瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
午前3時に雷鳴とともに驟雨、3・40分続く。雨の音で眼が覚め、以降蒸し暑く眠られず。
5時前に家を出て、昨日と同じ道を水神大橋まで歩く。川風が汗ばんだ肌を心地よく撫でてくれる。遊歩道を南下、明治通りを清川2丁目の信号で左折、橋場と清川を分ける通りを南下。途中玉姫神社に立ち寄り、今戸神社前を通って、待乳山聖天公園に来ると、人気なし。「おや、夜中の雨でラジオ体操はお休みなのか?」この辺りのラジオ体操の会場には、石浜公園にしろ、今戸公園にしろ、今戸神社も牛嶋神社もちゃんと「ラジオ体操会場」と標示が掲げられているが、ここ聖天公園は何の掲示もなし。そのうちに首からラジオ体操の出席表をぶら下げたチビちゃん達がチラホラと集まってきた。まあ、このラジオ体操も8月31日で終わりなんだそうだ。たった2週間しかなくしかも日曜は休みとて来ているから、標示をだすほどのこともないのだろう。本日の10704歩、6.9kmの記録であった。
玉姫稲荷神社は社伝によると、天平4年(760)、京都伏見稲荷の分霊を勧請し創建された。祭神は勿論、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、『江戸砂子増補』(文政10 (1827) 年刊)にも著されている。曰く、「此社は山城国稲荷山のいなり(伏見稲荷大社)を遷ししなり。王子村岸稲荷(現王子稲荷神社)と神縁ありと云伝ふ。御玉姫いなりといふも故ある事なり。正慶2年(1333)、新田義貞朝臣、鎌倉の(北条)高時を追討のみきり、弘法大師直筆の像を襟掛にし給ひしを、瑠璃の玉塔にこめて当所におさめまつり給ふ故に、御玉ひめ稲荷と称するよし」俗説に「昔このあたりに住んでいた砂尾長者という金持ちの一人娘で,恋に破れて鏡が池に身を投げて命を絶った玉姫を祭ったことから玉姫稲荷と呼ばれるようになった」といわれる。明治5年11月17日に村社に列せられたという。
江戸時代の玉姫稲荷神社の景勝について『遊歴雑記』に記述がある。曰く、「武州豊島郡三谷町の東裏、玉姫稲荷の宮は浅ぢが原の西、耕地の中弐町にあり。社内尤(もっとも)広く、東南北の三方の耕地を見はらし、元より江戸の片ほとりの田舎なれば、社内の廻り、垣根等の構えなく、松・杉こころのままに繁茂し、木の間に古樹のさくらも四五株あれど、誰手折るいたづらなければ天然に咲乱れ、道敷の外は芝生じて苅込ざるに、そのうつくしさ人のあそぶ事邂逅(たまさか)なれば、諸鳥此神地に求食、市中に遠からずして、而も閑寂の勝地たり。扨又(さてまた)、風色の天然、眺望の面しろき、田の畦には摘草する徒あり。又、田螺(たにし)拾ふ人あり。或は畦路を人の行き通ふ。花あり、芽出しの樹々あり。扨遥に北西をかえり見れば、千住・小塚原より縄手路を三谷へ往来の、引もちぎらざる、田に畑に菜のはなの見事なる、その景望一々兎角の論なし。(『遊歴雑記』初篇之中-22)」
古くから商売繁盛の神として信仰を集め、初午祭り(2月最初の午の日)には参詣者で賑う。また、近年は春と秋に玉姫稲荷の境内を中心に「こんこん靴の市」が開かれることでも知られている。これは氏子の靴関連業者が商売繁盛を願って開く市で、市価より大幅に安い値段で販売されるという。
摂社の口入稲荷大神は殊に商売繁盛にご利益のあらたかな社として、古来崇敬されてきたという。祈願にあたっては、先ず羽織を着た立姿のお狐さんのお姿(今土焼人形)をうけて持ち帰り神棚に祀り、願いが成就したら、更にもう一体の土人形を受け、一対にして御礼を申し上げるようにする慣わしとなっている。なお「良縁祈願」にあたっては裃を着たお狐さんの姿にて祈願することとなっているということである。口入稲荷大神は衣食住を守る稲荷で、江戸新吉原にあった高田屋という口入宿(今でいうところの職業安定所)の邸内に年久しく鎮座してあったが、安永年間(1772~1780年)のこと、この高田屋の主人の夢に口入稲荷大神があらわれ、「我を玉姫稲荷の境内に遷し祭れ」とのお告げにより、以来当社境内摂社として鎮座しているとのこと。
5時前に家を出て、昨日と同じ道を水神大橋まで歩く。川風が汗ばんだ肌を心地よく撫でてくれる。遊歩道を南下、明治通りを清川2丁目の信号で左折、橋場と清川を分ける通りを南下。途中玉姫神社に立ち寄り、今戸神社前を通って、待乳山聖天公園に来ると、人気なし。「おや、夜中の雨でラジオ体操はお休みなのか?」この辺りのラジオ体操の会場には、石浜公園にしろ、今戸公園にしろ、今戸神社も牛嶋神社もちゃんと「ラジオ体操会場」と標示が掲げられているが、ここ聖天公園は何の掲示もなし。そのうちに首からラジオ体操の出席表をぶら下げたチビちゃん達がチラホラと集まってきた。まあ、このラジオ体操も8月31日で終わりなんだそうだ。たった2週間しかなくしかも日曜は休みとて来ているから、標示をだすほどのこともないのだろう。本日の10704歩、6.9kmの記録であった。
玉姫稲荷神社は社伝によると、天平4年(760)、京都伏見稲荷の分霊を勧請し創建された。祭神は勿論、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、『江戸砂子増補』(文政10 (1827) 年刊)にも著されている。曰く、「此社は山城国稲荷山のいなり(伏見稲荷大社)を遷ししなり。王子村岸稲荷(現王子稲荷神社)と神縁ありと云伝ふ。御玉姫いなりといふも故ある事なり。正慶2年(1333)、新田義貞朝臣、鎌倉の(北条)高時を追討のみきり、弘法大師直筆の像を襟掛にし給ひしを、瑠璃の玉塔にこめて当所におさめまつり給ふ故に、御玉ひめ稲荷と称するよし」俗説に「昔このあたりに住んでいた砂尾長者という金持ちの一人娘で,恋に破れて鏡が池に身を投げて命を絶った玉姫を祭ったことから玉姫稲荷と呼ばれるようになった」といわれる。明治5年11月17日に村社に列せられたという。
江戸時代の玉姫稲荷神社の景勝について『遊歴雑記』に記述がある。曰く、「武州豊島郡三谷町の東裏、玉姫稲荷の宮は浅ぢが原の西、耕地の中弐町にあり。社内尤(もっとも)広く、東南北の三方の耕地を見はらし、元より江戸の片ほとりの田舎なれば、社内の廻り、垣根等の構えなく、松・杉こころのままに繁茂し、木の間に古樹のさくらも四五株あれど、誰手折るいたづらなければ天然に咲乱れ、道敷の外は芝生じて苅込ざるに、そのうつくしさ人のあそぶ事邂逅(たまさか)なれば、諸鳥此神地に求食、市中に遠からずして、而も閑寂の勝地たり。扨又(さてまた)、風色の天然、眺望の面しろき、田の畦には摘草する徒あり。又、田螺(たにし)拾ふ人あり。或は畦路を人の行き通ふ。花あり、芽出しの樹々あり。扨遥に北西をかえり見れば、千住・小塚原より縄手路を三谷へ往来の、引もちぎらざる、田に畑に菜のはなの見事なる、その景望一々兎角の論なし。(『遊歴雑記』初篇之中-22)」
古くから商売繁盛の神として信仰を集め、初午祭り(2月最初の午の日)には参詣者で賑う。また、近年は春と秋に玉姫稲荷の境内を中心に「こんこん靴の市」が開かれることでも知られている。これは氏子の靴関連業者が商売繁盛を願って開く市で、市価より大幅に安い値段で販売されるという。
摂社の口入稲荷大神は殊に商売繁盛にご利益のあらたかな社として、古来崇敬されてきたという。祈願にあたっては、先ず羽織を着た立姿のお狐さんのお姿(今土焼人形)をうけて持ち帰り神棚に祀り、願いが成就したら、更にもう一体の土人形を受け、一対にして御礼を申し上げるようにする慣わしとなっている。なお「良縁祈願」にあたっては裃を着たお狐さんの姿にて祈願することとなっているということである。口入稲荷大神は衣食住を守る稲荷で、江戸新吉原にあった高田屋という口入宿(今でいうところの職業安定所)の邸内に年久しく鎮座してあったが、安永年間(1772~1780年)のこと、この高田屋の主人の夢に口入稲荷大神があらわれ、「我を玉姫稲荷の境内に遷し祭れ」とのお告げにより、以来当社境内摂社として鎮座しているとのこと。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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