瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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2d6e6256.jpg 江戸通りを南下、春日通りを西に進み、清洲橋通りを渡った所に佐竹商店街というのがあるので、ここを通り抜けてみた。北出入口から入り、南出入口まで300m前後を南下。右折して台東2丁目の路地をジグザグに歩いていると『金刀比羅神社』があった。
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 高松城を築城し、城下町の建設に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正 (1526~1603年)である。この社は慶長年間に高松藩17万3千石の生駒家2代藩主一正(1555~1610年)が拝領した竹町中屋敷に領国の讃岐象頭山・金比羅大権現から勧請したという。東京に金比羅神社はいくつか有るが最古の神社である。生駒一正の孫高俊(1611~1659年)の時代に生駒騒動《藩主高俊は暗愚なため、外祖父の藤堂髙虎の家臣が国政を専断し、そのため反対派の家臣が幕府に提訴し、幕府は高俊を出羽矢島1万石に移封された》が発生し、改易され、出羽国由利郡矢島1万石へ減転封された。生駒家はやがて8千石の交替寄合となったが、社は産土神として残ったのだという。
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ad4e9a5a.jpg 金刀比羅神社を後に台東2丁目と3丁目の境の通りを昭和通りに向って西進。今度は台東3丁目の昭和通り寄りの路地をジグザグに歩いていると、硬く閉ざされた門扉に朱の鳥居を描いた倉庫らしき建物がある。見上げると上にはお稲荷さんらしきものがあり、お狐様まで見える。閉まった門の端には頑丈な梯子段がおいてある。ここにお参りするには門を開けこの梯子を使って上がらねばならないのだろうか。とにかく、帰宅後にしらべてみることにして、春日通りに出ると、昨日と同じように清洲橋通りを北上、東京メトロ稲荷町駅から地下鉄で浅草駅まで出ると、江戸通りを北上して帰宅した。本日の記録は9861歩、6.4km。
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bbe33726.JPG 帰宅後本立ての片隅に積み上げてあるパンフ類の中から、「台東区ウォーキングマップ」というのを探し出して、本日たずねたお稲荷さんが『矢場稲荷』ということを知った。『矢場稲荷』の「矢場」とは楊弓場の事であろう。そこはもともと別の名のついた稲荷で、神主もいるそれなりの大きさの神社だったに違いないが、そばに矢場が出来てから、ある理由により次第に『矢場稲荷』と呼ばれるようになっていったのだろう。楊弓とは二尺八寸(約80cm)程の小さな弓で、七間(12・3m)程先の的を射るという遊びで、時代劇でもよく見かけるように江戸時代から明治にかけて民間で盛んに行なわれた。矢場は料金を取ってその楊弓を遊ばせた店の事で、そこでは矢を取る役目を若い女にやらせ客を引いていた。中にはその矢取り女たちに、ひそかに売春をさせていた店もあった。『矢場稲荷』に隣接する矢場もその内の一つであった。普通、店の二階などで客を取るのだが、ここはそうではなかった。当時でも矢場での売春は違法であったから、店の親父は一計を案じて、気に入った娘がいたなら、別に料金を支払うことで、「店の外へ連れ出すことを許しましょう、その後どうなるかは二人の問題です」と。しかし、当然ながら売春が前提であった。そしてその待ち合わせ場所として、隣の稲荷の境内が利用された。こうして、その稲荷は『矢場稲荷』と呼ばれるようになっていったのであろう。明治に入り取締が厳しくなった事により、矢場そのものが下火になって、矢場は消えていく。だが、矢場がなくなっても『矢場稲荷』の名前はなくならなかった。そこが売春の待ち合わせに使われる事はなくなり、民衆がその名の由来を忘れてしまっても、それまでに培われた独特の信仰は失われなかった。すなわち、『矢場稲荷』は性愛の神様になっていた。境内が売春の待ち合わせに使われ、中にはその場でコトを始める者もおり、当時の神主が怒らぬ筈がない。だが、神主と矢場の主人が争ったという話はない。正確な記録は残っていないが、このころから、白狐の面をかぶった巫女が現れる。その巫女は年代が下がっても、常に若さを保ったままであったというから、おそらく中の女がある程度のサイクルで入れ変わっていたのだろう。その巫女の正体は矢場の女だったのではないか、そして神ではなく神主にその身を捧げていたのではないかといわれていた。それ以来、矢場がなくなるまでその関係は続いていた可能性が高い。そののち戦争の混乱に乗じてか、大正の頃には正式に『矢場稲荷』に名称が変わっており、あまつさえ、祭神が倉稲魂神、猿田毘古命、天宇受売命(アメノウズメノミコト)へと変えられている。それから、通常もっとも重要である筈の倉稲魂神が軽んじられ、猿田毘古命と天宇受売命の夫婦神への信仰が徐々に比重を増してきた。猿田毘古命はその雄々しい姿と巨大な鼻から陽物神として、天宇受売命はその官能的な肉体と、最初の娼婦とされている事から、陰物神として庶民から崇拝されていった。こうして、『矢場稲荷』の眷属である狐は次第に、矢場の廃絶と共に姿を消した白狐面の巫女と同化していった。そうして「矢場のお稲荷さんは、みぃんな美人の白狐」と謳われ、広く人気を獲得していった。「恋しくば/たずねきてみよ/矢場稲荷」という江戸川柳は今も『矢場稲荷』に伝えられる歌で、絵馬に白狐と共に書かれているものだが、これは明らかに「恋しくば/たずねきてみよ/和泉なる/信太の森の/恨み葛の葉」という葛葉伝説に引っ掛けたものである。その後、歌だけが生き残り、白狐への信仰と葛葉伝説とが交ざりあった結果、元来の意味を離れ、純粋な恋の歌へと昇華していった。こうして、もともとは鎮守の為にこの地に建てられた稲荷は、江戸から明治にかけて売春の片棒を担ぐという時代を経て、性愛の神に、そして現在の縁結びの神へと移行することで生き残っていったのだろう。今でも『矢場稲荷』には若い男女の参拝客が後を絶たないという。ここ二長町の矢場稲荷も今でこそビルの2階に押しこめられてはいるが、昔は男女の逢引に利用されるぐらいの広さの境内を持っていたお稲荷さんであったに違いない。傍に近寄っての本殿の撮影は出来なかったが、ウェブに2月の初午祭の写真が出ていたので借用することにした。
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