瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
江戸通りを南下、蔵前橋通りからジグザグコースで柳橋に出る。柳橋を渡り、靖国通りを横切った処に案内地図があり、それに拠るとすぐ近くに川上稲荷神社というのがあったので、立ち寄ってみた。
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川上稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神で今から378年前、寛永5(1628)年7月の創建と伝えられる。古来「川上稲荷」と称し、江戸幕府の乗船場に在ったもので、明治2年4月、新開の街となるに及び神域を当地に移して崇敬しているという。明治6年1月より神田神社の兼務社となり、昭和20年戦禍にて烏有(うゆう)に帰したが、昭和63年、近隣町民有志にて再建されたそうだ。
川上稲荷を後に浜町河岸を南下、もうすっかり秋で川風が肌に冷たく感じられる。テラスの昇降口に上って今来た道を振り返ると両国橋と総武線の鉄橋が一望に見渡せる。暫くの間台東区の西側部分を徘徊していたので、新大橋を渡るのは久し振りである。橋を渡るとそこは江東区。一つ目通りを北上、最初の信号を右に取ると墨田区千歳2丁目に入る。ここに初音森神社というのがある。
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初音森神社の創建は600年ほど前とされる。当初「初音の里」(現日本橋馬喰町)にあり、明暦の大火(1657年)後、付近の社寺とともに、当時下総国だった現在地に移転した。しかし現在ここには社殿はなく、日本橋の旧跡に儀式殿が建立されているという。境内にある社は寶録稲荷神社で、狛犬もこの神社のもの。吽像は失われ、擬宝珠を付けた阿像のみが残されている。
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寶録稲荷神社の右手に半分壊れかけたそれこそ私庭にあるような小さな祠がある。右横に祠より大きな「富福稲荷神社」の石碑が立っていて、何やら碑文が刻んであるようだがよく読み取れない。初音森神社を後に一之橋に向って歩いていると、ビルの隅のちょっとした空き地に個人のものであろう名前の判らない小祠があった。まあ、この辺りの下町ではあまり珍しいことではない。
一之橋の手前に街角案内板があり、新大橋からこの辺りにかけて御船蔵があったらしい。戦国時代から江戸時代前期にかけて、木造の戦艦が多数建造されたが、大型の木造戦艦の一種に「安宅(あたけ)船」と呼ばれるものがあった。寛永9年(1632)以来、そうした当時の戦艦を係留する場所のひとつがこの地であった。安宅船は、当時としては最大限の工夫をこらして建造した大型戦艦ではあったが、龍骨がなく、構造的に弱さがあり、大きすぎて機動性に欠けて、実は役に立たない船であった。そういうこともあり、半世紀のちの天和2年(1682) ここに係留していた安宅船は解体されることになり、この地は御船蔵跡となった。御船蔵跡にできた町は、この「あたけ」にちなんで「あたけ町」と呼ばれるようになった。
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一之橋を渡るとそこは両国。一つ目通りによって西が1丁目、東が2丁目である。京葉道路に出る2・3本手前の道を左折すると春日野部屋がある。部屋の前の道路で2人の力士が座り込んでいるので、許しを得てカメラに収めた。一人の力士に四股名と番付を聞くと「3段目の《栃の濱》す」と答えが返ってきた。
京葉道路に出ると「もゝんじや」の前にも街角案内板が立つていた。もゝんじやは江戸時代から続く肉料理店であるという。京葉道路を横断するとそこは国技館通り、総武線の高架線の手前に「陸奥部屋」がある。
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陸奥部屋は同じ一門の井筒部屋に所属していた元大関霧島が元幕内星岩涛から継承した部屋だと聞く。格子の間の金網の入ったガラス越しに中の稽古場が見える。6・7人の人が格子の間に顔を入れてガラス越しに稽古場を覗いていた。格子の間にカメラを入れてガラス越しに稽古場を収めた。
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両国の町は昨日は九月場所の初日。両国国技館前は沢山の幟が立ち並び、広場のあちこちには何時もより沢山の自動車が留めてあり、何となく活気付いている。国技館前を過ぎて、隅田川沿いの道を北上。蔵前橋東でテラスに降りて、何時ものように吾妻橋を渡ると隅田公園を抜けて帰宅した。
本日の記録は16953歩、9.0㎞。少々歩き過ぎたかな?
初音森神社の創建は600年ほど前とされる。当初「初音の里」(現日本橋馬喰町)にあり、明暦の大火(1657年)後、付近の社寺とともに、当時下総国だった現在地に移転した。しかし現在ここには社殿はなく、日本橋の旧跡に儀式殿が建立されているという。境内にある社は寶録稲荷神社で、狛犬もこの神社のもの。吽像は失われ、擬宝珠を付けた阿像のみが残されている。
本日の記録は16953歩、9.0㎞。少々歩き過ぎたかな?
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