瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 本日は終戦記念日、まあ今の爺にはあまり関係ない。悪い思い出は少しでも忘れるようにしよう。言問通りを国際通りまで西へ、国際通りを寿2丁目の信号まで南下。ここを左折して暫く進むと、大きなものではないが、道に面した石囲いや石柱に劇場関係や役者の名前が刻まれたお堂がある。外からの外観とお堂の撮影は出来たが、門扉は半分開かれていて、その扉が台東区教育委員会の案内板を覆い隠していて写真に取ることは出来なかった。説明板をみて、ここが佐倉惣五郎供養する「宗吾殿」であると知った。
7982cefc.jpg さらに東に進むとそれこそ猫の額ほどの家1軒分ほど場所に黒船神社というのがあった。あのペリー来航で騒がせた黒船に関係あるとも思ったが、どうやら嘉永6(1853)年のペリー来航とは何の関係もないことがわかった。
左に駒形どぜう、右に玩具のバンダイ本社のビルで江戸通りに出た。バンダイ本社ビルの南側に江戸通りに面してこれまたせせこましい所に諏訪神社があった。まあ、ここは日を改めてと取材と見過ごして蔵前橋まで南下。蔵前橋を渡ると、蔵前橋通りを三つ目通りまで東進、三つ目通りを北上して源森橋を渡ると旧水戸藩下屋敷庭園を抜けて、言問橋を渡って帰宅した。水戸庭園の池では水鳥(ハクガン)が百日紅(さるすべり)の花が散り注ぐ下で遊んでいた。カメラを向けても逃げようともしない。かなり人に馴れているようだ。本日の記録は10711歩、6.9㎞とあった。
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a967e940.jpg 惣五郎は下総国佐倉公津村の農民(名主とする説もある)で、江戸の初期・承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主の堀田正信に直訴を図り、その罪(当時、直訴は御法度)により処刑された。後年、歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、法要も営んでいる。この辺りは正信の子、正休の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地で、宗吾殿は同家の敷地内にあったという。享和5(1803)年に150回忌の法要が営まれたその頃に建立されたようである。惣五郎はその後、芝居や講談の題材となり、明治に入ってから当主・堀田正養により宗吾殿の一般参詣を許可し、それ以降、劇場関係者や庶民から多くの信仰を集めている。現在のお堂は戦災後、1953年に有志により再建されている。案内板に曰く、「宗吾殿(そうごでん)/台東区寿三丁目十九番十二号/宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国(現千葉県)佐倉公津村の農民(一説に名主)惣五郎(宗吾)を供養する堂である。惣五郎は、江戸初期承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主堀田正信(1631~1680年)のとき、直訴を図った罪により処刑された。後年、佐倉藩歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、百回忌などの法要を営んでいる。/その後、この付近は堀田正信の子、正休の家系である近江国(現滋賀県)宮川藩主堀田家の屋敷地となる。宗吾殿は同家が屋敷内に建立したものである。建立年代は不明だが、宮川藩堀田家では、享和5 (1803) 年に惣五郎の150回忌法要を営んでおり、堂もこの頃に建立したものと考えられる。/江戸末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となり広く世に知られた。明治12年、当主堀田正養(ほったまさやす、1848~1911年)は、一般の宗吾殿参詣を許可し、以来劇場関係者や庶民の信仰を集めている。/現在の堂は、戦災の後、昭和28年に有志によって再建され、毎年9月には縁日が行われている。/台東区教育委員会」
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b758ff53.JPG 春日通りを西から東進し江戸通りと交差する手前の南側・蔵前三丁目に『江戸名所図会』にも 榧寺 ( かやでら) の通称で載っている正覚寺がある。「黒船町にあり。浄土宗にして増上寺に属す。池中山正覚寺と号す。…… 往古 ( そのかみ 当寺に名ある大木の榧ありし故に号とせりといへり」とある。『図会』は榧寺の所在地を黒船町と記しているが、昭和9年まで浅草黒船町という町があった。現在の寿一丁目、駒形一丁目、蔵前三丁目の内で、江戸時代初期から存在した町名のようで、黒船・外国船の船長が宿泊した所があった、さらには徳川家康に仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)のリーフデ号とも、オランダ船であったなどの諸説があって、はっきりしない。今、寿四丁目にあるこの黒船神社という小さなお宮は、東京都神社名鑑(上下巻、東京都神社庁編纂/1986年発行)によると、「天慶3(940)年、平将門(?~940年)を破った平貞盛(たいらのさだもり、生没年不詳)を祀ったのが始まりと伝えられる歴史の古い神社で、現在地より東の隅田川べりにあったのが享保17(1732)年の火災後、現在地に移った」とある。ところが現在、江東区牡丹一丁目にも同名の黒船稲荷神社というのがあって、同じ名鑑に享保17年、浅草黒船町から移ったもので、元地での創建は応徳3(1086)年とある。黒船は町名も神社も判らないことが多い。幕末ペリーの黒船来港とは関係がならしく、その証拠に、鳥居は寛文11(1671)年、灯籠は安永2(1773)年、手水鉢は寛政7(1795)年と刻まれていて、この神社の創建はペリー来航より随分前のことになるとおもわれる。黒船の呼称はペリー来航以前にも、古く安土・喪も山時代より、南蛮船を呼び、欧米の強大な軍事力・経済力の象徴として広く国内で呼ばれていたという。
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