瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
小松橋通りを西に進む。馬道を横切って、淺草警察署の筋向い、富士小学校の前が淺草富士「浅間神社」である。江戸初期から現在に至るまで、浅草や蔵前付近の人々の信仰を集めてきたという。明治11年の造営であるというが、10年ほど前改修工事があり、外観だけ新たに漆喰塗を施してある。土蔵造りの神社は、江戸から明治時代には江戸・東京の各地にあったようだが、現在ではほとんど見ることができないという。礼拝対象物では、江戸初期制作の「木花咲耶姫命坐像(このはなさくやひめのみことざぞう)」、慶応3(1867)年銘の「銅造猿倚像(どうぞうさるいぞう)」、江戸末期と思われる「五行御身抜(ごぎょうおみぬき)」(富士講の本尊)など、江戸時代のものが現存している。さらに、祭祀用具では、富士山頂の様子を描いた安政5(1858)年銘の「富士山絶頂図」、明治時代奉納の「鏡・鏡台」や、富士講の幟旗である「マネキ」等があるという。
さらに、小松橋通りを西進し、国際通りを北上。千束稲荷神社に立ち寄り、明治通りを白鬚橋西まで進み、隅田川沿いの遊歩道を南下して帰宅した。橋場と今戸の境にテラスへの昇降口があるが、ここから見る東京スカイツリーは工事の進捗状況がよく判る。9666歩、6.2kmを記録した。
淺草富士「浅間神社」の境内地は盛土となっているが、江戸初期までの浅間神社は、こうした盛土上に勧請する場合が多かったようで、江戸初期以前に勧請された浅間神社の景観をよく伝えているのだという。
説明板に曰く、「浅間神社 は、富士山への信仰に基づき勧請された神社で神体として木造坐像「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)を安置する。/創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったものとされ、当神社の立地もそうした習俗に基づくものと思われる。/江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。/本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗が施されたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。/これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。/祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。」
千束稲荷神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、江戸時代四代将軍家綱公の寛文年間創設で、浅草一円を千束郷と称しその千束郷に上下二社の稲荷社がつくられた。千束稲荷神社はその下社で北千束郷の氏神で、寛永6年発行の地図に”チヅカイナリ”と称された。現状の神社になったのは、明治5年太政官令により竜泉寺町一円の氏神となり現在にいたる。
鳥居には、江戸時代後期の儒者、書家、詩人の亀田鵬斎の名が刻まれている。また、初午祭(二の午の日)には、百灯余りの地口行灯が飾られ、千束稲荷神社は樋口一葉「たけくらべ」の明治26~7年の祭礼が舞台となり、子供達が遊んだ神社とし有名である。平成20年5月には本神社が一葉の「たけくらべ」由来の地と言う事にともない氏子達が本殿向かって左手に一葉の胸像を建立している。碑文には「明日ハ鎮守ナル千束神社ノ大礼ナリ今慶ハ珠ニニギハシク山車ナドヲモ引キ出ルトテ人々サワグ」と記されている。
さらに、小松橋通りを西進し、国際通りを北上。千束稲荷神社に立ち寄り、明治通りを白鬚橋西まで進み、隅田川沿いの遊歩道を南下して帰宅した。橋場と今戸の境にテラスへの昇降口があるが、ここから見る東京スカイツリーは工事の進捗状況がよく判る。9666歩、6.2kmを記録した。
淺草富士「浅間神社」の境内地は盛土となっているが、江戸初期までの浅間神社は、こうした盛土上に勧請する場合が多かったようで、江戸初期以前に勧請された浅間神社の景観をよく伝えているのだという。
説明板に曰く、「浅間神社 は、富士山への信仰に基づき勧請された神社で神体として木造坐像「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)を安置する。/創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったものとされ、当神社の立地もそうした習俗に基づくものと思われる。/江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。/本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗が施されたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。/これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。/祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。」
千束稲荷神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、江戸時代四代将軍家綱公の寛文年間創設で、浅草一円を千束郷と称しその千束郷に上下二社の稲荷社がつくられた。千束稲荷神社はその下社で北千束郷の氏神で、寛永6年発行の地図に”チヅカイナリ”と称された。現状の神社になったのは、明治5年太政官令により竜泉寺町一円の氏神となり現在にいたる。
鳥居には、江戸時代後期の儒者、書家、詩人の亀田鵬斎の名が刻まれている。また、初午祭(二の午の日)には、百灯余りの地口行灯が飾られ、千束稲荷神社は樋口一葉「たけくらべ」の明治26~7年の祭礼が舞台となり、子供達が遊んだ神社とし有名である。平成20年5月には本神社が一葉の「たけくらべ」由来の地と言う事にともない氏子達が本殿向かって左手に一葉の胸像を建立している。碑文には「明日ハ鎮守ナル千束神社ノ大礼ナリ今慶ハ珠ニニギハシク山車ナドヲモ引キ出ルトテ人々サワグ」と記されている。
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