瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
桜橋を渡り、東武線の踏切――東京スカイツリーの北側に出る。ここから飛木稲荷神社、高木神社の前を通って、曳舟通りに出る。曳舟通りを北上、東武曳舟駅から線路伝いに水戸街道の地蔵坂の入口の前を通り、明治通りを西に進み、白鬚橋を渡る。川沿いの遊歩道を南下、橋場のテラス昇降口でみる東京スカイツリーは、間もなくアサヒビールの広告塔を追い越しそうだ。桜橋中学手前で右折、今戸公園前を通り吉野通りに向かって進んでいると、対面(といめん)からワンさんが歩いてくる。珍しい所で出会うものだと思っていると、ワンさんは通常のコースだという。儂が滅多に通らない道なので、そう思えただけのことであった。吉野通りの手前の熱田神社に立ち寄り、吉野通りを南下、言問橋東の南側入り口から隅田公園に入り、言問橋を潜り待乳山聖天の信号を渡って帰宅した。10194歩、6.6㎞を記録していた。
熱田神社の祭神は日本武尊、橘姫命であるが、境内社として、厳島神社(素盞鳴尊、田霧姫命、淵津姫命、市杵島姫命、倭姫命)と豊川出世稲荷神社(大物主命、豊受姫命)がある。他に疫神、麻疹神、霊神を祀る祠があるというが、確かめることは出来なかった。
主神の日本武尊は神剣を火上山(名古屋市緑区大高町)に留め置いたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなられた。尊の妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を熱田の地に祀り、これが熱田神宮の創始となる。橘姫命(弟橘姫命)は日本武尊の妃で、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘。日本武尊が東国平定の途次、相模国走水(横須賀市)から海路房州に向かった時、不意に海が荒れ狂い、難破の危機に直面した。橘姫命は竜神の祟りであるとして、日本武尊を救うため、竜神を慰めるべき海に身を投げた。この伝承により、この神は夫婦和合の御神徳とともに、海難防除の御利益を持たれるとされる。
安芸国の厳島神社は天照大神と素盞鳴尊の誓約(うけひ)により生まれ出た宗像三女神《市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たこりひめのみこと、又の名を田霧姫命)、湍津姫命(たぎつひめのみこと、淵津姫命とも書く)》を祭神とするが、ここの境内社の厳島神社はこのほかに素盞鳴尊、倭姫命(やまとひめのみこと、日本武尊の叔母で東征へ向かう日本武尊に天叢雲剣を与える)を祭神としている。豊川出世稲荷神社の方の祭神は、大物主命・豊受姫命となっているが、この両者の関係は良く判らない。
創建は元亀2(1571)年とされるが、「御府内寺社帳」では元鳥越と同年であると書かれているそうで、はるかに古いことになる。元鳥越には熱田大明神、鳥越大明神、第六天の3社があり鳥越三所明神と呼ばれてた。当社は三味線堀付近(現:台東区小島1)にあったようであるが、正保年間(1643~1647年)に幕府御用地となったために、山谷村に移転することとなり、正保2(1645)年に新社殿が建立され、元鳥越の氏子とともに当地に遷座し、当地を新鳥越と呼ぶようになったという。大正12年に関東大震災で焼失し、昭和2年に区画整理によって現在地に鉄筋コンクリートによる社殿を建立して遷座している。現在地には地主神として厳島神社と稲荷神社があり当社の境内社となっている。
熱田神社の祭神は日本武尊、橘姫命であるが、境内社として、厳島神社(素盞鳴尊、田霧姫命、淵津姫命、市杵島姫命、倭姫命)と豊川出世稲荷神社(大物主命、豊受姫命)がある。他に疫神、麻疹神、霊神を祀る祠があるというが、確かめることは出来なかった。
主神の日本武尊は神剣を火上山(名古屋市緑区大高町)に留め置いたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなられた。尊の妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を熱田の地に祀り、これが熱田神宮の創始となる。橘姫命(弟橘姫命)は日本武尊の妃で、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘。日本武尊が東国平定の途次、相模国走水(横須賀市)から海路房州に向かった時、不意に海が荒れ狂い、難破の危機に直面した。橘姫命は竜神の祟りであるとして、日本武尊を救うため、竜神を慰めるべき海に身を投げた。この伝承により、この神は夫婦和合の御神徳とともに、海難防除の御利益を持たれるとされる。
安芸国の厳島神社は天照大神と素盞鳴尊の誓約(うけひ)により生まれ出た宗像三女神《市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たこりひめのみこと、又の名を田霧姫命)、湍津姫命(たぎつひめのみこと、淵津姫命とも書く)》を祭神とするが、ここの境内社の厳島神社はこのほかに素盞鳴尊、倭姫命(やまとひめのみこと、日本武尊の叔母で東征へ向かう日本武尊に天叢雲剣を与える)を祭神としている。豊川出世稲荷神社の方の祭神は、大物主命・豊受姫命となっているが、この両者の関係は良く判らない。
創建は元亀2(1571)年とされるが、「御府内寺社帳」では元鳥越と同年であると書かれているそうで、はるかに古いことになる。元鳥越には熱田大明神、鳥越大明神、第六天の3社があり鳥越三所明神と呼ばれてた。当社は三味線堀付近(現:台東区小島1)にあったようであるが、正保年間(1643~1647年)に幕府御用地となったために、山谷村に移転することとなり、正保2(1645)年に新社殿が建立され、元鳥越の氏子とともに当地に遷座し、当地を新鳥越と呼ぶようになったという。大正12年に関東大震災で焼失し、昭和2年に区画整理によって現在地に鉄筋コンクリートによる社殿を建立して遷座している。現在地には地主神として厳島神社と稲荷神社があり当社の境内社となっている。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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