瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 言問通りを西に向けて歩く。国際通りを南下してビューホテルを過ぎたところに、感應稲荷神社がある。門扉が閉まっていて、境内には入れないが、門の右側に小祠がみえる。中に入れないのでよく判らぬが、併社であるらしい。門扉の桟の間や玉垣の間からカメラを突っ込み何枚か写真撮影。さらに国際通りを南下して、ROXの前の新仲見世通りから国際通りを横切って真っ直ぐ進んだ角地に八幡神社がある。ここも門扉が閉まっていて境内には入れない。ここでも門扉や玉垣の間からカメラを入れてシャッターを押しては見たが、はてさてうまく撮れているやら?
e887498e.jpg 国際通りを更に南下、寿4丁目の交差点から淺草通りを東進。四つ目通りから京成橋を渡り、押上駅前商店街を抜けて桜橋通りを西に進み、桜橋まで来ると、遊歩道を南下するワンさんの姿を見たので思わず声を掛けた。桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は10888歩、7.0kmであった。
 感應稲荷神社は古くより柴崎村に鎮座していたが、天正19 (1591) 年に本銀町(普請場が有った所で、銀町《しろがねまち》とも言った。竜閑川の南側一帯で、今の中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯をよんだ)に遷座し、そのころから「感應稲荷神社」と呼ばれるようになったという。文禄元(1592)年、明暦3 (1657) 年にも鎮座地を移ったが、ついに元の浅草柴崎に落ち着き、柴崎村の鎮守神として人々の篤い信仰あつめ、現在に至っているという。
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八幡神社のあるこの地域の旧町名である浅草田島町は、明暦の大火(1657年)後に神田須田町から移ってきた田島山快楽院誓願寺(府中市紅葉丘に引っ越して、今は無いが、東本願寺《旧名;東京本願寺》と並ぶ壱千坪を越す大きさがあったらしい)に由来するという。八幡神社は元禄13年田島山快楽院誓願寺に宇佐八幡宮の分霊を勧誘し旧浅草田島町の鎮守としたことにはじまる。誓願寺の中にあったが神仏分離政策で独立し、明治6年廃仏起釈により浅草神社の管理下になる。誓願寺が府中市に移転した後もこの地に残ったということである。戦災により焼失するも昭和24年同地に再建、昭和47年コンクリートの社として改築された。
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