瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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1dfc5e3a.jpg 今朝ほどは家を出たのが5時。既に夏の陽射しが照っている。桜橋を渡り、墨堤通りから東白鬚公園を抜けて水神大橋へ。汐入公園を南下して、石濱神社に立ち寄り、橋場、今戸を南下した。待乳山聖天公園でラジオ体操に参加して、帰宅した。万歩計は9810歩、6.3㎞を記録。
8d24f55b.JPG 石濱神社の祭神は天照大神、豐受姫大神で、聖武天皇の神亀元(724)年に鎮座という。天明年間の大洪水で古記をことごとく流失としたという。
①真崎稲荷神社:祭神は豊受姫神、天文年間(1532~1554年)に石浜城主となった千葉之介守胤が造営という。別社の招来稲荷神社は、奥の院とされる。②江戸神社:祭神は素戔雄尊、天文年間(1532~1554年)に江戸太郎重長が勧請と受け取れる縁起の碑があるが、江戸太郎重長(源頼朝時代の人物)が江戸城に祀っていた江戸神社が天文年間に石浜に勧請されたのだろうといわれる。江戸名所図会によれば牛頭天王社となっており橋場の鎮守、御輿に手をふれず肩だけで押し合いながら担ぐ汐入の押し合い祭りがあり、古い御輿に天正15(1587)年山城の高須美作の銘ありと書いている。③妙義八幡神社:祭神は日本武尊、誉田別命であるが、鎮座年代は不詳。④北野神社:祭神は勿論菅原道真公、明和4(1767)年勧請。⑤寿老神:昭和52(1987)年、浅草七福神のの復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものである。⑥麁香(あらか)神社:祭神は手置帆負命 彦狭知命、家の土台の守り神、木匠の始祖として、安永8年(1779)鎮座。 などの併社がある。
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5b7ba567.JPG 江戸名所図会によれば朝日神名宮、石浜明神、橋場神明とも呼ばれていたそうで、1190~1201年の頃は繁盛しており、千葉氏、宇都宮氏の崇拝が濃く伊勢に参拝できない諸氏がここに詣でていたらしい。境内は樹木が鬱蒼と茂っていたというが、現在はそのイメージはない。江戸名所図会の境内社には天神、あはしま、水神、だいこく山王、天王、手置帆負命、狐窟がみえ、現在とほとんど同じであるが、真先稲荷社は別項に書かれているので当時は独立していたのだろう。千葉之介守胤が石浜の城主になったとき、代々伝えられた宝珠をもって倉稲魂を勧請したものであるという。真先とは真っ先の手柄の意であろうかという。真先稲荷社前には料理屋や酒屋が並び、隅田堤の桜、白髭木母寺など隅田川遊宴の景勝地であったというが、現在はコンクリートの土手の遊歩道しかみえない。
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666af44c.JPG 石浜(汐入、橋場)は武蔵、下総の接点にあり続日本紀などに書かれる古奥州道の拠点であった可能性の高い場所で、後に義経記、吾妻鏡、源平盛衰記、太平記などに渡河や戦闘が行われる戦略拠点として書かれている。伊豆に流されていた源頼朝が決起し房総を制して武蔵に入る時、付近の海村から小舟数千艘を集めて橋場の付近で浮き橋を作って隅田川を渡り、さらに長江の入江も浮き橋で渡って王子(豊島氏)から板橋へ向かっている(浮き橋は小舟をつないでその上に板を渡した橋)。石浜から南へ土手沿いに進めば江戸太郎重長の江戸城があり、鎌倉への近道なのにわざわざ長江を渡って板橋へ向かったのは、江戸重長を信用していなかったからだといわれる。正平七年(1352年、南北朝時代)には足利尊氏が新田義宗等と戦って敗れて石浜城に逃げ込み、追撃してきた新田軍は湿地帯に阻まれて足利尊氏は九死に一生を得たという。
1ed8c41c.JPG 石浜は入間川と古利根川の合流点にあってその堆積物が自然堤防を作っている。金竜山(浅草寺)や真土山など七つの山のある長い岡だったが、六山は江戸御用土として使われ石浜も砂利採取場となって、住人は今戸村に移転させられて岡がなくなってしまったのだという。古来から砂利堆積地だったことが石浜の地名の由来だと記されている。洪水でも冠水しない場所だったのであるが、1783年の浅間山の大噴火による火山灰の堆積で利根川は暴れ川となって洪水が各地で頻発するようになる。当社縁起にある天明年間(1772~1787年)の洪水も浅間山の噴火後に起きた洪水なのであろう。
 一般に隅田川に架けられた橋は1594年の千住大橋が最初で次が明暦の大火の教訓による1659年の両国橋とされているが、江戸名所図会に興味深い記述がある。『「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう、1310年頃、鎌倉後期の私撰和歌集。36巻。藤原長清撰)に昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った」とあり、また、太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文を引用している(3本の橋とは中洲を利用した飛び石伝いの3本か)。』
8a62a8e4.JPG 1750年頃の文献の引用では、「隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっている」とあり、古老のいうには「今の船番所のあたりが昔の橋場の跡だ」といっているともある。太平記には橋場の地名は登場せず、太田道潅以後にその名が登場したのだろうと江戸名所図会は推察しています。
 新編武蔵風土記稿には「江戸古図には汐入村と石浜村のみで橋場の名はなく、天文19(1550)年の御朱印に橋場之内という記事が出てくるとある。隅田川に架けられた最初の橋は江戸以前では橋場にあったが、千住大橋(1594年)の完成で奥州街道(日光道中)は西に移動し、橋場の橋は重要ではなくなり修復もされずに破棄されたのだと思われる。奥州道の拠点も橋場から千住に移り、石浜や橋場は隅田川観光の場所に変わっていったのだろう。家光時代にはもう少し上流の対岸に墨田御殿が造営されている。
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