瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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40508672.jpg 江戸通りを南下→ 春日通を西進→ 昭和通りから2つ目の通りを左折→ 御徒町台東中学校→ 隣は御徒町公園(台東区旧町名由来板「旧御徒町」、八幡神社)→ 春日通りを東進→ 清洲橋通りを北上→ 淺草通りを東進→ 江戸通りを北上→ 帰宅  本日、小銭入れ・Suica・万歩計の持参を忘れる。従って、記録は取れず。
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9fa0c071.jpg ここ御徒町には伊予の大洲(おおず)藩の上屋敷があった。大名は幕府から江戸に屋敷を与えられていて、上中下の三ヶ所の屋敷を持つのが一般的で、大洲藩は江戸時代後半、上屋敷が御徒町、中屋敷が下谷竹町、下屋敷が浅草諏訪町にあった。大洲藩の支藩である新谷藩の屋敷も遊郭吉原の近くにあったという。現在このあたりは台東区になっているが、上中下屋敷がすべて台東区内にある大名は大洲藩加藤家のみである。藩主が居住した上屋敷は、7254坪(約2.4ha)の広大な屋敷地で、現在は御徒町公園と御徒町中学校になっている。御徒町公園には八幡神社と庭園があり、「史蹟旧加藤邸久森山跡」と刻んだ標柱がある。この八幡神社は大洲八幡神社から勧請されたといわれているが、「旧加藤邸」の文字と八幡神社がかろうじて、大洲藩上屋敷と判る程度である。それ以外にほとんど昔日の面影はが残っていないが、大正時代までは加藤家の屋敷があったという。大洲藩の江戸留守居役の日記というのが残っていて、天保4(1832)年5月14日、江戸町奉行所から大洲藩に呼び出しがあり、現在で言う所の証人喚問の記録が書かれている。それに拠ると、7年前の文政9(1826)年3月14日の夜、大洲藩邸に賊が入り、藩主の妹に仕えていた瀧尾という女中の部屋の箪笥をこじ開け8両を盗んだとあり、この女中は40歳位の女性で、盗難事件が理由なのか、その年の6月に辞めている。この盗っ人こそ江戸の大名屋敷を中心に99箇所に122回にわたって押し入り、合計2121両2分、銭9貫260文と大量の金銭を盗んだ鼠小僧であったという。天保4年8月、36歳の鼠小僧は江戸市中引き回しの上、獄門となった。その後、講談・歌舞伎などに義賊として取上げられていくが、記録によると盗んだ金は、博奕や飲食に使われ、本当に義賊であったかどうかは不明であるという。
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