瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日と同じく、言問通りから馬道。路地から淺草神社に出る。鳥居を潜ると境内の右前方に神木といわれている槐(えんじゅ」の木が立つ。手前の狛犬像の西側の1区画に幾つかの石碑や案内板がたつ。区画の中央に「檜前(ひのくま)の馬牧(うままき)」の案内板があり、その前に扇塚があり、これらの右(北側)に花柳壽輔の句碑、左(南側)に初代中村吉右衛門の句碑、花塚の碑、河竹黙阿弥顕彰碑などが建っている。これらをデジカメに入れると、仲見世の東側裏道を通り雷門通りへ出る。さらに並木通りを南下して、駒形橋に出る。駒形橋の上からも東京スカイツリーが目立つようになった。遊歩道を白鬚橋まで北上、橋を渡ると対岸の落書遊歩道を南下して帰宅した。9724歩、6.3㎞と記録されていた。
昭和20年3月10日の東京大空襲で当時のご神木は焼けてしまったそうであるが、現在10mにも及ぼうとするこの槐の木は言い伝えの通りに自生してきて育ったものであるという。
檜前の馬牧 :大宝元(701)年、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられている。 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされている。時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになったとある。
この区画には扇塚があり、古くなった扇が供養されるようになっている。舞踊で使い親しんだ扇が使えなくなってもただゴミとして捨てるのではなく、丁寧に供養することになっている。古扇納め箱(扇入)の横にある立て札に金文字でに曰く「わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことの出来ない品でございます/使い古された扇はどうぞこの箱の中にお納め下さい/毎年四月八日にご祈祷の上扇に感謝のご供養をいたします 花柳流花柳会」
「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが1849年であり、この頃に花柳流が成立したと見られる。「花柳」という名前の由来には諸説あるが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、破門の後に一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けたといわれている。
初代中村吉右衛門(1886~1954年)は 3代目中村歌六の長男として東京に生まれる。明治30(1897)年に中村吉右衛門を名乗り初舞台。 6代目尾上菊五郎(1885~1949年)とは若い時から市村座でともに舞台に立ち、「菊・吉」と並び称された。世話物を得意とした菊五郎に対し、9代目市川団十郎の芸風を受け継ぎ時代物に当たり役が多くある。『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実はその当たり役の一つであった。
河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。黙阿弥調と呼ばれる華美な科白が特徴である。ご存知「月も朧に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめたい風もほろ酔に、心持好く浮か浮かと、浮かれ烏の只一羽、塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両、…こいつあ春から縁起がいいわえ(「三人吉三廓初買」大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白)」「知らざあ言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜…(「青砥稿花紅彩画」《あおとぞうし はなの にしきえ》浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白)」などがある。
笠翁斎乱鳥は、享和3(1803)7月晦日に死去。享年88歳。花塚の建碑は翌年の文化元(1804)年3月17日だったという。この慰霊祭は花供養とも言われていて、生け花や花の販売を生業(なりわい)とする者たちが花に感謝し、お花の霊を慰める気持で行う大切な行事にもなっているという。今では、この花供養はお釈迦様の誕生日の「花まつり」4月8日に行われるという。
昭和20年3月10日の東京大空襲で当時のご神木は焼けてしまったそうであるが、現在10mにも及ぼうとするこの槐の木は言い伝えの通りに自生してきて育ったものであるという。
檜前の馬牧 :大宝元(701)年、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられている。 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされている。時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになったとある。
この区画には扇塚があり、古くなった扇が供養されるようになっている。舞踊で使い親しんだ扇が使えなくなってもただゴミとして捨てるのではなく、丁寧に供養することになっている。古扇納め箱(扇入)の横にある立て札に金文字でに曰く「わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことの出来ない品でございます/使い古された扇はどうぞこの箱の中にお納め下さい/毎年四月八日にご祈祷の上扇に感謝のご供養をいたします 花柳流花柳会」
「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが1849年であり、この頃に花柳流が成立したと見られる。「花柳」という名前の由来には諸説あるが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、破門の後に一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けたといわれている。
初代中村吉右衛門(1886~1954年)は 3代目中村歌六の長男として東京に生まれる。明治30(1897)年に中村吉右衛門を名乗り初舞台。 6代目尾上菊五郎(1885~1949年)とは若い時から市村座でともに舞台に立ち、「菊・吉」と並び称された。世話物を得意とした菊五郎に対し、9代目市川団十郎の芸風を受け継ぎ時代物に当たり役が多くある。『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実はその当たり役の一つであった。
河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。黙阿弥調と呼ばれる華美な科白が特徴である。ご存知「月も朧に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめたい風もほろ酔に、心持好く浮か浮かと、浮かれ烏の只一羽、塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両、…こいつあ春から縁起がいいわえ(「三人吉三廓初買」大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白)」「知らざあ言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜…(「青砥稿花紅彩画」《あおとぞうし はなの にしきえ》浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白)」などがある。
笠翁斎乱鳥は、享和3(1803)7月晦日に死去。享年88歳。花塚の建碑は翌年の文化元(1804)年3月17日だったという。この慰霊祭は花供養とも言われていて、生け花や花の販売を生業(なりわい)とする者たちが花に感謝し、お花の霊を慰める気持で行う大切な行事にもなっているという。今では、この花供養はお釈迦様の誕生日の「花まつり」4月8日に行われるという。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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