瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
言問橋にかかると、橋下には昨日と変わらず若者のグループがいる。シートの間から見ると4・5人が車座になって話し込んでいるようだ。もしかしたら、「ホームレス研究会」でホームレスの体験講習でもやっているのかな? 橋の真正面に見える東京スカイツリーは、手前に見えるビルの高さを超えようとしている。後ろを振り返ると、シートの中から女の子が出てきた。デジカメのシャッターを押すが、どやら後姿しか撮れなかったようだ。
一旦、三つ目通りを南下しようと思ったが、小雨ながら冷たいものが落ちてきたので、吾妻橋を渡って帰宅しようと、墨田区側の水戸邸庭園の縁を通って、枕橋に出た。枕橋を渡りながら辺りが急に明るくなるのを感じて、帰宅するのは止めにした。移り気な爺であることよ。昨日北上して帰宅した区役所通りを南下して、京葉道路に出た。京葉道路が清澄通りと交わる所で、京葉道路の1つ北側の路地を入った所に「榛(はんのき)稲荷神社」というのがあった。
現在の両国4丁目は江戸時代には亀沢町といい、JR総武線のガードからすぐ近くである。現在、風景は一変しているのだろうが竪川の二之橋から真っ直ぐの清澄通りが現在も通っている。江戸時代には、亀沢町に接して、東西およそ185m、南北およそ22mの馬場があったという。この馬場は明治の初めまでこの辺りにあったらしいが、本所に住む武士はこの馬場で弓馬の技を磨いたという。この馬場を囲む土手に大きな榛があったので榛馬場と呼ばれたという。馬場の傍らに祀られていたのがこの榛稲荷神社である。現在も榛稲荷神社の境内には何本かの榛が茂っている。
なお、亀沢町は葛飾北斎の生誕地でもあるが、この榛馬場の近くに仮宅を構えたこともあったと見えて、榛稲荷神社の境内には「葛飾北斎住居跡」と説明板が立っていた。まあ、北斎先生90歳の一生のうちに93回も転居したというから1つ1つ取上げるのも大変なことではある。生誕地(本所割下)と終焉地(聖天町遍照院長屋)が判ればよいとしよう。
総武線の高架線の下を隅田川に向けて歩いていると、「斎藤緑雨住居跡」の標柱が立っていた。緑雨は伊勢の生れであるが、父親が藤堂老候の侍医として上京したので、本所(墨田区)の緑町の藤堂邸内に幼いころから居住した。緑雨という名前も、「緑町」から付けられたということである。ジャーナリズムの中で生活したが、江戸の文人の雰囲気・センスを最後まで保ち続け、戲作者の生き殘りとしての自覺をもって著述活動を行った点で、「反近代の思想」の系譜に連なる人物の一人であると聞く。
総武線が隅田川に出会う所で、テラスに降りて、此処を北上。厩橋の下でかのT氏と出会う。直ぐ傍で地図を片手に明日の花火の見学場所を探していた青年にデジカメのシャッターを押して貰った。吾妻橋を渡り、隅田公園を北上して帰宅した。Omron万歩計は10946歩、7.1kmと読めた。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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