紫式部日記『和泉式部と清少納言』
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。
うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。
ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみ添へ侍り。
それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌も詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢには侍るかし。
恥づかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず。
清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人。
さばかりさかしだち、真名(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにも侍るべし。
そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。
現代語訳
和泉式部という人は、趣深く手紙をやり取りした(人です)。しかし、和泉式部には感心しない面がある。
気軽に手紙を走り書きした時に、その方面の才能のある人で、ちょっとした言葉の、つやのある美しさも見えるようです。歌は、たいそう興味深いものですよ。
古歌についての知識や、歌の理論、本物の歌人というふうではないようですが、口にまかせて詠んだ歌などに、必ず趣深い一点で、目にとまるものが詠み添えてあります。
それほど(の歌人)であるのに、他の人が詠んだ歌を非難したり批評したりしているようなのは、いやもうそれほどまで(和歌を)心得てはおらず、口をついて実に自然と歌が詠まれるようだと、思われる(和歌の)作風でございますよ。
(こちらが)恥ずかしくなるほどのすばらしい歌人だなとは思われません。
清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人(です)。
あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております(その)程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い。
このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう。
その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか。(いや、よくないでしょう。)
sechin@nethome.ne.jp です。
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