瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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1e56989d.jpg 言問通りを西へ、かっぱ橋道具街(淺草通りを横切ると新堀通りとなる)を蔵前橋通りまで南下。鳥越神社の前で、蔵前橋通りの1つ南の道に入ると、道が微妙に曲がっている。何でもここは鳥越川(いまは全て暗渠)が流れていた所だという。この道を西に向って進むと甚内神社というのがあった。
62f5d2bf.jpg 戦国時代から江戸時代初期の忍者であるという高坂甚内(こうさか じんない、 ?~1613年)は苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)だともいわれる。武田氏に仕えた甲州流透破(とっぱ)の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信(1527~1578年)の子であるとも孫であるとも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内、(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれたという。徳川幕府は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出したが、関東には北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎(生没年不詳、北条氏忍者風魔一党の頭領)とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8(1603)年に風魔小太郎は捕縛処刑された。しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、幕府の治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18(1613)年に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。その際、瘧(おこり、マラリア)を煩っていたと言われ、死に際には「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。ここ浅草橋にある甚内神社では瘧に利益のある神として高坂甚内を祀っている。高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともいうが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、有名な怪談『番町更屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
 因みに、姓は違っても名は同じく甚内と称した高名高い賊が江戸市中を徘徊した記録が残っている。日本、支那、朝鮮に輩出した巨盗大賊の伝記『緑林黒白』に曰く、「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃れたるを起こし、剣鎗に一流を極め、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。/飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極め、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身軽く、ゆえに自ら飛沢と号す。/勾坂甚内の生長は…(以下、前述事項と重複のため略)」 庄司甚内(1575~1644年)は詳細は定かではない(父の又左衛門は北条家臣であったという)が、1617(元和3)年、自ら発起人となって幕府に遊郭の設置を要望し、幕府の許可が下りたという。自らは江戸日本橋に遊郭を開設し、一代で財を成したという。1644(正保元)年に70歳で没したが、その後も「甚右衛門」の名跡は庄司家に代々受け継がれていったらしい。飛沢甚内は元は小田原浪人で江戸で盗賊宿を営んでいたが、後に盗品があれば届け出ることを条件に幕府より古着の専売権を得た。その仲間たちも古着商を営み、その一帯は日本橋鳶沢町(富沢町)となったのだという。
b25bef70.jpg 甚内神社を後にして、鳥越川名残の道を西に進んでいると、甚内橋遺跡という碑が立っていた。ここに鳥越川にかかる甚内橋というのがあったということである。甚内橋の名は、先ほど見た甚内神社に基ずくものであるといわれている。さらに西に進むと江戸通りへの出口近くに「加賀美久米森稲荷神社」というのがあった。
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83f8c144.jpg 鳥居を潜った突き当たりは民家の出入り口のようである。他に玄関があるのかどうかは不明だが、ちゃんと呼び出しのチャイムのボタンまで備え付けてあった。神社については由緒書きなどの碑もないし説明板もない。鳥居の横に上部の折れた石塔が立っていたが、辛うじて「天保壬歳甲午春二月初午」の刻字が読まれる。帰宅後「加賀美久米森稲荷神社」について調べてみたが、由緒由来などについては全く不明である。
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cceaf233.jpg 江戸通りに出ると、そのまま北上して帰宅した。蔵前橋通りとの交差点に台東教育委員会の案内板「天文台跡」と台東区旧町名由来板「旧 淺草蔵前」が並んで立っていた。本日の記録10218歩、6.6km。



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