瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
言問橋を渡り、東武橋に来ると東京のスカイツリーが目立つようになっていた。本日は榎稲荷神社を目当てに歩くことにした。東武橋から大横川に沿う東側の道を京葉道路まで南下する。江東橋を渡ると緑4丁目の信号を左折してすぐのところに、五柱稲荷神社というのがあった。境内には由来書らしきものは見当たらなかった。何でも子供の虫下しにご利益があるらしい。此処をさらに竪川まで南下、立川に架かる菊花橋を渡ると、右手に菊川小学校があり、その南に隣接して菊川公園がある。この菊川公園をひと回りしてみるとの南西の隅に目指す榎稲荷神社があった。由来書の石碑が立っていたが、黒光りしてカメラを向けると反射してよく撮れない。同じ境内地に地蔵尊が立っており、地蔵尊について説明板が掲示してあった。何でもこの辺りも昭和20年3月10日の東京大空襲では大きな被害を受けたところらしく、稲荷神社の名称の由来であった榎も今は焼夷弾に焼かれて枯死した姿を晒すのみである。竪川まで北上して、川に沿って西一つ目の橋が三之橋である。この三之橋の南詰に元徳稲荷というのがあった。道に面して、小さな字の神社略記があったので読めるかどうかは判らないが一応カメラに収めておいた。
本日は榎稲荷神社を目当てに歩いたが、期せずして3つの稲荷と1つの地蔵尊に出会ったわけである。後は三之橋を渡り、三つ目通りを北上。言問橋東詰にでて、橋を渡って帰宅した。橋の上で小雨がパラつきだしだが、たいしたことはなかった。omron万歩計は10788歩、7.0㎞を記録していた。
五柱(ごはしら)稲荷神社は、稲荷神社だから主祭神は宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)。神社の由緒に拠れば、『享保13(1716)年3月3日中御門天皇、徳川八代将軍吉宗公の世代に植村土佐守正朝(1669~1729年)が伏見より奉祀し、その後朝廷より華蔵院の称号を賜り、御神徳広大無辺にして、明治13年公認神社(内務省の管轄)、昭和21年6月宗教法人神社認証』とあるそうな。「五柱」の社号は伏見稲荷の稲荷五社大明神に由来するものであろう。伏見稲荷大社の祭神は、①宇迦之御魂大神(下社)、②佐田彦大神(さたひこのおおかみ、中社)、③大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ、上社)、④田中大神(たなかのおおかみ、下社摂社)、⑤四之大神(しのおおかみ、中社摂社)の稲荷五社大明神であるという。これらの神々は渡来氏族である秦氏の氏神、あるいは空海に東寺の守護を約束した土地の神などと伝えられる。宇迦之御魂大神の「宇迦」は「うけ」(食物)の古形で、食物を主宰する神の保食津神(うけもちのかみ)、御饌津神(みけつのかみとも混同されているが、須佐之男命が大山津見の娘、大市比売を妻にして生んだ神の名であり、漢字で倉稲魂と表わされることもある。稲に宿った神であり、「稲を荷う」「稲の成る」神、つまり五穀豊穣の神とされている。佐田彦大神は、海陸の道路を守る神であり、通商貿易の事にも万事を善き方に導く神とされる。皇城巽(京都の東南)方向にある鎮護神(都を護る神)また熊野御幸の道中守護の神として、朝廷からも尊崇されていた。大宮能売大神は神座舞踏の始祖であり、歌舞音曲の神として、さらに寿命の延長を守り、愛敬の神として一家の和合商売繁盛を守護する神とされる。稲荷社は、愛法の神、女性の出世栄達の神としても崇敬された。「愛法」とは、元来は真理に対する愛、つまり執着のことだが、転じて愛を獲得する呪法の神とされた。田中大神、四之大神は後年に加えられた神で由来は不詳であり土産神でないかと推測されている。
榎稲荷神社は江戸時代は大久保紀伊守(旗本?)の邸内社であって、土手地の内に鎮座していたことから土手稲荷と通称し、また社地に大榎があったので榎稲荷といったという。境内の「榎稲荷神社由緒書」の石碑には『当社鎮座ノ年月ハ不詳ナレドモ傍ラ二菊川ト云フ川アリ 元禄九年二此ノ川ノ名ヲ取リ町名トセシニ ソレ以前 天和癸亥三年二月二当社ヲ堤ノ内二建立セシト伝フ ソノ川ノ畔二遊女ノ宿アマタ散在シテ行人ノ足ヲ留メ多クノ人ドヨメキ集ヒテ詣デタリシト云フ 土手ノ内二アリシ故土手稲荷ト尊称ス 小祠ナリシガ宝暦年中二中風流行シタリシニ土人当社二ソノ病ノ平癒ヲ祈願シ欝蒼ト茂ル榎ノ皮ヲ取リ帰ル二不思議トソノ効著ルシク近在ノ諸人踵ヲ接シテ祈願ヲコメリト云フ 祈願ノ遂ゲラレシ人多カリシ故ソノ諸人講中ヲ作リ己ガ浄財ヲ出シテ又 人ヲ誘ヒテ義損ヲトトノヘ造営セシ二崇厳ナル社殿完成シタリ ソノ後如何ナル故二カ現在ノ地二移居シタリ旧幕時代ニハ大久保紀伊守ノ邸内社トナシガ一農家ノ之ヲ守護シタリシガ不始末二カ立退ク事トナリ長ク秘蔵セシト伝フ宝剣一振ヲ附近ノ人二託シ何方ヘカ退居セリ ソレ以来ハ町内一同二テ修理ヲ加へ礼賛シタリト云フ 天保六年ニハ町内の名ヲ以テ石鳥居ヲ献シ更二安政七年ニハ漱水盤ヲ献納シ国家ノ安寧ヲ願ヒシモ忽ち改元アリテ万延ノ世ト改マリヌ 当時ハ社畔二幸衞門ガ店二鳩居セシ氷川大乗院配下本山修験吉祥院トイヘルモノ町民二カワリテ大切二守護ス然シテ又何時ノ頃ヨリカ境内二多数林立セシ榎ノ欝蒼タルヲ見テ誰謂フトナク榎稲荷大明神トタタへ奉リソレヨリハ榎稲荷神社ト唱へ祈願二参ル人跡絶ユル事ナシ (文献二依ル) 明治十一年十一月二日本所区菊川一丁目ト称シ大正十二年九月一日ノ関東大震災ニテ焼失ソノ後区画整理ニテ現在地二移転シ昭和七年町名変更ニテ竪川四丁目ト成ル 昭和二十年三月十日第二次世界大戦ノ際東京空襲ニテ再度焼失シタル二当町在住ノ石黒善次氏復旧シ奉安申シ上ゲテ居リ昭和二十八年玉垣ヲ当時町会長立松慶助氏発起ニテ建設致シ昭和四十年五月町内有志相計リ戦災二十周年ヲ記念二鉄筋コンクリート造リノ社殿二復興申シ上ゲ今日二至ル 昭和四十年五月 内田雙硯謹書』とある。同じ境内内にある竪川地蔵尊については説明板の写真を参考にされたし。
元徳稲荷については、写真の「神社略記」を超える詳細記事は今のところ見当たらず。
本日は榎稲荷神社を目当てに歩いたが、期せずして3つの稲荷と1つの地蔵尊に出会ったわけである。後は三之橋を渡り、三つ目通りを北上。言問橋東詰にでて、橋を渡って帰宅した。橋の上で小雨がパラつきだしだが、たいしたことはなかった。omron万歩計は10788歩、7.0㎞を記録していた。
五柱(ごはしら)稲荷神社は、稲荷神社だから主祭神は宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)。神社の由緒に拠れば、『享保13(1716)年3月3日中御門天皇、徳川八代将軍吉宗公の世代に植村土佐守正朝(1669~1729年)が伏見より奉祀し、その後朝廷より華蔵院の称号を賜り、御神徳広大無辺にして、明治13年公認神社(内務省の管轄)、昭和21年6月宗教法人神社認証』とあるそうな。「五柱」の社号は伏見稲荷の稲荷五社大明神に由来するものであろう。伏見稲荷大社の祭神は、①宇迦之御魂大神(下社)、②佐田彦大神(さたひこのおおかみ、中社)、③大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ、上社)、④田中大神(たなかのおおかみ、下社摂社)、⑤四之大神(しのおおかみ、中社摂社)の稲荷五社大明神であるという。これらの神々は渡来氏族である秦氏の氏神、あるいは空海に東寺の守護を約束した土地の神などと伝えられる。宇迦之御魂大神の「宇迦」は「うけ」(食物)の古形で、食物を主宰する神の保食津神(うけもちのかみ)、御饌津神(みけつのかみとも混同されているが、須佐之男命が大山津見の娘、大市比売を妻にして生んだ神の名であり、漢字で倉稲魂と表わされることもある。稲に宿った神であり、「稲を荷う」「稲の成る」神、つまり五穀豊穣の神とされている。佐田彦大神は、海陸の道路を守る神であり、通商貿易の事にも万事を善き方に導く神とされる。皇城巽(京都の東南)方向にある鎮護神(都を護る神)また熊野御幸の道中守護の神として、朝廷からも尊崇されていた。大宮能売大神は神座舞踏の始祖であり、歌舞音曲の神として、さらに寿命の延長を守り、愛敬の神として一家の和合商売繁盛を守護する神とされる。稲荷社は、愛法の神、女性の出世栄達の神としても崇敬された。「愛法」とは、元来は真理に対する愛、つまり執着のことだが、転じて愛を獲得する呪法の神とされた。田中大神、四之大神は後年に加えられた神で由来は不詳であり土産神でないかと推測されている。
榎稲荷神社は江戸時代は大久保紀伊守(旗本?)の邸内社であって、土手地の内に鎮座していたことから土手稲荷と通称し、また社地に大榎があったので榎稲荷といったという。境内の「榎稲荷神社由緒書」の石碑には『当社鎮座ノ年月ハ不詳ナレドモ傍ラ二菊川ト云フ川アリ 元禄九年二此ノ川ノ名ヲ取リ町名トセシニ ソレ以前 天和癸亥三年二月二当社ヲ堤ノ内二建立セシト伝フ ソノ川ノ畔二遊女ノ宿アマタ散在シテ行人ノ足ヲ留メ多クノ人ドヨメキ集ヒテ詣デタリシト云フ 土手ノ内二アリシ故土手稲荷ト尊称ス 小祠ナリシガ宝暦年中二中風流行シタリシニ土人当社二ソノ病ノ平癒ヲ祈願シ欝蒼ト茂ル榎ノ皮ヲ取リ帰ル二不思議トソノ効著ルシク近在ノ諸人踵ヲ接シテ祈願ヲコメリト云フ 祈願ノ遂ゲラレシ人多カリシ故ソノ諸人講中ヲ作リ己ガ浄財ヲ出シテ又 人ヲ誘ヒテ義損ヲトトノヘ造営セシ二崇厳ナル社殿完成シタリ ソノ後如何ナル故二カ現在ノ地二移居シタリ旧幕時代ニハ大久保紀伊守ノ邸内社トナシガ一農家ノ之ヲ守護シタリシガ不始末二カ立退ク事トナリ長ク秘蔵セシト伝フ宝剣一振ヲ附近ノ人二託シ何方ヘカ退居セリ ソレ以来ハ町内一同二テ修理ヲ加へ礼賛シタリト云フ 天保六年ニハ町内の名ヲ以テ石鳥居ヲ献シ更二安政七年ニハ漱水盤ヲ献納シ国家ノ安寧ヲ願ヒシモ忽ち改元アリテ万延ノ世ト改マリヌ 当時ハ社畔二幸衞門ガ店二鳩居セシ氷川大乗院配下本山修験吉祥院トイヘルモノ町民二カワリテ大切二守護ス然シテ又何時ノ頃ヨリカ境内二多数林立セシ榎ノ欝蒼タルヲ見テ誰謂フトナク榎稲荷大明神トタタへ奉リソレヨリハ榎稲荷神社ト唱へ祈願二参ル人跡絶ユル事ナシ (文献二依ル) 明治十一年十一月二日本所区菊川一丁目ト称シ大正十二年九月一日ノ関東大震災ニテ焼失ソノ後区画整理ニテ現在地二移転シ昭和七年町名変更ニテ竪川四丁目ト成ル 昭和二十年三月十日第二次世界大戦ノ際東京空襲ニテ再度焼失シタル二当町在住ノ石黒善次氏復旧シ奉安申シ上ゲテ居リ昭和二十八年玉垣ヲ当時町会長立松慶助氏発起ニテ建設致シ昭和四十年五月町内有志相計リ戦災二十周年ヲ記念二鉄筋コンクリート造リノ社殿二復興申シ上ゲ今日二至ル 昭和四十年五月 内田雙硯謹書』とある。同じ境内内にある竪川地蔵尊については説明板の写真を参考にされたし。
元徳稲荷については、写真の「神社略記」を超える詳細記事は今のところ見当たらず。
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目高 拙痴无
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誕生日:
1932/02/04
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