瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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974c4376.jpg 本日の徘徊ルート 江戸通り→ 淺草通り→ 東上野3丁目(下谷神社・台東区旧町名由来板「南稲荷町」)→ 元浅草→ 春日通り→ 江戸通り(駒形どぜうの前に久保田万太郎の句碑)→ 吾妻橋西→ 隅田公園→ 言問橋下→ 自宅  以上、9203歩、5.9km。
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328830fc.jpg 下谷神社の主祭神は大年神(おおとしのかみ)で、日本武尊を配祀する。大年神の「とし」には、もともと穀物などの実り・収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来、豊かな実りをもたらす神の意。『古事記』には、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれ、また伊怒比売(いのひめ)、香用比売(かよひめ)などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝える。生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、穀物神としての性格がよく表れている。『山城国風土記』逸文に、大歳御祖命、大歳神などがみえるが、大年神と同一の神であろう。
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a7698527.JPG 当社由来書によれば、聖武天皇の御代天平2(730)年に峡田稲置(はけたのいなぎ)らが、大年神と日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ケ岡の地にこの二神を祀ったのが創めで、879年に田原藤太(藤原秀郷、生没年不詳)が相馬に向かうとき当神社に参篭して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新に造営したとある。当神社は昔から「正一位下谷稲荷社」と称していたので、この町を稲荷町というようになったのだという。
02e34549.JPG 江戸名所図会では祭神は倉稲魂命で行基の作という十一面観世音像が本地であると書く程度で、大年神や日本武尊の話は無い。稲荷社が登場するのは秦氏関係の伝承に和銅4(711)年があり、東国での登場は842年に小野篁が陸奥に陸奥守として着任したとき、開拓と殖産の神として祀ったのが最初の記録のようである。延宝8(1680)年に広徳寺門前に移転した際には「正一位下谷稲荷社」であったそうで、江戸の稲荷社としては最古の部類とみえる(現在は稲荷として大年神を祀るが、そのあたりに「稲荷」の複雑さがあるかもしれない)。
 藤原秀郷は騎射(流鏑馬)の祖ともされる武人、おそらくは日本武尊に戦勝を祈願したのであろう。稲荷社でも京都の藤森神社は素盞鳴尊と日本武尊等を祀り武芸(馬術)の神となっているので、藤原秀郷時代に藤森稲荷系の稲荷と関連していた可能性もあるかもしれない。それ以前では、お隣の五条天神社(上野公園内)が出雲の神と日本武尊を祀っていた状況と同様に、上野山の古墳群の被葬者達(おそらくは出雲系の人々)が祀っていた神々が大年神であり、日本武尊東征がこれと結合し、聖武天皇寺代での創祀となったのではないのだろうか。縁起に1627年に寛永寺建立(1625年)で上野山から山下に移転し、狭いために1680に広徳寺門前に移ったとある。江戸地図の山下に正法院がありここが別当となっているから当初はその付近に移転していたのかもしれない。
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d15b0ec8.jpg 境内社に「隆栄稲荷神社」がある。祭神は宇賀魂命(うがのたまのみこと)で、家内安全・商売繁盛の守護神とのこと。下谷(稲荷)神社境内に多数あった末社を、本社の造営の際に一つの社として合祀したとのことである。鳥居の前には狐山が築かれていて、ここにも石狐が鎮座ましましている。
947a53fe.jpg 寛政10年(1798)馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎は落とし噺を得意とし山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ柳稲荷(現下谷神社)の境内で寄席興行を行ったという。これが江戸における最初の寄席興行といわれていて、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したという。山生亭花楽は後に三笑亭可楽と名前を変え現在まで引き継がれている(現在は9代目)。1998年この寄席発祥の地であるここ下谷神社の境内に記念碑が立てられたという。これと並んで正岡子規の句碑も立っていた。
843d21b9.jpg 明暦の大火(1657年)以後、江戸市中の多くの寺がこの付近に移転して寺が密集した。当社の隣に大工屋敷があるが屋敷だから一般大工ではなく宮大工とか幕府のお抱え大工の住まいと思われる。周辺は武家屋敷と下級武士の住居が多くあり、名所図会でも武士と脇差の人物が数人参詣しているが、そういう土地柄であったことがうかがえる。現在、この付近には多くの仏具店が並んでいる。
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