瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
朝まだきの言問通りを西進。今年は例年より早く秋が来た感じで家を出るときは肌寒い感じである。一昨日は満月だった月が、まだ暗い観音裏の西空に輝いている。かっぱ橋道具街を南下。かっぱ橋本通りから2つ目か、3つ目の路地を右折したところに、矢先稲荷神社がある。この辺りはかつては松葉町と呼ばれたところであり、江戸時代の初め淺草三十三間堂があったところだと聞く。
弓師備後が天海僧正の取り次ぎで、三代将軍徳川家光より下賜金をもらい、武士の弓の稽古をするために、京都三十三間堂を模して、各武家の協力で浅草三十三間堂が建てられた。この堂の守護神として稲荷大明神を建立する際、三十三間堂の端から矢を通す「通し矢」の先に祀られたお稲荷さんのため、「矢先稲荷神社」と命名された。『武江年表』の寛永19(1642)年の項に「三十三間堂始て浅草に建つ」とあって、建立の経緯を記して曰く、「基立人新両替町弓師備後は、天海僧正につかへたる人なり。諸士稽古のため、御当地三十三間堂造営したき志願に付き、僧正の執奉により、御金若干を給はり、其の上諸家の施財をつのりてつひに成就す」 新両替町は現在の銀座通りの1~4丁目に当たり、通りの北側には弓作りの職人・弓師が多く住む弓町があったという。江戸の三十三間堂は、信仰より弓道発展のために建立されたものだった。京都の三十三間堂の通し矢は有名な行事だったのだろうし、天海僧正のとりなしもあって幕府も武術振興のためならと“補助金”を出したのだろう。完成した江戸の三十三間堂では、当然通し矢が行われた。
ところが、この三十三間堂は元禄11(1698)年9月の大火で焼けてしまった。『武江年表』に「此の時浅草三十三間堂焼けて、元禄十四年に至り深川に建つ」と記されている。浅草の三十三間堂の歴史は56年間で幕を閉じたことになる。三十三間堂の浅草での再建はできず、深川富岡八幡宮隣に再建され明治5年まであったという。その鎮守である当社は信仰心の篤い地元町民の要望で当地の産土神として残り、昭和35年に再建された。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀り、神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっているという。
矢先稲荷神社を後に、かっぱ橋道具街を淺草通りまで南下。淺草通りを東進、駒形橋から業平橋にかかる手前に墨田区教育委員会の案内板を見つけた。大岡政談で知られる縛られ地蔵の南蔵院はこの辺りにあったという。四つ目通りから左手に東京スカイツリーをながめながら、京成橋を渡ると桜橋通りを西進、桜橋を渡り帰宅した。10715歩、6.9kmと記録されていた。
早朝のこととて本殿の扉が閉まっていて、拝見することはできなかったが、帰宅して矢先稲荷神社について調べていると、拝殿の格天井には、神代から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた絵が奉納されているといういうことを知った。人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが精密な考証のもとに描き上げられていて、馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解できる貴重なものであるという。ネットあった写真を借用編集して、掲載しておこう。
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