瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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無名抄 第27話 貫之躬恒の優劣
 俊恵法師語りていはく、
「三条の大相国、非違(ひゐ)の別当と聞こえける時、二条の帥(そち)と二人の人、躬恒・貫之が劣り勝りを論ぜられけり。かたみにさまざま言葉を尽くして争はれけれど、さらにこときるべもあらざりければ、帥いぶかしく思ひて、『御気色(けしき)を取りて勝劣きらむ』とて、白河院に御気色給はる。仰せにいはく、『われはいかでか定めむ。俊頼などに問へかし』と仰せごとありければ、ともにその便(びん)を待たれけるほどに、二、三日ありて、俊頼まゐりたりけり。帥このことを語り出でて、初め争ひそめしより、院の仰せのおもむきまで語られければ、俊頼聞きて、たびたびうちなづきて、『躬恒をば、なあなづらせ給ひそ』といふ。帥思ひのほかに覚えて、『されば貫之が劣り侍るか。ことをきり給ふべきなり』と責めけれど、なほただ同じやうに、『躬恒をばあなづらせ給ふまじきぞ』といひければ、『おほしおほしことがら聞こえ侍りにたり。おのれが負けになりぬるにこそ』とて、からきことにせられけり。躬恒が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」
とぞ。
現代語訳
 俊恵法師が語って言うことには、
「三条の太政大臣(藤原実行)が検非違使の長官と申し上げていた時、二条の帥(藤原俊忠)とふたりで、躬恒と貫之の優劣を論じ合われた。お互いにさまざまに言葉を尽くして論争をなさったが、いっこうに決着する様子がないので、帥がはっきりさせたいと考えて、『白河院の御意向をお伺いして優劣を決めよう』ということで、白河院に御意向を仰ぐ。白河院の仰せによるところでは、『予がどうして決められようか。俊頼などに問うがいい』とのことだった。そのような仰せがあったので、ふたりとも機会を待っていると、二、三日して俊頼(源俊頼)が参上した。帥はこの件について語り出し、最初に優劣を論じ始めてから、院の仰せの趣旨までお話しになったので、俊頼は話を聞いて、幾度も頷いて、『躬恒のことを、侮りなさいますな』と言う。帥は意外にお感じになって、『それならば貫之が劣っているのですな。躬恒のほうが優れているとお定めになるべきでしょう』と促したが、俊頼が依然としてただ同じように『躬恒のことを侮りなさるべきではありませぬぞ』と言ったので、『大体おっしゃっていることは理解できました。貫之が優れていると考えていた私の負け、ということですな』と、負けたことを辛くお思いになった。躬恒の詠みぶりの、深く思いを歌にこめてある趣は、他に並ぶものがないものだ」
ということだ。

無名抄 第28話 俊頼歌を傀儡歌ふ事
 富家の入道殿に、俊頼朝臣候ひける日、かがみの傀儡(くぐつ)ども参りて歌つかうまつりけるに、神歌になりて、
  世の中はうき身に添へる影なれや思ひ捨つれど離れざりけり
 この歌を歌ひ出でたりければ、俊頼、「至り候ひにけりな」とて居たりけるなん、いみじかりける。
 永縁僧正、このことを伝へ聞きて、羨みて、琵琶法師どもを語らひて、さまざま物取らせなどして、わが詠みたる、「いつも初音の心地こそすれ」といふ歌を、ここかしこにて歌はせければ、時の人、「ありがたき数寄人(すきびと)」となん言ひける。
 今の敦頼入道、またこれを羨ましくや思ひけん、物も取らせずして、盲(めくら)どもに「歌へ歌へ」と責め歌はせて、世の人に笑はれけりと。

現代語訳
 ([源俊頼の歌を、人形使いが口にした話]
 藤原忠実のお邸に俊頼朝臣がお仕えしていた時、鏡の宿の人形遣いたちが参上して、歌をお詠み申し上げたそうだが、神事に関する歌を詠む時になって、
   俗世(への妄執)というものは、つらい我が身に添っている影のようなものなのか、(どちらも)いくら切り捨てても、(我が身から)離れないなあ。
 (源俊頼の)この歌を永縁僧正が、この話を伝え聞いて、羨ましく思って、琵琶法師などを説得して、各種のご祝儀を与えたりして、(永縁法師)本人が詠んだ、「いつも初音の心地こそすれ」という歌を、あちらこちらで歌わせたそうですが、(その話を聞いて)当時の人々は、「(そんなにまでして自分の歌を広めようとするのは)めったにない風流人だ」といったそうだ。
 現在も存命の敦頼入道が、この話を聞いて、羨ましく思ったのだろうか、ご祝儀も与えずに、盲人たちに、「(私の)歌を歌え」と無理矢理歌わせて、世間の笑いものになった、という話です。


無名抄 第32話 腰句の終のて文字難事
 またいはく、「雲居寺(うんごじ)の聖のもとに、秋の暮の心を、俊頼朝臣
  明けぬともなを秋風の訪づれて野辺の気色よ面変(おもがは)りすな
 名を隠したりけれど、これを「さよ」と心得て、基俊いどむ人にて、難じていはく、『いかにも、歌は腰の句の末に、て文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。支(ささ)へて、いみじう聞きにくきものなり』と、口くち開かすべくもなく難ぜられければ、俊頼はともかくも言はざりけり。その座に伊勢の君琳賢がゐたりけるなん、『異(こと)やうなる証歌こそ、一つ覚え侍れ』と言ひ出でたりければ、『いでいで、承はらむ。よも、ことよろしき歌にはあらじ』と言ふに、
  「桜散る木の下風は寒からで
と、果てのて文字を長々と長めたるに、色真青(まさを)になりて、物も言はずうつぶきたりける時に、俊頼朝臣は忍びに笑はれけり」

現代語訳
 また、ある人が言うには、「雲居寺の聖のところで(歌合せをした時)、秋の暮(秋の終わり)という題で、俊頼朝臣が(こんな歌を詠んだ)、
    明けぬとも猶秋風の訪れて野邊の氣色よ面變りすな
   (夜が明けて冬になっても、やはり秋風が吹いてきて、野辺の秋の景色よ その美しさを変えてくれるな)


 作者名を隱していたが、(基俊は)この歌を『それだ(俊頼の歌だ)』と気がついて、基俊は対抗心の強い人なので、批判して言いました。『なんといっても和歌は、腰の句(三句)の末に、「て」という文字を置くことは、よいことではありません。(歌の流れが)つかえて、たいそう聞きにくいものです』と、他人が口をはさむ余地もないほど(きっぱりと)批判されたので、俊頼はなんともかんとも言わなかったのだった。
 その座に伊勢の君琳賢が居あわせていたが、『いっぷう変わった引き歌を一首思い出しました』と言い出したので、(基俊は)『さあさあ、うかがいましょう。まさか取り柄のある歌ではありますまい』と言うので、
 (琳賢は)「櫻散る木の下風は寒からで」(紀貫之の有名な歌)と、末の「て」の文字を長々と声を伸ばして詠じたところ、(基俊は)顔色が真っ青になって、物も言わずにうつむいた時に、俊頼朝臣は声を忍んで笑ったのだった」ということだ。
※○俊頼:源俊頼朝臣(1055~1129年)経信の子。金葉和歌集の撰者。
 ○基俊:藤原基俊(1060~1142年)万葉集を研究し、訓点をつけた。
 ○琳賢:(~1134年頃)橘氏。
 ○櫻散る木の下風は寒からで:桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける(拾遺集 春 紀貫之)
    桜が散る木の下を吹く風は寒くはないが、空に知られぬ雪が降ることだ


 


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