瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
言問通りを国際通りまで西進。国際通りを南下、寿4丁目の信号を過ぎて2つ目の路地を左に入ると、三島神社がある。台東区には3つの三島神社があるので、取り敢えずここは「寿 三島神社」としておこう。昔はかなりの土地を有していたのだろうが、削りに削られていまでは辛うじて鳥居は路地にあるものの本殿と摂社の石稲荷髪稲荷神社はコンクリートの階段を上がった上にあり、その下はガレージとなっている。本家本元の三島神社の由緒書きもなければ、案内板もない。まして摂社の謂れを書いたものなど何処にも見当たらない。
神社前の路地を江戸通りまで進み、駒形橋を渡り、淺草通りを東進、三つ目通りを過ぎて、四つ目通りから京成橋の上にでると、スカイツリーの写真を撮り、押上商店街から、東武伊勢崎線の踏切を渡り、桜橋通りを西進、見番通りから弘福寺・長命寺の前を通り、川沿いの遊歩道に出ると白鬚橋の方からワンさんが近付いてくる。カメラを向けてシャッターを切るが、慌てていたのか少々ピンボケの写真になってしまった。本龍院(聖天様)に立ち寄るワンさんと桜橋を渡り、隅田公園を出たところで別れ、帰宅した。9940歩、6.4㎞という記録であった。
寿三島神社の縁起は元三島神社と全く同じで、承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡したが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承した。後の蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇(おおやまつみ)神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起である。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが御用地となったため、1650年に浅草小揚町(現、蔵前4丁目~寿4丁目)に移転する。元三島神社縁起によれば、金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったために氏子が要望して浅草小揚町から根岸に再び移転して元三島神社になったとある。御府内寺社備考(台東区教育委員会発行)に曰く、「浅草三嶋西蔵院前 三嶋明神社。本社土蔵造二間四方、供殿二間四方、拝殿間口三間奥行二間、神体幣、随身丈ニ尺五寸、相殿十一面観世音木像長九寸、弁財天木像長八寸。御供所間口五間奥行三間。石鳥居高一丈三尺横一丈四尺。末社、稲荷宮ニ社。別当円明山宝福寺西蔵院、新義真言宗足立郡元木村吉祥院末、寺在豊嶋郡金杉村。以上乙酉書上。/清水稲荷の西なり。西蔵院の持とす。祭神ハ大山祇命なり。当社ハむかし上野の麓にありしか。元禄のころ此地に移さるといへり。/縁起にいふ、延久2年5月、武州豊嶋郡領主江川団左衛門安経と云人、下谷金杉根岸村に三嶋を祭、本地薬師仏を造立、金杉鎮守とす。宝永中台命に因りて浅草へ遷さる。祭事5月15日・9月15日なり。」
祭神の、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味という。別名の和多志大神(ワタシノオオカミ)の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、木花之佐久夜姬(コノハナノサクヤビメ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に捧げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。
摂社に石稲荷髪稲荷神社があるが、その由緒などについては不明。江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3を含む広範囲)にあった社を当地(浅草駒形町の西2丁ほどの位置)に移転したとある。1丁は約109mであるから、名所図会の時点では現在地でほぼ間違いない。今は下階が駐車場のコンクリート造りの上に坐しまし、商業地の真ん中の狭い敷地では神様もたいへんなのである。縁起では1650年に小揚町に移転とあるが、これは現在の蔵前3及び4丁目付近から当地の寿3丁目に至る大名屋敷の並ぶ当社の南隣になる。移転年に数十年のずれがあることから火災ないし大名屋敷設置のために小移転しているのかもしれない。(この付近は「なになに代地」といったなんらかの移転による代替地名が入りくんでいる)
台東区には元三島神社と下谷三島神社と当社があるが、江戸名所図会に書かれているのは当社のみである。この3社の関係はいささか複雑あるようだ。江戸末期の地図(1850年頃)にはそれぞれ現在地の元三島権現社と当社が記載されているが、下谷三島神社は記載がない。江戸名所図会の完成は1832年であるから、江戸初期の三島神社は寛永寺東麓にあり、1650年に浅草小揚町に移転、1688~1704年頃に現地点に小移転し、江戸末期に根岸に再び移転したことがうかがえるのである。移転を繰り返したために複数の三島神社が登場したものであろう(当社の別当は金杉西蔵院)。なお、江戸名所図会(1832年)には諏訪社がいっしょに描かれている。江戸末期の地図(1860年頃)には当社と諏訪社の中間に黒船神社の3社が記載されている。黒船神社は位置を少し変えて現存している。
神社前の路地を江戸通りまで進み、駒形橋を渡り、淺草通りを東進、三つ目通りを過ぎて、四つ目通りから京成橋の上にでると、スカイツリーの写真を撮り、押上商店街から、東武伊勢崎線の踏切を渡り、桜橋通りを西進、見番通りから弘福寺・長命寺の前を通り、川沿いの遊歩道に出ると白鬚橋の方からワンさんが近付いてくる。カメラを向けてシャッターを切るが、慌てていたのか少々ピンボケの写真になってしまった。本龍院(聖天様)に立ち寄るワンさんと桜橋を渡り、隅田公園を出たところで別れ、帰宅した。9940歩、6.4㎞という記録であった。
寿三島神社の縁起は元三島神社と全く同じで、承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡したが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承した。後の蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇(おおやまつみ)神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起である。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが御用地となったため、1650年に浅草小揚町(現、蔵前4丁目~寿4丁目)に移転する。元三島神社縁起によれば、金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったために氏子が要望して浅草小揚町から根岸に再び移転して元三島神社になったとある。御府内寺社備考(台東区教育委員会発行)に曰く、「浅草三嶋西蔵院前 三嶋明神社。本社土蔵造二間四方、供殿二間四方、拝殿間口三間奥行二間、神体幣、随身丈ニ尺五寸、相殿十一面観世音木像長九寸、弁財天木像長八寸。御供所間口五間奥行三間。石鳥居高一丈三尺横一丈四尺。末社、稲荷宮ニ社。別当円明山宝福寺西蔵院、新義真言宗足立郡元木村吉祥院末、寺在豊嶋郡金杉村。以上乙酉書上。/清水稲荷の西なり。西蔵院の持とす。祭神ハ大山祇命なり。当社ハむかし上野の麓にありしか。元禄のころ此地に移さるといへり。/縁起にいふ、延久2年5月、武州豊嶋郡領主江川団左衛門安経と云人、下谷金杉根岸村に三嶋を祭、本地薬師仏を造立、金杉鎮守とす。宝永中台命に因りて浅草へ遷さる。祭事5月15日・9月15日なり。」
祭神の、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味という。別名の和多志大神(ワタシノオオカミ)の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、木花之佐久夜姬(コノハナノサクヤビメ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に捧げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。
摂社に石稲荷髪稲荷神社があるが、その由緒などについては不明。江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3を含む広範囲)にあった社を当地(浅草駒形町の西2丁ほどの位置)に移転したとある。1丁は約109mであるから、名所図会の時点では現在地でほぼ間違いない。今は下階が駐車場のコンクリート造りの上に坐しまし、商業地の真ん中の狭い敷地では神様もたいへんなのである。縁起では1650年に小揚町に移転とあるが、これは現在の蔵前3及び4丁目付近から当地の寿3丁目に至る大名屋敷の並ぶ当社の南隣になる。移転年に数十年のずれがあることから火災ないし大名屋敷設置のために小移転しているのかもしれない。(この付近は「なになに代地」といったなんらかの移転による代替地名が入りくんでいる)
台東区には元三島神社と下谷三島神社と当社があるが、江戸名所図会に書かれているのは当社のみである。この3社の関係はいささか複雑あるようだ。江戸末期の地図(1850年頃)にはそれぞれ現在地の元三島権現社と当社が記載されているが、下谷三島神社は記載がない。江戸名所図会の完成は1832年であるから、江戸初期の三島神社は寛永寺東麓にあり、1650年に浅草小揚町に移転、1688~1704年頃に現地点に小移転し、江戸末期に根岸に再び移転したことがうかがえるのである。移転を繰り返したために複数の三島神社が登場したものであろう(当社の別当は金杉西蔵院)。なお、江戸名所図会(1832年)には諏訪社がいっしょに描かれている。江戸末期の地図(1860年頃)には当社と諏訪社の中間に黒船神社の3社が記載されている。黒船神社は位置を少し変えて現存している。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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