瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
①真崎稲荷神社:祭神は豊受姫神、天文年間(1532~1554年)に石浜城主となった千葉之介守胤が造営という。別社の招来稲荷神社は、奥の院とされる。②江戸神社:祭神は素戔雄尊、天文年間(1532~1554年)に江戸太郎重長が勧請と受け取れる縁起の碑があるが、江戸太郎重長(源頼朝時代の人物)が江戸城に祀っていた江戸神社が天文年間に石浜に勧請されたのだろうといわれる。江戸名所図会によれば牛頭天王社となっており橋場の鎮守、御輿に手をふれず肩だけで押し合いながら担ぐ汐入の押し合い祭りがあり、古い御輿に天正15(1587)年山城の高須美作の銘ありと書いている。③妙義八幡神社:祭神は日本武尊、誉田別命であるが、鎮座年代は不詳。④北野神社:祭神は勿論菅原道真公、明和4(1767)年勧請。⑤寿老神:昭和52(1987)年、浅草七福神のの復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものである。⑥麁香(あらか)神社:祭神は手置帆負命 彦狭知命、家の土台の守り神、木匠の始祖として、安永8年(1779)鎮座。 などの併社がある。
一般に隅田川に架けられた橋は1594年の千住大橋が最初で次が明暦の大火の教訓による1659年の両国橋とされているが、江戸名所図会に興味深い記述がある。『「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう、1310年頃、鎌倉後期の私撰和歌集。36巻。藤原長清撰)に昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った」とあり、また、太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文を引用している(3本の橋とは中洲を利用した飛び石伝いの3本か)。』
新編武蔵風土記稿には「江戸古図には汐入村と石浜村のみで橋場の名はなく、天文19(1550)年の御朱印に橋場之内という記事が出てくるとある。隅田川に架けられた最初の橋は江戸以前では橋場にあったが、千住大橋(1594年)の完成で奥州街道(日光道中)は西に移動し、橋場の橋は重要ではなくなり修復もされずに破棄されたのだと思われる。奥州道の拠点も橋場から千住に移り、石浜や橋場は隅田川観光の場所に変わっていったのだろう。家光時代にはもう少し上流の対岸に墨田御殿が造営されている。
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