古今著聞集 (能因法師と白河の関)
能因法師は、いたれるすきものにてありければ、
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」
とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、
「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。
現代語訳
能因法師は、とても風流人で、
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」
と詠んだのを、都にいてこの歌を披露することは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当たって焼いてから
「みちのくに修行したついでに歌を詠みました。」と披露しました。
※実際には、奥州行脚の折りに詠まれたということです。現代と違い当時は、都を春に立っても秋に着くのですから、まさしく「みちのおく」ですね。
芭蕉が奥の細道で能因法師を引用している所をピックアップしてみましょう。
1. 白河の関
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。
「いかで都へ」
と便り求しも理なり。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉のこずえなほあはれなり。
卯の花の白妙(しろたえ)に、いばらの花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
現代語訳
不安で落ち着かない日々を重ねるうちに、白河の関にさしかかって旅をするんだという心が決まった。
(昔、平兼盛が白河の関を越えた感動を) 「どうにかして都に(伝えたい)。」
と(思いを伝える)つてを求めたのも理にかなっている。数ある関所の中でも(この白河の関は)三関の1つに数えられ、風雅の人が心を寄せる場所である。能因法師の歌を思い出すと、秋風が耳に残るようであり、源頼政の歌を思い出すと、今はまだ青葉である梢の葉もよりいっそう趣深く感じる。
卯の花が真っ白に咲いているところに、いばらの花が咲き混じっていて、雪の降る白河の関を越えるような心地がする。昔の人たちは、冠を正し衣装を改めてから関を越えたということが、藤原清輔の書き物にも記されている。
卯の花を花飾りにして、白河の関を越えるための晴れ着としよう 曾良
※いかで都へ:平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」を引用
※秋風:能因法師が詠んだ「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」を引用
※紅葉:源頼政が詠んだ「都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散り敷く白河の関」を引用
2. 武隈の松
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)、むつのかみにて下りし人、此木を伐(きり)て名取川の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ふものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月超し
現代語訳
武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。
まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。
そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。
その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。
門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。
武隈の松見せ申せ遅桜
(遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください)
今それに答えるような形で、一句詠んだ。
桜より松は二木を三月超シ
(桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ)
※松は此たび跡もなし:「後拾遺和歌集」に能因法師が詠んだうたとして、
みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ とあります。
3. 野田の玉川(塩釜付近 沖の石、末の松山といっしょに出てくる)
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。
松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
其夜目盲法師*の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
現代語訳
それより、能因法師の歌「夕されば汐風こえて陸奥(みちのく)の野田の玉川鵆(ちどり)なく也」で有名な野田の玉川、二条院讃岐の「我恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」と詠まれた沖の石を訪ねた。
古今集の歌「君をゝきてあだし心をわがもたば末のまつ山波もこえなむ」や、藤原元輔の歌「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつゝすゑの松山波こさじとは」などで有名な末の松山だが、今では寺をつくってこれを末松山という。松林の中はいたるところ墓場で、この歌のように比翼連理の契りを結んだとはいえ、終のすみかはここなのかと、悲しい想いをしながら、「みちのくのいづくはあれど塩がまの浦こぐ舟の網手かなしも」と詠まれた塩がまの浦の入相の鐘を聞いた。
五月雨の空もうっすらと晴れて、夕月夜のうすくらがりの中に、「我せこをみやこにやりて塩がまの笆の島にまつぞわびしき」と歌に詠まれた籬が島もほど近い。蜑たちが小舟を連ねて港に戻ってきて、魚を分ける声に「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の網手かなしも」と読んだ源実朝の心も偲ばれてもののあわれを感じることひとしお。
その夜、盲目の琵琶法師たちの演ずる奥浄瑠璃というものを聴いた。平家琵琶でもなく、幸若舞でもない。ひなびた調子を寝ている枕近くで語るのでうるさくもあるのだが、こんな辺境に、忘れずに古来の伝統を残していることは殊勝なことだと感じ入った。
4. 象潟
江山水陸の風光数を尽くして、今象潟(きさかた)に方寸を責む。酒田の港より東北の方、山を越え、 磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、 雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の 晴色またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。
その朝、天よく霽(は)れて、 朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居 の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老い木、西行法師の 記念(かたみ)を残す。
江上に御陵(みささぎ)あり、神功后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。 この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の 中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、 道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越といふ。江の 縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。 寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何食ふ神祭 曾良
蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 低耳
岩上にみさごの巣を見る
波越えぬ契りありてやみさごの巣 曾良
現代語訳
海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。
象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。
太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。
暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。
次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。
まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。
それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。
水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。
この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。
南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。
北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。
寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。
象潟や雨に西施がねぶの花
(意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。蘇東坡(蘇拭)の詩「飲湖上初晴後雨(湖上に飲む、初め晴れ後雨ふる)」を踏まえる。「西湖をもって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃沫総て相宜し」 汐越や鶴はぎぬれて海涼し
(意味)汐越の浅瀬に鶴が舞い降りた。その脛が海の水に濡れて、いかにも涼しげだ。衣が短くすねが長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、まさに鶴はぎだなぁと感心した。
ちょうど熊野権現のお祭りに出くわした。
象潟や料理なに食ふ神祭り 曾良
(意味)熊野権現のお祭りにでくわす。海辺の象潟であるのに、熊野信仰によって魚を食べるのを禁じられ、何を食べるのだろうか。
蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳
(意味)漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台のかわりにして、夕涼みを楽しんでいる。風流なことだ。
岩の上にみさごが巣を作っているのを見て、
波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良
(意味)岩場の、いかにも波が飛びかかってきそうな危うい位置にみさごの巣がある。古歌に「末の松山波こさじとは」とあるが、強い絆で結ばれたみさごの夫婦なんだろう。
※ 蜑(あま)の苫屋:世の中はかくても経けり象潟の蜑の苫屋をわが宿にして(能因法師 後拾遺集)
(歌意)人の世というのは、こんなふうにしてもどうにか暮らせるものだったよ。象潟の海人の小屋を自分の住まいにして。
※飲湖上初晴後雨:
飲湖上初晴後雨(湖上に飲す初めは晴れ後に雨降る)
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れてまさに好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨も亦奇なり
欲把西湖比西子 西湖を把って西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧濃抹(たんしょうのうまつ)総べて相い宜し
訳) 晴れた日は光り輝く水の面
雨の日は 風情を添える霧の山
西湖を西施にたとうれば
派手な着物も美しく、地味な身なりもまた似合う
sechin@nethome.ne.jp です。
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