて憎むらむと、恥づかしさに、御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを、宮の御前にて『文集』の所々読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより、「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる、隠しはべり。
宮もしのびさせたまひしかど、殿も内裏もけしきを知らせたまひて、御書どもをめでたう書かせたまひてぞ、殿はたてまつらせたまふ。まことにかう読ませたまひなどすること、はた、かのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかに誹りはべらむものと、すべて世の中ことわざしげく憂きものにはべりけり。
現代語訳
左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。
内裏の主上様が『源氏物語』を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、
「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ」
と、仰せになったのを、ふと当て推量に、
「たいそう学識を鼻にかけている」
と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。
わたしの弟の式部丞という人が、子供で漢籍を読んでいました時、側で聞き習っていて、弟は理解するのが遅かったり、すぐに忘れるところがあったりしたのを、わたしは不思議なほど習得が早かったので、漢籍の学問に熱心であった心父親は、「残念なことだ。男子でなかったのが不幸なことであった」と、いつも嘆いておられました。
それなのに、「男性でさえ学識を鼻にかける者は、どのようなものでしょうか。栄達はしないもののようですよ」と、だんだんと人が言うのを耳にするようになってからは、一という漢字さえ書くことをしませんので、まったく無学であきれる様でいます。
かつて読んだ漢籍などといったものは、目にもとめなくなっていましたのに、ますますこのような渾名を聞きましたので、どんなに人が伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字句をさえ読まない顔をしていましたのに、中宮様の御前で『白氏文集』の所々を読ませなさったりなどして、その方面のことをお知りになりたげなご意向であったので、たいそうこっそりと女房の伺候していない何かの合間合間に、一昨年の夏ごろから、「新楽府」といふ書物二巻を、きちんとではないがお教え申し上げていますが、このことも隠しています。
中宮様もお隠しになっていましたが、殿も主上も様子をお知りになって、漢籍類を立派に書家にお書かせになって、殿は中宮様に献上なさる。本当にこのようにわたしに読ませなさったりすることは、それでもやはり、あの口うるさい内侍は、まだ聞きつけていないでしょう。これを知ったならば、どんなに悪口を言いましょうかと、総じて世の中というものは煩雑で嫌なものでございますね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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