瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 江戸通りを南下、浅草橋をわたる。
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3f9ff144.jpg 浅草橋を過ぎての直ぐの道を左折すると初音森ビルの前に朱色の鳥居があり、2階へ通じる階段があり、階段横には小祠が設えてある。お狐様が鎮座ましますところを見るとお稲荷さんなのであろう。この初音森ビルの2階に神殿・儀式殿があり、1階はガレージとなっている。階段を昇り、ガラス戸越しに儀式殿の中を覗くと、なかなか立派な小奇麗なもので、ちょっとした結婚式ぐらいは挙げられそうだ。昨日訪れた墨田区千歳にある本社は寂れた祠という感じであったが、もともと神社にとっても氏子にとっても、本社の位置は不便極まりないもののようで、敢えて無理に立派な社殿を構えようということにはならないのだろう。よほど経済的に余裕がないと手が回らないということだろう。
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b02ca1e1.jpg 初音森神社の創建は元弘年間(1331~34年)で、文明年間(1469~86年)太田道灌により社殿が造営される。当時の鎮座地は、初音の里と呼ばれていた現在の儀式殿のあたりで、初音稲荷と称していた。天文20(1551)年社前に馬場ができた。初音稲荷に因んで初音の馬場と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたという。ここで馬を商うために博労たちが集まったのが馬喰町である。また慶長5(1600)年関ヶ原の合戦へと出陣する徳川家康は、この馬場で馬揃えをしたという。しかし、浅草見附門の建設のために社地の半分を削られ、さらに明暦の大火の後、郡代屋敷建設のため、現在本社がある墨田区千歳へと遷座した。氏子は元の土地に残ったため、神社と氏子が離れる結果となった。祭礼の時など、わざわざ隅田川を渡って神輿を運び、氏子地域を巡ったという。このような不便を解消すべく、昭和23(1948)年かつての初音の里に神社を建立。さらに昭和48(1973)年神殿・儀式殿を備えたビルとしたのだという。 ある程度のことは昨日の段階で調べておいたのだが、引き返して階段を下りるときに階段の壁に由緒書きが掲示されていることに気付いた。
9a8308d5.jpg 初音森神社を後にして、両国橋を渡り、国技館通りを通って国技館の前に出た。両国の町の方々には「ぶらり両国街かど展実行委員会」の名前で案内板が立っている。両国橋から国技館を過ぎるまでに3つの案内板をみた。京葉道路沿いに「小泉町跡」、総武線ガードを過ぎたところに「百本杭跡」、国技館を過ぎたところには「御蔵橋跡」それぞれの案内板が立っていた。
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 両国公会堂の傍にあるテラスの昇降口から、テラスに降りて昨日と同じように北上し、吾妻橋を渡って隅田公園を抜けて帰宅した。10259歩、6.6㎞の徘徊であった。
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