瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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宇治拾遺物語 巻第三 三三五 小式部内侍定頼卿の経にめでたる事
 今は昔小式部内侍に定頼中納言物云ひ渡りけり それにまた時の関白通ひ給ひけり 局に入りて臥し給ひたりけるを知らざりけるにや中納言寄り来て敲きけるを局の人 かく とや云ひたりけん沓をはきて行きけるが少し歩みのきて経をはたと打あげて読みたりけり 二声ばかりまでは小式部内侍きと耳を立つるやうにしければこの入りて臥し給へる人 怪し と思しけるほどに少し声遠うなるやうにて四声五声ばかり行きもやらで読みたりける時 う と云ひてうしろざまにこそ伏し反りたれ
 この入り臥し給へる人の さばかり堪へ難う恥かしかりし事こそなかりしか と後に述給ひけるとかや

現代語訳
 昔、小式部内侍に、中納言・藤原定頼が情を交わしていた それにまた、時の関白・藤原教通も通っていた 局に入って、臥していたのを知らなかったのか、中納言がやって来て、戸を叩くので、局の人が しかじか と言ったのだろう、沓を履いて行ったが、少し歩み退き、経をいきなり声高に読みはじめた 二声ほどまでは、小式部内侍が、急に耳を立てるようにしたので、この入って臥していた人が あやしい と思っていると、少し声が遠くなるようで、四声五声ほど、行きもせず読んだ時 わっ と言って、後ろへのけぞり返ってしまった この入って臥していた人が あのときほど堪えがたく恥ずかしかったことはなかった と、後に語ったという

西行上人談抄
   水もなく 見え渡る哉 大堰川 きしの紅葉は 雨とふれとも
 此歌は、中納言定頼歌なり。一條院御時大堰川の行幸に、歌よませられける時、四條大納言わが歌はいかでありなん。中納言よくよめかしと思はれけるが、すでに此歌を、水もなく見えわたる哉大堰川とよみあげたるに、はや不覚してけりと顔の色を違えて思はれたるに。きしの紅葉は雨とふれどもとよみあげたりけるに、秀歌仕りて候けりといひて、顔の色出来てぞ思はれける。上句平懐なれども、かようによき歌もあり。

※一条天皇の大堰川行幸のお供で、定頼が歌を詠ませられた時のことです。大堰川は今の嵐山渡月橋付近から桂橋までの称で、今も紅葉の名所で有名です。
 父である藤原公任も同席していました。一条天皇の大堰川行幸が何年だったかは不明ですが、一条天皇の崩御の1011年、定頼は16歳でしたので、行幸当時はもっと若く、父の公任は、巧く詠んでくれるとよいがと、さぞや気をもんだと思われます。定頼の歌が読み上げられます。
   「大堰川の水も無く、見え渡ることよ」
 公任は「早くも失敗している」と思い、顔色を失いました。大堰川の水は目の前に滔々と流れています。水も無く、とはとんでもないことです。続きが読み上げられます。
   「岸の紅葉は、雨のように川面に降っているというのに」
 公任、「秀歌を献上したことよ」と喜んで、顔色を取り戻しました。雨のように降り注ぐ紅葉の葉で、水も見えぬほどおおい尽くされた大堰川。「水もなく」の謎解きが、下の句でされました。一条天皇、公任を始めとして、同席した全ての人が、下の句を聞いて、あっと驚いたに違いありません。
 『西公談抄』の著者、蓮阿の感想で、この話は締めてあります。「上の句はつまらないけれど、このようによい歌もある」と。


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