瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 小松橋通りを西進、国際通りを北進、鷲神社に立ち寄る。ここはお酉様で有名な神社で、境内にはお酉様について書いたり詠ったりした歌碑や句碑、文学碑が並ぶ。
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3248f424.jpg 国際通りを南下、雷門通りに沿う北側の路地を歩いてみた。こんな繁華街のど真ん中に今日見つけた神社だけで、国際通りに感應稲荷、八幡宮、そして雷門通り裏の飲み屋街の中に手洗稲荷・無聿富稲荷と同じ丁目の同じ番地に2つの稲荷がある。まあ再度、訪ねてみることにして、吾妻橋を渡り、墨田区側の遊歩道を北上していると、向こうからくるワンさんに出会った。昨日猿若デンタルで前歯を1本抜いたので、思うように話も出来ず、そのまま別れ帰宅した。9558歩、6.2㎞の記録であった。
 鷲神社の祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)で、縁起では「天照大御神の岩戸隠れで天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が天之岩戸を開き、天手力男命の子が弦という楽器を演奏し、その弦に鷲がとまったのでこの神を天日鷲命と称する様になった」とある。また、日本武尊東征討の時、社前の松に熊手(武器)をかけて戦勝を祝ったとある。日本書紀の天の岩戸の一書に「粟の国の忌部(いんべ)の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とあり、天日鷲命が登場する。延喜式神名帳によれば、阿波国には忌部神社があり麻植神あるいは天日鷲神と称すとある。
 古語拾遺(斎部広成《いんべのひろなり》著の歴史書。1巻。807年成立)によると、忌部氏の祖は天太玉命(あめのふとだまのみこと)でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。天日鷲命は穀(カジノキ)・木綿などを植えて白和幣を作ったとされ、その子孫が木綿・麻布などを朝廷に貢上しているという。天太玉命の孫の天富命(あめのとみのみこと)は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てたのが安房社で、これが安房の地名の源になったという。木綿ユウ(タク布)は梶(カジノキ)の皮で作る布で、麻とならんで重要な古代の繊維で、東南アジア~ポリネシア、ハワイではタパと称しているそうだ。
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4bd47a3b.JPG 日本武尊は隅田川周辺に複数の伝承があって先住者と抗争した様子が見えないから、ここでも繊維を作る人々が祀る祖先神(天日鷲命)に日本武尊が戦勝祈願した可能性はありそうである。ただし、鷲神社は江戸名所図会(1832年)には記載がなく、江戸末期の地図(1860年頃)ではじめて登場する。この時代は天保の大飢饉、江戸大火、奢侈禁止令など経済の困窮時代であるから江戸末期に商売繁盛を願う人々が創設したか、あるいは別の祭礼を商売繁盛に変化させていったのかもしれない。
 吉原への入り口は日本堤の大門だけであるが、鷲神社の酉の市の日だけは裏木戸を開けてここからも吉原へ入れるようにしていたという。
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41200762.JPG 足立区の花畑(旧花亦村)に大鷲神社というのがある。利根川水系の低湿地帯に大宮台地がはいりこむ位置にあって、花畑古墳群があり(現在は住宅地となって消滅)円筒埴輪が出土している。ここから2.5kmほど西には古墳時代の集落跡と伊興古墳群もあるのである。江戸名所図会によれば花亦村の農民が酉の日に鶏を奉納し、浅草寺の堂前にはなつ(図会2)のを旧例としていたそうである。江戸名所図会の記述では、「縁起と御祭神不明なれどかっては土師大明神であり浅草寺の奥の院とも世俗がいうところから、浅草寺の縁起である土師臣中知との関連の縁起であり、出雲臣の祖天穂日の子であり土師氏の祖である建比良鳥命を祀り、ハジがなまってワシとなったのではないか」、と類推している。すなわち江戸時代の花畑(花亦村)の大鷲大明神はオオワシであってトリではなかったということである(こちらも日本武尊が縁起)。
 花畑の土師(土器造)の祖の建比良鳥命と浅草の繊維の祖の天之日鷲命とが結合し、花畑の大鷲神社の酉の日の放生会が江戸末期に浅草で商売繁盛に変化して「浅草の鷲神社」が登場したと考えることができるのだろうか? 花畑の大鷲神社がオオトリと称されるようになるのは浅草の鷲神社オオトリの酉の市が盛んとなってからのことかもしれない。
1f14e99d.JPG 浅草鷲神社の隣に長国寺があって長国山鷲山寺(開祖は日蓮、千葉県茂原市鷲巣)の末寺で1823年に鷲大明神を開帳したという。鷲神社の事実上の別当だったということなのである。江戸名所図会には記載なく江戸末期の地図にはあることからも鷲神社の創祀はこのときとみてよいだろう。花畑の大鷲神社の別当は鷲王山正覚院で真言宗であるから寺としては長国寺とは無関係なのであろう。鷲王山と鷲山、どっちも鷲、神社名の由来はここからかもしれず、いわば偶然の一致なのか? 熊手の販売は花畑が先で、浅草での熊手販売は酉の日だけに限って認められていたのだという(安永年間《1772~1782年》の協定らしい)。
 花畑の熊手は実用品として古くから鶏を放す放生会のときの「浅草の市」で売られていたという。このときに縁起物の熊手も登場していたかもしれないが、有名になるのは1823年に開帳された長国寺の鷲大明神と酉の市からではないだろうか? もともと当地に日本武尊伝承もあって、花畑の大鷲神社の伝承と熊手ともどもに取り込まれたと考えることができそうである。
 熊手にくっついているお多福(おかめ)の面は何故なのだろうか。京都で最古とされる大報恩寺の本堂建立(国宝、1227年頃とされる)の棟梁の女房の「おかめ(阿亀)」伝承がある。もうひとつ、江戸時代中期~明治初期の禅宗の僧の書物に「ある説に、足利の末頃のある神社に亀女という巫子がいて天鈿賣命(アメノウズメノミコト)を信仰していた、その見目は悪いが愛敬があって心も好く、どんな悪者も亀女を見ると改心したことからその顔を面にしてお多福と名づけて広めたという、一説には宇受売命(うずめのみこと)の御顔に似せたとも伝えられる」とあるそうだ。
 「阿亀」伝承はいささか興味半分でもあり、鷲神社との関連性がみえないが、「亀女」伝承は天之日鷲命と天の岩戸の関係から天鈿賣命が重なってくる。吉原遊郭では遊女が遊びでお多福の面を使って興じていたそうで、洒落で熊手に吉原の遊びが加わったのではと推測できるが……
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