瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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無名抄 第33話 琳賢基俊をたばかる事
 いかなりけるにか、かの琳賢は、基俊と仲のあしかりければ、「たばからん」と思ひて、ある時、後撰の恋の歌の中に、人もいと知らず耳遠き限り二十首を撰出して、書き番(つが)ひて、かの人の許へ持て行きけり。「ここに、人の異様(ことやう)なる歌合をして、勝ち負けを知らまほしうし侍るに、墨付けて給はらん」とて、取りて出でたりければ、これを見て、後撰の歌といふこと、ふつと思ひ寄らで、思ふままに、様々(やうやう)に難ぜられたりけるを、ここかしこに持て歩きて、「左衛門佐にあひぬれば、梨壺の五人が計らひももものならず。あはれ、上古にもすぐれ給へる歌仙かな。これ、見給へ」とて、軽慢(きやうまん)しければ、見る人、いみじう笑ひけり。基俊、返り聞きて、安からず思はれけれども、甲斐なかりけり。

現代語訳
 どういう原因だったのだろうか、その琳賢は、基俊と仲が悪かったそうで、「(基俊を)引っ掛けてやろう」と思って、ある時、『後撰和歌集』の「恋の部」の歌の中で、誰もあんまり知らない、評判になっていない歌だけ二十首を撰び出して、(まるで歌合(うたあはせ)の記録であるかのように)対(つい)に書き出して、(そのニセの記録を)、かの基俊のもとへ持って行ったという。(そして、)「ここに、誰かが普通ではない歌合をして(しまいましたが、まだ判定が下っていないので、それぞれの題について、左右のどっちが)、勝ちか負けかを知りたがっておりますので、判定を書いていただけないでしょうか」といって、取り出したところ、それを見て(基俊はそれが)『後撰和歌集』の歌であるなんてさっぱり思いつくことなく、ノリにノって、あれやこれやとさまざまに(歌に対する)非難を(書き込み)なさったので、(その書き込みを)あちらこちらに(琳賢が)持って回って、「左衛門佐・基俊殿に対面すると、(『後撰和歌集』の撰者であらせられる)「梨壺の五人」の熟考(して選び抜いた歌)でさえ、物の数ではない(ことになります、だって、「梨壺の五人」が撰んだ歌を、ボロクソにけなしてるんですから)。ああ(、すると基俊は、「梨壺の五人」が束になっても適わないのだから)、大昔の偉大な歌人以上に優れていらっしゃる、(いわば)『歌仙』でいらっしゃるなあ。(証拠として)これ(=歌合の記録にボロクソに基俊が書いた判定)を御覧ください」といって、軽んじてばかにしたのだが、(その話を)基俊が聞いて、(引っ掛けられたことは)面白くなかったが(『後撰和歌集』の歌だと気づかずにボロクソに書いたのは本当だから)、どうにもしようがなかった。

無名抄 第34話 基俊僻難する事
 俊恵いはく、「法性寺殿にて歌合ありけるに、俊頼・基俊、二人判者にて、名を隠して当座に判しけるに、俊頼の歌に、
   口惜しや雲井隠れに棲むたつも思ふ人には見えけるものを
 これを、基俊、鶴(たづ)と心得て、『田鶴(たづ)は沢にこそ棲め、雲井に棲むことやはある』と難じて、負けになしてける。されど、俊頼、その座には詞(ことば)も加へず。その時、殿下、『これ、鶴(たづ)にはあらず、龍(たつ)なり。かのなにがしとかやが、龍を見むと思へる心ざしの深かりけるによりて、かれがために現はれて見えたりし事の侍るを、よめるなり』と書きたりけり。基俊、弘才の人なれど、思ひわたりにけるにや、すべて思ひ量りもなく人のことを難ずる癖の侍りければ、あとに失の多くぞありける」。

現代語訳
 俊恵が、「藤原忠通殿のお邸で歌合(元永元年(1118)十月の「内大臣忠通家歌合」)があったそうだが、(我が父)俊頼(と)、(宿敵)基俊(の二人)が判者であって、(判詞を書いた判者の)名を隠して、その場で判定したそうだが、俊頼の(詠んだ)歌に、
  残念なことだなあ、雲の中に隠れ住む『たつ』でさえも、(強く)願っている人には姿を現すのに(私が強く愛している人は私の前に姿を見せてくれないのだ)なあ。
 この歌(の『たつ』)を、基俊が、『鶴(たづ)』だと勘違いして、『田鶴(たづ)は沢に住むけれど、雲の中に住むことなんてあるか』と非難して、負けにしてしまった(ちなみに、この時、俊頼の相手になっていたのは、基俊の歌だったから、この判定は当り前)。しかし、俊頼(は、基俊が勘違いしているのに気づきながら)、その場では、判詞を加えることもなかった(きっと誰かが基俊の誤りを指摘するだろうと信じて)。その時に、ない大臣・忠通殿が、『これは、鶴(たづ)ではなくて、龍(たつ)である。例のなんとかとかいう人(=葉公子高)が、龍を見たいという気持ちが深かった(から、龍の絵を集めまうっていたという噂をホンモノの龍が聞いた)ので、その人(=葉公)のために(ホンモノの龍が)出現して姿を見せた(けれど、その姿に葉公はびびった)、ということがありましたが、その故事を(ふまえて)読んだ歌である」と、(後に)判詞に書いたそうだ。基俊が、(自分は知識人だと)思い込んでいたのだろうか、何であれ、考えなしに他人のことを非難するくせがあったそうで、その後も失策が多かったそうだ」と語った。


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