瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
五条天神社は日本武尊が東征のおりに上野忍が岡を通った時、薬祖神二柱に加護を受けたことを謝して、此の地に両神を祀ったことを縁起とし、幾度か変遷を重ねて昭和3年9月に創祀の地に最も近い現在地に遷座したという。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の若い頃の名)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱、菅原道眞を配祀する。
江戸末期の地図の現在地のすぐ北に牛頭天王社(別当は寛永寺末寺の妙教院)があるが現存していない。牛頭天王社は平安末期~戦国時代の疫病退散の関連で登場する社で、当地の牛頭天王の縁起は判らないが、明治の神仏分離で消えたか、五条天神社に吸収されている可能性もありそうである。
五条天神社に隣接して花園稲荷社(御祭神、倉稲魂命)があるが、旧名は忍岡稲荷で寛永寺建設に伴って勧請されたとも太田道潅の勧請ともされていてはっきりしない。江戸地図では付近が寛永寺の柳花畑となっているので、花園の名はそこからのものであろう。江戸名所図会の不忍池中島弁財天の図(図会1)では「穴の稲荷 赤丸」として描かれており、現在も「穴の稲荷」の祠があるという。
京都の五条天神宮は光仁天皇(770~781年)時代に大和の宇陀に祀られていたのが、桓武天皇(781-806)の平安京遷都によって五条の地に移されている。京都の五條天神社縁起によれば旧名は「天使社」である。祭神は少彦名命で配祀に大巳貴命と天照皇大神があり、菅原道真とはまったく無関係である。「天使の宮」とされていたことが興味深く、後鳥羽天皇1185~1198年(院政1198~1221年)時代に「五條天神宮」に呼称が変わっている。聖徳太子~光明皇后では医療と救済の概念が登場している。この概念はそれまでの日本の祭祀や仏教には存在しないもので、景教の影響を受けたものだと考えられている。景教はキリスト教の西アジアを拠点とする一派で医術と科学技術に優れ、それを奉仕することで各地に浸透している。唐には景教の寺もある。この頃に「天使」が登場していた可能性がみえるのである。
奈良の宇陀に古来から出雲の神が祀られていても不思議はない。大己貴には白ウサギ伝承のごとき医療の存在があり、少彦名にも温泉治療といった伝承がある。宇陀の少彦名命と大己貴命が京都に運ばれたとき、秦氏など渡来氏族がもたらした景教の医療と救済思想がジョイントして登場したのが「五條天使社」であった可能性は高いと思われている。
900~1200年頃には地震、富士山噴火、疫病の流行、飢饉が多発している。遣唐使の廃止など対外交流が途絶し、独自の日本文化が熟成される時代でもある。そういった流れの中で外国文化の色彩が消されていった結果、後鳥羽天皇時代に天使宮から天神宮への呼称変更が行われたのではないかという推測も成り立つ。少彦名命や大己貴命が天神とされたのではなく、祀る側の都合で社名が変更されたということなのであろうか。
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