瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は土曜日、昼には歯科医に予約があるあるし、夕刻はTY君の親父さんの通夜に行かなくてはならないので、朝の徘徊は控えめにしようと、朝食後1時間ほどの散策とする。
小松橋通りと言問通りの間に千束に通じる道がある。これを柳通りまで進み、淺草見番の前の路地を右に入ったところに箭弓稲荷神社というのがある。「箭弓」は「やきゅう」と読むのだそうだ。千束通りからひさご通り、六区を抜けて、すし屋横丁へ、雷門通りにでる1つ手前の通り淺草1丁目14番の区画がある。この区画の真ん中の路地に「御手洗稲荷神社」というのがある。まん前に小型トラックが止めてあったので、体を横にして朱塗りの門を開けて中に入ってみた。由緒書きなど一切なく、どのような稲荷かよく判らない。トラック越しに鳥居の写真を撮っておいた。路地を南側に出た細い道に「無聿富稲荷神社」というのがあった。はてさて、これは何と読みどういう意味だんべえと考えながら、「聿」の音は「イツ・イチ」だから「むいつふ? 」「むいちふ? 」…… 鳥居を潜り中に入ると賽銭箱に書いてあったのは「無事富稲荷大明神」とある。まあ、これなら意味はよく判る。ただし、由緒書きなどは何処に見見当たらない。
雷門通りに出ると、只今建て替え中の水上バス淺草ステーションの工事現場を見ながら吾妻橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで北上、橋を渡って帰宅した。6750歩、4.3㎞という記録であった。
今日は、地図にも記されていない路地裏にある稲荷を回ってみたが、どのお稲荷さんも由緒・案内版らしきものは見当たらない。辛うじて、「箭弓稲荷神社」というのは埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」の講社であろうということが推測できる。
平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常(967~1031年)が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従へ、ついにその威を関八州に奮い、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきた。朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信(968~1048年)を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久(やきゅう)稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利した。帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷(やきゅういなり)と改めて呼ぶようにと里人に命じた。以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれている。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているという。ここ淺草3丁目の箭弓稲荷神社も、松山の箭弓稲荷神社の講社だろう。尚、台東区には上野にも箭弓稲荷神社があるが、これも松山の講社であろう。
「御手洗稲荷」についても、「みたらし」(団子の名前)、(みたらい)などの読みが考えられるが、まさか「おてあらい」と読むことはあるまい。いずれにしても「御手洗稲荷」「無事富稲荷」については全国的にもこんな名前の稲荷さんは少ないようである。「無事富稲荷」については、この辺りが元々淺草の三業地(「芸妓置屋」「料理屋」「待合」の施設のある土地)であったことを考え合わせるとこんな名前が付けられたことも肯けるのである。
小松橋通りと言問通りの間に千束に通じる道がある。これを柳通りまで進み、淺草見番の前の路地を右に入ったところに箭弓稲荷神社というのがある。「箭弓」は「やきゅう」と読むのだそうだ。千束通りからひさご通り、六区を抜けて、すし屋横丁へ、雷門通りにでる1つ手前の通り淺草1丁目14番の区画がある。この区画の真ん中の路地に「御手洗稲荷神社」というのがある。まん前に小型トラックが止めてあったので、体を横にして朱塗りの門を開けて中に入ってみた。由緒書きなど一切なく、どのような稲荷かよく判らない。トラック越しに鳥居の写真を撮っておいた。路地を南側に出た細い道に「無聿富稲荷神社」というのがあった。はてさて、これは何と読みどういう意味だんべえと考えながら、「聿」の音は「イツ・イチ」だから「むいつふ? 」「むいちふ? 」…… 鳥居を潜り中に入ると賽銭箱に書いてあったのは「無事富稲荷大明神」とある。まあ、これなら意味はよく判る。ただし、由緒書きなどは何処に見見当たらない。
雷門通りに出ると、只今建て替え中の水上バス淺草ステーションの工事現場を見ながら吾妻橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで北上、橋を渡って帰宅した。6750歩、4.3㎞という記録であった。
今日は、地図にも記されていない路地裏にある稲荷を回ってみたが、どのお稲荷さんも由緒・案内版らしきものは見当たらない。辛うじて、「箭弓稲荷神社」というのは埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」の講社であろうということが推測できる。
平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常(967~1031年)が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従へ、ついにその威を関八州に奮い、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきた。朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信(968~1048年)を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久(やきゅう)稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利した。帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷(やきゅういなり)と改めて呼ぶようにと里人に命じた。以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれている。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているという。ここ淺草3丁目の箭弓稲荷神社も、松山の箭弓稲荷神社の講社だろう。尚、台東区には上野にも箭弓稲荷神社があるが、これも松山の講社であろう。
「御手洗稲荷」についても、「みたらし」(団子の名前)、(みたらい)などの読みが考えられるが、まさか「おてあらい」と読むことはあるまい。いずれにしても「御手洗稲荷」「無事富稲荷」については全国的にもこんな名前の稲荷さんは少ないようである。「無事富稲荷」については、この辺りが元々淺草の三業地(「芸妓置屋」「料理屋」「待合」の施設のある土地)であったことを考え合わせるとこんな名前が付けられたことも肯けるのである。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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