『古本説話集』九「伊勢大輔の歌の事」
今は昔、紫式部、上東門院に、うた読みいふものにて、さぶらふに、大斎院より、春つ方、「つれづれにさぶらふに、さりぬべきものがたりや候ふ」と、たづね申させ給ひければ、御そうしども、とりいださせ給ひて、「いづれをか、まゐらすべき」など、えりいださせ給ふに、むらさき式部、「みなめなれてさぶらふに、あたらしくつくりて、まゐらせ給へかし」と申しければ、「さらばつくれかし」とおほせられければ、源氏はつくりて、まゐらせたりけるとぞ。
いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにてさぶらふほどに、伊勢大輔まゐりぬ。それもうたよみのすぢなれば、殿、いみじうもてなさせ給ふ。ならより、としに一度、やへざくらををりて、もてまゐるを、紫式部、とりつぎてまゐらせなど、うたよみけるに、式部、「ことしは、大輔にゆづり候はむ」とて、ゆづりければ、とりつぎてまゐらするに、との、「遅し遅し」と仰せらるる御声につきて、
・いにしへの奈良都の八重桜けふここのへににほひぬるかな
とりつぎつるほどほどもなかりつるに、いつのまにおもひつづけけむと、人もおもふ、殿もおぼしめしたり。
めでたくてさぶらふほどに、ちじの中納言のこの、ゑちぜむのかみとて、いみじうやさしかりける人の妻に成りにけり。
現代語訳
今となっては昔のことですが、紫式部が、上東門院(彰子、一条天皇皇后)に、優れた歌人として仕えていたが、大斎院(選子内親王、当時、文化的なサロンを形成して趣味のよい貴婦人として知られていた)から、春のことで、「退屈でございますので、しかるべき(おもしろい)物語などございますか?」と、おたずねがありましたので、物語の草子など、お取り出しになって、(上東門院が)「どちら(の物語)を、(大斎院に)さしあげましょうか」などと、お選びになったとき、紫式部が、「みんな見慣れたものでございますから、新しく(物語を)作ってさしあげなさいませ。」と申し上げましたので、(上東門院は)「それなら(おまえが)作りなさい」とおっしゃっり、源氏物語を作って、さしあげたということです。
(紫式部は)いよいよ心づかいの優れた、すばらしい女房として(上東門院に)お仕えしているうちに、伊勢大輔が(上東門院に女房として)参上しました。彼女も歌人の家系なので、殿(上東門院の父、藤原道長)は、たいそう大切になさいました。奈良から、毎年一度、八重桜を折って、(上東門院に)持って参るのを、紫式部は、(桜を)とりついで(上東門院に)さしあげなどして(慣例として)、歌を詠んでいましたが、紫式部が、「ことしは、伊勢大輔に(歌を詠む役を)お譲りしましょう」と言って、譲りましたので、(桜を)とりついでさしあげるのに、殿(道長)が、「(歌を詠むのが)遅いぞ遅いぞ」とおっしゃるお声について、(伊勢大輔がこう詠んだ)
いにしへの奈良都の八重桜けふここのへににほひぬるかな
(古い奈良の都の八重桜が 今日 ここのえ(このあたり、と宮中の掛詞)に咲き匂っていることですね)
取り次ぐあいだの時間が(わずかしか)なかったのに、いつのまに(こんな歌を)思いついたのだろうと、(そこにいた)人も思い、殿(道長)もお思いになりました。
(彼女は)すばらしい女性だったので、おやめになった中納言の息子が、越前守になっていて、たいそう優しかった(趣味もよい)人の妻になったのでした。
sechin@nethome.ne.jp です。
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