瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
言問通りから馬道をとおり、改装中の二天門を潜る。淺草神社に立ちより、本殿や狛犬さんを写真に納める。境内の方々にはいろいろな石碑が並ぶが、これは次に機会にまわすことにする。神社の後方に被官稲荷というのがあるが、ここも改装中で防禦シートで覆われているので、改めて訪ねてみよう。
浅草寺本堂は現在鹿島建設の手で大規模な外装改修工事が行われているらしく、本堂全体がすっぽりと防禦シートに包まれている。ルーフシステム株式会社のホームページ、2008年8月5日付けの発表に曰く、「浅草寺本堂屋根改修にチタン製本瓦葺きを採用 /東京都浅草にある浅草寺本堂の屋根改修に、昨年完了した宝蔵門に続いてチタン製本瓦葺きが採用されました。/平成21年2月に着工し、平成22年11月に完工予定です。/使用するチタンは約14トンで、屋根総重量は標準的な土瓦の約13分の1まで軽減されます。/工事が始まると本堂全体が仮設屋根で覆われるため建物を見ることができなくなります。興味のある方は工事が始まる前もご覧になり、完工後どう変わるか楽しみにして頂きたいと思います。」
仲見世を南下し、雷門通りから吾妻橋をわたり、墨田区側の遊歩道を白鬚橋まで北上。白鬚橋を渡ると件の川沿いの落書き遊歩道を通って、帰宅した。昨日からの台風9号の所為か、川面にごみが浮いて汚れている。9303歩、6.0㎞を記録していた。
浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、徳川家康・大国主命を合祀するという。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったそうだが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったのである。社伝によれば、推古天皇36(628)年、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称したということである。
「童達が藜(あかざ)で仮小屋を作って安置した」ともされており、その童を祀る十社権現が江戸名所図絵の浅草寺本堂裏手(図会4の赤丸)に描かれているが、江戸名所図会では世にいう話は縁起にはないともある。浅草寺縁起は複数あるようで、承応縁起(1654、土師保底)が古形とされ、ここでは檜熊浜成と武成の二人が漁に出て仏像を拾い、村オサの土師真土知に見せたところ聖観音像であることが判って土師真土知が草堂を作ったが焼失し、645年に勝海上人(しょうかいしょうにん)が再興した、とされている。
土師氏は野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)。続日本後紀に武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとあり、檜熊浜成と武成も同族かもしれない。江戸名所図会によれば浅草神社のご神体は慈覚大師(794~864年)の作で、浅草寺の護法神とするとあるという。拾われた観音像を祀っているのが浅草寺で、当初の祠は638~645年の間に7回も火災にあったが、645年に勝海上人によって再建されこれをもって開山としている。857年に慈覚大師(天台宗、円仁)が堂塔を増築し、これを中興の祖としている。その後、安房守平公雅(930~946年頃)、(1041年地震で大破、1051年再建)、1070源義家、1146源頼朝、足利尊氏、1539北条氏、徳川家康、家光など時代の著名人の参拝や伽藍修復造営が続いている。家光造営の社殿は戦災で焼けたが浅草神社社殿と二天門は焼け残って重要文化財となっている。江戸名所図会の社殿と爺のとった写真の本殿は同じものというわけである(図会4の青丸)。
三社祭の三社とは土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命で、神託によって1312年から浅草観音船祭りが隔年ではじめられたという。御輿を浅草寺本堂に移してここから浅草橋へ渡り、浅草橋から船に乗せて駒形橋から戻る漁師の祭りであったらしい。1692に橋場付近から蔵前付近の隅田川は漁猟禁止となり、漁師が多摩川河口の大森~六郷に移転させられたために三社祭にはその漁師が参加していたということである。(浅草海苔は安房守平公雅が945年に浅草浦に黒赤青の海苔を得たのが事始めとされているがはてさていかがかな?)
江戸名所図会は事跡がたくさんあって書ききれないとあり、江戸庶民にとっての浅草の重要性がうかがえるのである。以下は江戸名所図会に書かれる境内社には、熊谷稲荷、銭塚弁財天、銭瓶弁財天、熊野権現、淡島明神、十社権現祠(縁起の10人の童を祀る)、一の権現社(顕松院阿加牟堂、10人の童が最初に作った草堂(現在の花川戸1丁目)、西宮稲荷祠(上千束稲荷、隣接して蛭子祠、地主神)などがある。
江戸名所図会の千束郷に「浅草寺の永徳四年(1387)の鐘の銘に武州豊島郡千束郷金竜山浅草寺」があるとあり、浅草が千束郷の一部であったことがわかる。浅草の地名の初出は吾妻鏡の治承5(1181)年で、鶴ヶ岡八幡宮造営で武蔵国浅草の宮大工を呼ぶ記事があり、これが最古の浅草寺の登場文献という。考古学的な出土物からは「瓦葺の浅草寺」が造営されたのは平安末期とされている。
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