瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日の徘徊ルート 江戸通り→ 淺草通り→ JR上野駅(歩道橋よりのJR上野駅)→ 京成上野駅→ 動物園通り→ 上野公園(五条天神社・花園稲荷神社、旧町名由来板「上野恩賜公園」)→ パンダ橋→ 東京メトロ銀座線上野駅―地下鉄にて→ 浅草駅→ 江戸通り→ 自宅 以上 7370歩、歩行距離5.7km。
五条天神社は日本武尊が東征のおりに上野忍が岡を通った時、薬祖神二柱に加護を受けたことを謝して、此の地に両神を祀ったことを縁起とし、幾度か変遷を重ねて昭和3年9月に創祀の地に最も近い現在地に遷座したという。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の若い頃の名)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱、菅原道眞を配祀する。
江戸名所図会では、少彦名命一座のみが書かれて「医道の祖神として五条天神と称し、東叡山の東南の麓にあって連歌師瀬川氏の邸宅内で北野天満宮と相殿となっている」とする。続けて、文明18(1487)年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行(北国記行とある)に、忍ケ岡に五條天神が鎮座する、という記事を紹介しているという。神社庁の台東区資料によれば、すり鉢山古墳(東京文化会館裏手)に旧地があったとする説と、寛永寺本堂の場所(現:国立博物館)が旧地だったとする説の2つがある(寛永寺本堂建立は1625年、すり鉢山周辺に末寺群が増築されるのは1656年頃)。神社庁資料では、五条天神の名の由来は江戸神社略記の「少彦名命はわが国の医祖神なり、平安城の五條に鎮座ゆえにこの号あり」という説を紹介しているが詳しいことはわからないとある。
江戸名所図会によれば、1642年に慈眼大師(天海僧正)が菅原道真の像を開眼し、連歌師の瀬川昌億邸に移している。神社庁資料によれば、瀬川昌億は大津に住む瀬川時能(近江源氏)の子孫ということで、1638年に江戸にやってきて連歌の宗匠として江戸にとどまり、当社に奉仕(別当)していたようである(図会2の現在のアメヤ横町北部)。連歌師の統帥は北野天満宮であるから「菅原道真」に奉仕するのは当然として、五条天神社の別当も兼任していたものと思われる。当社縁起によれば菅原道真が配祀されたのは寛永18(1641)年である(天海僧正の菅原道真像の開眼と一致する)。神社庁資料によれば1656年に寛永寺の増築で黒門脇に移転とあり、1697年に別当である瀬川屋敷内に移転している。この移転は瀬川昌億が江戸にやってきてから60年後であるからおそらく瀬川昌億の死去前後であり、その邸宅内には「連歌師と天海僧正の菅原道真」があった。ここに瀬川昌億が別当でもあった「少彦名命の五條天神」が移転して相殿となったと考えられる。その後、ここに五条天神門前町ができ、薬問屋の町となった日本橋本町に当社が分祀され薬祖神祭が行われるようになったのである。
江戸名所図会の時代での菅原道真は別の社とみなされており、それが少彦名命1座という記事なのであろう。菅原道真が表面にでてくるのは、おそらくは明治以降ではないかと思われる。大正12年に鉄道建設のために近隣に移転(位置不明)、翌年の関東大震災で全壊。不忍池の南西に仮社殿が造られ、都市整備計画によって昭和3年に現在地に移転している。
隅田川周辺には鳥越神社など日本武尊に関連する社と伝承が少なからずある。浅草寺の縁起は野見宿禰の後裔の土師氏で、その祖は出雲臣の天穂日命であり、古来から出雲系の人々が住んでいた地域とみえる。根津神社は日本武尊を縁起としていて、鳥越神社~根津神社の間に上野山がある。往古から上野山には少彦名命と日本武尊伝承があって、寛永寺本堂付近(現:国立博物館)にその祀りの場があったのではないだろうか。湯島天神に菅原道真が祀られるのは1355年である。菅原道真は野見宿禰の後裔とされ、その祖は出雲臣の祖天穂日ですから、隅田川周辺では出雲の流れを引く人々が早々に菅原道真を民間信仰として取り込んでもおかしくない状況がある。湯島に菅原道真が登場するのと同時期にこちらにも登場していた可能性もあり、瀬川昌億と天海僧正の道真像(1642年)はその完結だったのかもしれない。
承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方して滅びるが、鎌倉側に仕えていた河野久道が河野氏を継承し、その孫の河野道有が元寇(1281)で手柄をたてて上野山に大山祇神社(大三島)を勧請していることは元三島神社訪問の際のブログに書いた。後鳥羽上皇時代に京都の五條天神宮の改名が行われている。承久の変の後に河野氏を継承した河野道有が上野山に京都の五條天神宮を勧請し、上野山にあった「少彦名命の社」と合祀した社、これが後の北国紀行でいう忍が丘の五條天神社(1487年)ではないかと考えられる。
江戸末期の地図の現在地のすぐ北に牛頭天王社(別当は寛永寺末寺の妙教院)があるが現存していない。牛頭天王社は平安末期~戦国時代の疫病退散の関連で登場する社で、当地の牛頭天王の縁起は判らないが、明治の神仏分離で消えたか、五条天神社に吸収されている可能性もありそうである。
五条天神社に隣接して花園稲荷社(御祭神、倉稲魂命)があるが、旧名は忍岡稲荷で寛永寺建設に伴って勧請されたとも太田道潅の勧請ともされていてはっきりしない。江戸地図では付近が寛永寺の柳花畑となっているので、花園の名はそこからのものであろう。江戸名所図会の不忍池中島弁財天の図(図会1)では「穴の稲荷 赤丸」として描かれており、現在も「穴の稲荷」の祠があるという。
京都の五条天神宮は光仁天皇(770~781年)時代に大和の宇陀に祀られていたのが、桓武天皇(781-806)の平安京遷都によって五条の地に移されている。京都の五條天神社縁起によれば旧名は「天使社」である。祭神は少彦名命で配祀に大巳貴命と天照皇大神があり、菅原道真とはまったく無関係である。「天使の宮」とされていたことが興味深く、後鳥羽天皇1185~1198年(院政1198~1221年)時代に「五條天神宮」に呼称が変わっている。聖徳太子~光明皇后では医療と救済の概念が登場している。この概念はそれまでの日本の祭祀や仏教には存在しないもので、景教の影響を受けたものだと考えられている。景教はキリスト教の西アジアを拠点とする一派で医術と科学技術に優れ、それを奉仕することで各地に浸透している。唐には景教の寺もある。この頃に「天使」が登場していた可能性がみえるのである。
奈良の宇陀に古来から出雲の神が祀られていても不思議はない。大己貴には白ウサギ伝承のごとき医療の存在があり、少彦名にも温泉治療といった伝承がある。宇陀の少彦名命と大己貴命が京都に運ばれたとき、秦氏など渡来氏族がもたらした景教の医療と救済思想がジョイントして登場したのが「五條天使社」であった可能性は高いと思われている。
900~1200年頃には地震、富士山噴火、疫病の流行、飢饉が多発している。遣唐使の廃止など対外交流が途絶し、独自の日本文化が熟成される時代でもある。そういった流れの中で外国文化の色彩が消されていった結果、後鳥羽天皇時代に天使宮から天神宮への呼称変更が行われたのではないかという推測も成り立つ。少彦名命や大己貴命が天神とされたのではなく、祀る側の都合で社名が変更されたということなのであろうか。
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