瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
江戸通りを南下して、春日通りを渡った1つ目乃至は2つ目の路地を右折すると蔵前神社がある。正面鳥居の左に「蔵前神社由緒沿革」の案内板が立っているが、写真に撮っては見たが字が細かくて読み辛い。凡そ次のようにあった。
当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6(1693)年、山城國(やましろのくに=京都)男山(おとこやま)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を当地に勧請したのが始まりという。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤(アツ)く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進されたという。文政年間(1818~1830年)の『御府内備考続編』(ごふないびこうそくへん)ならびに『寺社書上』(じしゃかきあげ)に曰く、「御祭神/誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)/息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)/姫大神(ヒメノオオカミ)/倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)/菅原道真公(スガワラミチザネコウ)/塩 土 翁 命(シオツチノオキナノミコト)//石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数2271坪6合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。」すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていたが、その12年後の延享元年、元地である藏前(八幡町)に還幸した。当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていた。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見ることができる。正式な社号は『石清水八幡宮』であるが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者が多く関東地方における名社の一つに数えられたという。また、天保12(1841)年には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=なりたさんおたび)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優(ただやす)の達を受けて、当社境内に遷さた。幕末の安政2(1855)年10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見たが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔=おおせがきとう)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめたという。明治に入ると、その3月に『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となった。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移された。明治6年、郷社に列格し、同11年、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに同19年、再び『石清水八幡宮』と改称した。其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竈(しおがま)神社』(陸奥國のち陸前國宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。
また、当社は相撲と深い関係がある。江戸時代、当境内で勧進大相撲が開催された。その回数は宝暦7(1757)年を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その勧進大相撲の3大拠点の一つであった。とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍したという。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られたが、なかでも、天明2(1782)年2月場所7日目、安永7(1778)年以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を大騒ぎさせたという。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたもので、財団法人日本相撲協会では本興行をもって、従来、京・大坂に従属した江戸相撲の独立形態とみなしている。そして、当社で開催された宝暦11(1761)年10月場所より、従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、財団法人日本相撲協会の直属機関でもある相撲博物館には、一部の勝負付けは欠落してはいるが、当場所以来の『殆どの勝負付け』が現存・所蔵されている。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていた。このような史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されているのである。
境内社(末社)に福徳稲荷神社があり、祭神は倉稲魂命。商売繁昌、五穀豊穣、家内安全に新得ありとされる。例祭は2月の初午の日である。
蔵前神社を後にして、蔵前警察署の横から榊神社、淺草中学校の前をとおって、隅田川沿いの道を南下する。総武線のガードを潜って、柳橋へ向う途中に「石塚稲荷神社」というのがあった。
元和6年、2代将軍秀忠の頃、隅田川沿いに「浅草御蔵」が作られ柳橋(旧名・旅籠町)は急に賑やなったという。旅籠町の人々は町内の安全と火除けを祈り、石塚稲荷神社をお祭した。数度の御蔵拡張で、元禄・享保のころ、御蔵森田町・片町などが今の柳橋1丁目1番あたりに移って、この地は「柳橋代地」と呼ばれるようになった。その中心が石塚稲荷なのである。総武線の高架線沿いをまっすぐに東に進むと隅田川にぶつかる。河岸通りを右に回ると石塚神社がある。江戸、明治、大正、昭和の中頃まで、料亭や芸者衆でにぎわった柳橋代地。石塚稲荷神社の鳥居の左側には柳橋料亭組合、右には柳橋芸妓組合の大きな文字が彫られている。地元花柳界で大事にされてきたことが良く判る。玉垣の内側に「台東区旧町名由来板」があり、旧淺草柳橋の説明が書かれている。
柳橋を渡り、両国橋東からテラスに降りて、吾妻橋まで南下。吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。本日の徘徊記録歩数10264歩、距離6.6km。
当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6(1693)年、山城國(やましろのくに=京都)男山(おとこやま)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を当地に勧請したのが始まりという。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤(アツ)く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進されたという。文政年間(1818~1830年)の『御府内備考続編』(ごふないびこうそくへん)ならびに『寺社書上』(じしゃかきあげ)に曰く、「御祭神/誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)/息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)/姫大神(ヒメノオオカミ)/倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)/菅原道真公(スガワラミチザネコウ)/塩 土 翁 命(シオツチノオキナノミコト)//石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数2271坪6合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。」すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていたが、その12年後の延享元年、元地である藏前(八幡町)に還幸した。当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていた。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見ることができる。正式な社号は『石清水八幡宮』であるが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者が多く関東地方における名社の一つに数えられたという。また、天保12(1841)年には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=なりたさんおたび)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優(ただやす)の達を受けて、当社境内に遷さた。幕末の安政2(1855)年10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見たが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔=おおせがきとう)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめたという。明治に入ると、その3月に『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となった。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移された。明治6年、郷社に列格し、同11年、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに同19年、再び『石清水八幡宮』と改称した。其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竈(しおがま)神社』(陸奥國のち陸前國宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。
また、当社は相撲と深い関係がある。江戸時代、当境内で勧進大相撲が開催された。その回数は宝暦7(1757)年を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その勧進大相撲の3大拠点の一つであった。とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍したという。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られたが、なかでも、天明2(1782)年2月場所7日目、安永7(1778)年以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を大騒ぎさせたという。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたもので、財団法人日本相撲協会では本興行をもって、従来、京・大坂に従属した江戸相撲の独立形態とみなしている。そして、当社で開催された宝暦11(1761)年10月場所より、従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、財団法人日本相撲協会の直属機関でもある相撲博物館には、一部の勝負付けは欠落してはいるが、当場所以来の『殆どの勝負付け』が現存・所蔵されている。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていた。このような史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されているのである。
境内社(末社)に福徳稲荷神社があり、祭神は倉稲魂命。商売繁昌、五穀豊穣、家内安全に新得ありとされる。例祭は2月の初午の日である。
蔵前神社を後にして、蔵前警察署の横から榊神社、淺草中学校の前をとおって、隅田川沿いの道を南下する。総武線のガードを潜って、柳橋へ向う途中に「石塚稲荷神社」というのがあった。
元和6年、2代将軍秀忠の頃、隅田川沿いに「浅草御蔵」が作られ柳橋(旧名・旅籠町)は急に賑やなったという。旅籠町の人々は町内の安全と火除けを祈り、石塚稲荷神社をお祭した。数度の御蔵拡張で、元禄・享保のころ、御蔵森田町・片町などが今の柳橋1丁目1番あたりに移って、この地は「柳橋代地」と呼ばれるようになった。その中心が石塚稲荷なのである。総武線の高架線沿いをまっすぐに東に進むと隅田川にぶつかる。河岸通りを右に回ると石塚神社がある。江戸、明治、大正、昭和の中頃まで、料亭や芸者衆でにぎわった柳橋代地。石塚稲荷神社の鳥居の左側には柳橋料亭組合、右には柳橋芸妓組合の大きな文字が彫られている。地元花柳界で大事にされてきたことが良く判る。玉垣の内側に「台東区旧町名由来板」があり、旧淺草柳橋の説明が書かれている。
柳橋を渡り、両国橋東からテラスに降りて、吾妻橋まで南下。吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。本日の徘徊記録歩数10264歩、距離6.6km。
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