瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
一昨日の日曜日は衆議院選挙、昨日月曜日は台風11号の北上で1日中荒れ模様。2日間徘徊をお休み。
今朝の東京の日の出は5時13分。5時に家を出たときはまだ暗い。
江戸通りを南下→ 蔵前通りを西に進む→ 台東1丁目→ 清洲橋通りを南下→ 台東1丁目と神田和泉町の境の通りを西へ(台東区旧町名由来板・二長町)→ 凸版印刷敷地(市村座跡地碑・千代田稲荷神社)→ 蔵前橋通りを西へ→ 浅草通り→ 東京メトロ銀座線末広町駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通りを北上→ 言問橋5叉路(言問橋越しに東京スカイツリー)→ 自宅 以上、9628歩、6.2㎞
ここ下谷二長町(現台東1丁目)に市村座が開場したのは明治25(1892)年のことである。市村座は寛永11(1634)年に日本橋葺屋町に創設され、後に「森(守)田座」「中村座」と共に江戸三座とよばれるようになる。天保13(1842)年に淺草猿若町2丁目に移り、ついでここ二長町に再転するが、明治26年2月に焼失する。翌年明治27年7月に再建して東京市村座と呼ばれる。再建の劇場は煉瓦造り3階建てでその舞台では6世尾上菊五郎・初代中村吉衛門らの人気役者が上演して、満都の人気を集めたという。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅したという。現在はその面影を伝えるものは殆んどなく、石碑(凸版印刷の正面玄関)の裏手にある菊五郎・吉右衛門が信仰したという千代田稲荷が現存する程度である。明治25年から昭和の初期にかけて450坪ほどの敷地に収容人数千数百人という大劇場が存在していたとは驚くべきことではある。
千代田稲荷神社の祭神は宇賀御魂神といわれ、その昔長禄元(1457)年太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を場内に遷座し、守護神としたのが始まりであるという。その後、徳川家康が慶長8(1603)年入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し、江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当たり渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。
歌舞伎との関連は、天保の改革によって猿若町に芝居町が形成されてから数十年が経過した頃、物価騰貴などの理由で世相は暗く猿若三座の顔見世狂言も取りやめになったためこの千代田稲荷を分社して、一陽来福と繁昌を祈願するに至った。その後明治25年に市村座が移転。同27年には近代建築に再建され、この神社も劇場の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、 昭和7年の市村座の焼失時に奇しくも類焼を免れたため、地元町会により現在地に再建され、現在に至っているという。
今朝の東京の日の出は5時13分。5時に家を出たときはまだ暗い。
江戸通りを南下→ 蔵前通りを西に進む→ 台東1丁目→ 清洲橋通りを南下→ 台東1丁目と神田和泉町の境の通りを西へ(台東区旧町名由来板・二長町)→ 凸版印刷敷地(市村座跡地碑・千代田稲荷神社)→ 蔵前橋通りを西へ→ 浅草通り→ 東京メトロ銀座線末広町駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通りを北上→ 言問橋5叉路(言問橋越しに東京スカイツリー)→ 自宅 以上、9628歩、6.2㎞
ここ下谷二長町(現台東1丁目)に市村座が開場したのは明治25(1892)年のことである。市村座は寛永11(1634)年に日本橋葺屋町に創設され、後に「森(守)田座」「中村座」と共に江戸三座とよばれるようになる。天保13(1842)年に淺草猿若町2丁目に移り、ついでここ二長町に再転するが、明治26年2月に焼失する。翌年明治27年7月に再建して東京市村座と呼ばれる。再建の劇場は煉瓦造り3階建てでその舞台では6世尾上菊五郎・初代中村吉衛門らの人気役者が上演して、満都の人気を集めたという。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅したという。現在はその面影を伝えるものは殆んどなく、石碑(凸版印刷の正面玄関)の裏手にある菊五郎・吉右衛門が信仰したという千代田稲荷が現存する程度である。明治25年から昭和の初期にかけて450坪ほどの敷地に収容人数千数百人という大劇場が存在していたとは驚くべきことではある。
千代田稲荷神社の祭神は宇賀御魂神といわれ、その昔長禄元(1457)年太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を場内に遷座し、守護神としたのが始まりであるという。その後、徳川家康が慶長8(1603)年入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し、江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当たり渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。
歌舞伎との関連は、天保の改革によって猿若町に芝居町が形成されてから数十年が経過した頃、物価騰貴などの理由で世相は暗く猿若三座の顔見世狂言も取りやめになったためこの千代田稲荷を分社して、一陽来福と繁昌を祈願するに至った。その後明治25年に市村座が移転。同27年には近代建築に再建され、この神社も劇場の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、 昭和7年の市村座の焼失時に奇しくも類焼を免れたため、地元町会により現在地に再建され、現在に至っているという。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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