瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
言問通りからジグザグコースで淺草小学校前に出る。西側の道を行くと、「嬉の森稲荷」というのがある。
台東区教育委員会の案内板に曰く、「伝承によれば、嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森にまつられていた。嬉の森は小さな丘や樹や竹が生い茂っていたという。その名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。ちなみに、嬉の森と呼ばれた森は、隅田川岸に数ヶ所あった。/嬉の森稲荷社については不明な部分も多いが、明治四十年刊の『東京案内』では、「案ずるに嬉の森稲荷は、花川戸町二十七番地に在りたり」と推定している。現在の花川戸一丁目四番の辺りである。その後、数度の移転の後に昭和二年現在地に移った。この間、大正十二年九月の関東大震災の焼失を免れ、また昭和二十年三月の戦火も免れたという。/嬉の森稲荷は、火伏の神として信仰され、四月の二の午の日には、近隣の人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。」
東武線の浅草駅北口から吾妻橋を渡って、墨田区側の遊歩道を北上。白鬚橋を渡り、何時もの台東区側の遊歩道を南下して帰宅する。今日は日曜日とあって、東京湾に釣船を走らせる人もあれば、親水テラスで釣を楽しむ人もいる。昭和40年代の頃は、臭気で仏壇の像や箔に緑青がわいていたほど汚染されていた隅田川で、釣をする人を見かけれるほどになり、こうして川辺を散策できるようになったことは誠に喜ばしきことである。本日の記録は9273歩、6.0㎞であった。
台東区教育委員会の案内板に曰く、「伝承によれば、嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森にまつられていた。嬉の森は小さな丘や樹や竹が生い茂っていたという。その名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。ちなみに、嬉の森と呼ばれた森は、隅田川岸に数ヶ所あった。/嬉の森稲荷社については不明な部分も多いが、明治四十年刊の『東京案内』では、「案ずるに嬉の森稲荷は、花川戸町二十七番地に在りたり」と推定している。現在の花川戸一丁目四番の辺りである。その後、数度の移転の後に昭和二年現在地に移った。この間、大正十二年九月の関東大震災の焼失を免れ、また昭和二十年三月の戦火も免れたという。/嬉の森稲荷は、火伏の神として信仰され、四月の二の午の日には、近隣の人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。」
東武線の浅草駅北口から吾妻橋を渡って、墨田区側の遊歩道を北上。白鬚橋を渡り、何時もの台東区側の遊歩道を南下して帰宅する。今日は日曜日とあって、東京湾に釣船を走らせる人もあれば、親水テラスで釣を楽しむ人もいる。昭和40年代の頃は、臭気で仏壇の像や箔に緑青がわいていたほど汚染されていた隅田川で、釣をする人を見かけれるほどになり、こうして川辺を散策できるようになったことは誠に喜ばしきことである。本日の記録は9273歩、6.0㎞であった。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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