金葉集(巻8・恋下・再奏本469、三奏本464)
堀河院御時艶書合によめる 中納言俊忠
人しれぬ思ひありその浦風に なみのよるこそいはまほしけれ
返し 一宮紀伊
音にきくたかしのはまのあた波は かけしや袖のぬれもこそすれ
※ 歌合の中でも「艶書合(えんしょあわせ・けそうぶみあわせ)」という趣向で詠まれたものです。艶書合とは、男が女に求婚の歌を詠み、女がそれに応える歌を詠むのを一つがえにした歌合せです。
「堀川院艶書合」は康和4年(1102)年閏5月に内裏で行われました。
まず藤原俊忠が詠みます。俊忠は俊成の父です。
人知れぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ
歌の意味は、「人知れず貴女に思いがあるから、有磯の浦風に乗って、波が岸に寄るように、夜お会いしたい」というものです。
有磯の浦は越中の歌枕で、大伴家持が歌に詠んだことにより生まれました。もとは漠然と越中の海をさしていましたが、後に場所が決められ、松尾芭蕉も『おくのほそ道』の旅の中で訪れています。それに応えたのが、紀伊のこの歌です。
俊忠の歌が「波」で詠んだので同じく「波」で応え、歌枕「有磯の浦」に対しても同じく歌枕「高師の浜」で応えたのです。
技巧が込んだ中にも艶っぽいやり取りで、洗練された貴公子と才女の晴れやかな姿が目に浮かぶようですが…この年、俊忠は29歳。対する紀伊は70歳すぎだったと言われています。若い頃素敵な殿方とこんな歌のやり取りをしていたら…などと、楽しみながら詠んだのかもしれません。
奥の細道 越中路
黒部四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出(い)づ。
担籠(たご)の藤浪は春ならずとも、初秋(はつあき)の哀れとふべきものをと人に尋ぬれば、「これより五里いそ伝ひして、むかふの山陰(やまかげ)にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ」といひをどされて、加賀の国に入(い)る。
わせの香や 分入右は 有磯海
現代語訳
「黒部川48が瀬」(黒部川の河口近くにある無数の分岐のことをこう称した)というが、数もわからないほどの川を渡って、那古《なご》という浦(歌枕。かつては海だったが芭蕉がいたときは湖になっていた)に出た。担籠の藤波《たこorたごのふじなみ》(歌枕。担籠は地名で、藤波とは藤の花が波のように揺れているように見える景色のこと)は、たとえ(花の咲く)春でなくても、初秋の哀《はつあきのあわれ》(初秋ならではの情趣、の意だが、あえて古い時代の読み方が推奨されている)は見られるだろうと思い、人に尋ねたところ、「ここから5里海岸沿いに行き、向こうの山陰に入ったところにあるが、漁師の粗末の家がいくつかあるだけなので、一夜の宿を貸す者はいないでしょう」と脅されるように言われ、加賀の国(能登の国を除いた現在の石川県)に入った。
わせの香や分(け)入(る)右は有磯海《ありそうみ》
(早稲の香りのする稲穂畑を分け入って進み、加賀の国へ入ろうとしている。その右手には、行こうと思ったが叶わなかった有名な歌枕、有磯海が広がっている)
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