瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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百人一首61~70を調べてみました。

61 伊勢大輔 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな(詞花集)
 伊勢大輔(いせのたいふ、生没年不詳)は平安中期の歌人。伊勢の祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。能宣の孫。高階成順の妻。中宮彰子に仕えました。
現代語訳 昔の奈良の都の八重桜が(献上されてきて)、今日、京都の宮中に一層美しく咲きほこっていることですよ。
※「いにしへの」の歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものです。
62 清少納言   夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ(後拾遺集)
 清少納言(せいしょうなごん、本名・生没年不詳)は平安中期の作家・歌人。清原元輔の娘。深養父の曾孫。中宮定子に仕えました。『枕草子』の作者。和漢の学に通じ、平安時代を代表する女流文学者となりました。
現代語訳 孟嘗君は、深夜に鶏の鳴きまねを食客にさせて、函谷関の関守をだまして通り抜けましたが、逢坂の関は決して許さないでしょう。 ― あなた(藤原行成)は、翌日に宮中の物忌があるから鶏の声にせきたてられて帰ったと弁解しますが、そんな嘘は私には通用しませんよ。あなたは深夜に帰ったのであって、朝まで逢瀬を楽しんだのではないのですから、いい加減なことはおっしゃらないでください。
※ある夜、清少納言のもとへやってきた大納言藤原行成(ゆきなり)は、しばらく話をしていましたが、「宮中に物忌みがあるから」と理由をつけて早々と帰ってしまいます。翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文をよこした行成に、清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」と答えるのです。
63 左京大夫道雅 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな(後拾遺集)
 左京大夫道雅 (さきょうのだいぶまちまさ) 藤原道雅 (ふじわらのみちまさ、993~1054年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原伊周の子。関白道隆・儀同三司母の孫。父伊周の失脚に加え、当子内親王との密通事件などの悪行によって、家柄に比べて職位ともに低くとどまった。
現代語訳 今はただ(恋愛を禁じられて監視されているいる)あなた〔前斎宮当子内親王〕への思いをあきらめてしまおうということだけを、人づてではなく直接お目にかかってお話しする方法があればなあ。
※幼い頃に父親が 失脚、さらに24~5歳の頃にこの歌に描かれた恋愛事件によって三条院の怒りを買い、生涯不遇でした。従三位左京太夫となりましたが、『小右記』によれば、法師隆範を使って花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したりと乱行の噂が絶えなかったようで「悪三位」の呼称があります。
 64 権中納言定頼 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木(千載集)
 権中納言定頼 (ごんちゅうなごんさだより) 藤原定頼(ふじわらのさだより、995~1045年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原公任の子。容姿端麗で社交的な反面、小式部内侍をからかった時に即興の歌で言い負かされてそそくさと逃げ帰るなど軽率なところがあったといいます。
現代語訳 朝がほのぼのと明けるころ、宇治川の川面に立ちこめていた川霧がところどころ晴れていって、その合間から現れてきたあちこちの瀬に打ち込まれた網代木よ。
※     相模や大弐三位などと関係を持ったといいます。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたということです。

65 相模 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ(後拾遺集)
 相模(さがみ、生没年不詳)は平安中期の歌人。相模守大江公資(きんより)の妻。公資と離婚後、多数の男性と関係を持って評判になったといいます。
現代語訳 恨みに恨みぬいて、ついには恨む気力すら失って、涙に濡れた袖が乾く暇もありません。そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、恋の浮名で朽ちてしまうであろう私の評判がなおさら惜しいのです。
※歌論集「八雲御抄(やくもみしょう)」では赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。しかし実生活では悩みが多く、公資と別れた後、権中納言藤原定頼(さだより)や源資道(すけみち)と恋愛しましたが上手くいきませんでした。一条天皇の第一皇女、脩子内(しゅうしない)親王の女房となり、歌人としての評価を固めました。

66 前大僧正行尊 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし(金葉集)
 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん、1055~1135年)は平安後期の僧、歌人。源基平の子。天台座主、大僧正。
現代語訳 山桜よ、私がお前を見て趣深く思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。私にはお前以外に知人はいないのだから。
※行尊は、修験道の行者として熊野や大峰の山中で厳しい修行を積んだ人です。修験道の行者はいわゆる山伏。山中で厳しい修行を積んで霊力を得、悪霊を退散させたり憑き物を祈祷で払って病気を治したりと、さまざまな霊験を露わにします。そうした能力を得るために、不眠不休で食事も取らずに山を駆けたり厳しい修行を長く行いました。
 この歌は「金葉集」の詞書によると、大峰(現在の奈良県吉野郡の大峰山)で偶然山桜を見かけて詠んだ歌だそうです。厳しい修行の最中にふと目の前に現れた山桜。それは行尊にとってどれほど心を慰めるものだったでしょうか。人っ子ひとり見えない山奥に咲く美しい桜は、作者にとって天からの賜り物のように見えたかもしれません。
 つい、桜を人に見立て「一緒にしみじみ愛しいと感じておくれよ、山桜。お前の他に私の心を分かってくれる者はここにはいないのだから」と孤独をわかちあっています。清廉な印象のある歌ですが、それは毎日の厳しい修行に対する一服の清涼剤の役割を、山桜が果たしてくれたからでしょう。
67 周防内侍 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ(千載集)
 周防内侍(すおうのないし、生没年不詳)は平安後期の歌人。周防守平棟仲の娘か。仲子。後冷泉天皇から堀河天皇まで4代約40年にわたり女官として仕えた。
現代語訳 春の短い夜の夢ほどの添い寝のために、何のかいもない浮名が立ったとしたら、本当に口惜しいことです。
68 三条院 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな(後拾遺集)
 三条院 (さんじょういん) 三条天皇(976~1017年、在位1011~1016年、第67代天皇)は冷泉天皇の第二皇子[居貞(おきさだ・いやさだ)親王]。多病と藤原道長の専横により、後一条天皇に譲位。
69 能因法師 嵐吹く み室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり(後拾遺集)
 能因法師(のういんほうし) 橘永愷(たちばなのながやす、988~?年)は平安中期の歌人。橘諸兄の後裔。藤原長能に和歌を学ぶ。文章生となった後に出家。
現代語訳 嵐が吹く三室の山のもみじの葉は、竜田川の水面に落ちて、川を錦に織りなすのだ。
※摂津国古曾部(こそべ。今の大阪府高槻市)で生まれ、そこで住んだので「古曾部入道」などとも呼ばれます。東北や中国地方、四国などの歌枕を旅した漂泊の歌人でもあります。
70 良暹法師 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ(後拾遺集)
 良暹法師(りょうぜんほうし) 良暹(生没年不詳)は平安中期の歌人。比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれています。
現代語訳 さびしさに耐えかねて家を出てあたりを見渡すと、どこも同じ寂しい秋の夕暮れだ。


 


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