瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日見過ごした諏訪神社を目当てに江戸通りを南下。松屋の向こうの明け初めたそらに虹が出ている。諏訪神社に立ち寄った後、蔵前警察署の横から榊神社の横を通っていると、境内に赤い鳥居が見えるので立ち寄ってみた。繁盛稲荷神社と向かい合わせに七福稲荷神社というのがあった。榊神社については既に取材済みで、ブログに書いたが、同じ境内にあるこれらのお稲荷さんについては書き落としてしまった。七福稲荷の鳥居を潜ると、そこには2つの小祠が並んでおり、その横に「豊受神社・事比羅神社」という標柱が立っている。その2つの小祠の前にさらに鳥居がある。案内板がないかとさがしてみたが、どこにもみあたらない。どれが七福稲荷で、どれが豊受神社・事比羅神社か判らずじまいで、榊神社をでて、柳橋に出て、両国橋を渡ると、橋の東端からテラスに降りて、テラスを北上した。本日は日曜日とあって、東京湾へ下る釣り船とも行き交う。厩橋袂でゴルフの素振りをしているT氏と会う。吾妻橋でテラスから上がると、桜橋まで北上して、桜橋を渡って帰宅した。本日の記録は11026歩、7.1㎞。
諏訪神社の祭神は信濃国諏訪大社と同じく、健御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売神(やさかとめのかみ)。建御名方神は建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられていて、大国主神と高志沼河姫(こしのぬながわひめのみこと)との間にできた御子とある。神名の意味は、タケは神を称える美称で、ミナカタは諸説あるが、妻である八坂刀売神に会いに出かける跡とされる諏訪湖の結氷上の亀裂「御神渡り」という伝承などから考えて水潟(みなかた)からきているという説が有力である。東京都神社庁発行の『東京都神社名鑑』に、「同神社は武家勢力が京都朝廷を圧倒する契機になった承久の乱(1221年)の後、信濃国諏訪郡小日村の神官によって諏訪大社(上社)の分霊が現在地に祀られた」と伝えられている。つまり、創建は鎌倉時代にさかのぼる。天正年間には神主が数代に亘って奉仕したと伝えられ、その後、浅草寺の修善院が別当として奉仕して来たという。鳥居の袂にある小祠については全く不明。江戸時代、神社名にちなんで周辺は諏訪町と名付けられた。絵図にも、駒形町の南に同町より広い範囲に「諏訪町」と記されている。しかし昭和9年、全域が当時の浅草駒形町一丁目に編入され、諏訪町は消滅したという。
榊神社境内の繁昌稲荷神社(倉稲魂神)、七福稲荷神社(倉稲魂神)、事比羅神社(大己貴神)、豊受神社(豊受姫神)について、帰宅後いろいろ調べてみたが、繁盛稲荷、七福稲荷については何一つ判らない。まあ、この辺りは沢山の米蔵があり、札差や両替商が集中していた所で、お江戸の経済の中心地帯、謂わば「粋筋」ので何処である。まあ、こういう名前のお稲荷さんがあったにしても不思議ではない。豊受神社は伊勢神宮の外宮の豊受神宮からの勧請だろうか? 事比羅神社は香川県の金刀比羅宮からの勧請なのだろうか? これらについても詳しいことは解らずじまいである。
午後、高校の同期で横浜在住のN氏が訪ねてくれた。話に夢中になり、写真を撮るのも忘れてしまった。
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目高 拙痴无
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