瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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日本語では古来、中国から大量の漢語、すなわち中国語の単語を借用してきました。漢語の造語法に習熟するにしたがい、独自の和製漢語を造るようになりました。その造語法をみると、まず漢字で表記した大和言葉を音読したものがあります。例えば、「火のこと」を「火事」、「おほね」を「大根」、「腹を立てる」を「立腹」とする類です。また、中国語にない日本特有の概念や制度、物を表すために漢語の造語法を用いたものがあります。「介錯」「芸者」などがその例です。
 『解体新書』刊行後、医学が発展したことはもちろんですが、オランダ語の理解が進み、鎖国下の日本において西洋の文物を理解する下地ができたことは重要です。また大槻玄沢などの人材が育つ契機ともなりました。翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などの語が作られ、それは今日でも使われています。例えば、「神経」は杉田玄白らが解体新書を翻訳する際、神気と経脈とを合わせた造語をあてたことに由来しており、これは現在の漢字圏でもそのまま使われています。もっとも、最初の翻訳という性質上仕方ないことでありますが、『解体新書』には誤訳も多かったため、のちに大槻玄沢が訳し直し、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行します。なお、「『十二指腸』の名前は誤訳であったが訂正されずに現在に至り、正式な医学用語として定着してしまった」と言われていますが、これは俗説のようです。

 長い鎖国時代が終わり、開国と同時に西洋文明がどっと流れ込んできた幕末・明治期に、外国の文物を日本語に取り込むとき、当時の人は漢語に翻訳する工夫をしました。今では当たり前の日本語として定着している言葉の中には、当時の名だたる知識人が知恵を絞った翻訳語がいくつもあります。例えば、小栗上野介「company→商社」、西周「logic→論理学」、中江兆民「symbole→象徴」、井上哲次郎「ethics→倫理学」、福沢諭吉「copyright→版権」、坪内逍遥「dance→舞踊」などがあります。

 小栗上野介は独特な言語センスの持ち主であったらしく、頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っています。西周は明治文化の功労者の一人であり、「哲学」という国字の開発者であると共に、我国哲学界の先駆者として知られています。中江兆民はルソー『民約訳解』翻訳刊行等により自由民権運動に人民主権の理論を提供し“東洋のルソー”といわれましたた。門人に幸徳秋水らがいます。井上哲次郎はドイツ観念論哲学を紹介し、日本の観念論哲学を確立した人です。
 知的財産権の一つである「著作権」――福沢諭吉がcopyrightを「版権」と訳したのが最初だと言います。1875年の出版条例で正式に決定されますが、1899年の著作権法で「著作権」という言葉に置き換えられました。
 「舞踊」という言葉はすっかり日本語として馴染んでいますが、ダンスの訳語として「舞」と「踊」とを組み合わせて作られた歴史的には比較的浅い語なのです。1904年の坪内逍遥の『新楽劇論』によって広まったということです。

 明治期には、手の「舞」と足の「踏(ふみ)」とを合わせた「舞踏」も、同じく「ダンス」の訳語として用いられました。実は「舞踏」という言葉自体は起源が古く、『源氏物語』33帖「藤裏葉」にも登場します。叙位・任官などのとき拝謝の意を示す礼(再拝して袖を振り、手を動かして足を踏んだりする.「拝舞」とも言います)のことです。

 池の魚〔いを〕を左少将取り、蔵人所〔くらうどどころ〕の鷹飼〔たかがひ〕の北野に狩り仕〔つか〕まつれる鳥一番〔ひとつがひ〕を、右少将捧げて、寝殿〔しんでん〕の東〔ひむがし〕より御前〔まへ〕に出〔い〕でて、御階〔みはし〕の左右に膝をつきて奏〔そう〕す。太政大臣〔おほきおとど〕、仰せ言〔ごと〕賜〔たま〕ひて、調〔てう〕じて御膳〔おもの〕に参る。親王〔みこ〕たち、上達部〔かんだちめ〕などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせ給へり。
 皆御酔〔ゑ〕ひになりて、暮れかかるほどに、楽所〔がくそ〕の人召す。わざとの大楽〔おほがく〕にはあらず、なまめかしきほどに、殿上〔てんじやう〕の童〔わらは〕べ、舞仕うまつる。朱雀院〔すざくゐん〕の紅葉の賀〔が〕、例〔れい〕の古事〔ふるごと〕思〔おぼ〕し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子〔おとご〕の十ばかりなる、切〔せち〕におもしろう舞ふ。内の帝、御衣〔ぞ〕ぬぎて賜ふ。太政大臣下りて舞踏〔ぶたふ〕し給ふ。 (源氏物語33帖 藤裏葉より)
現代語訳
 池の魚を、左の少将が取り、蔵人所の鷹飼が北野で捕まえ申し上げた鳥一番を右の少将が捧げて、寝殿の東から御前に出て、階段の左右に膝をついて申し上げる。太政大臣が冷泉帝のお言葉をいただいて、調理をしてお膳としてお出し申し上げる。親王たちや上達部などの饗応も、めずらしい様子で、普段の目先を変えて御用意申し上げなさった。
 皆お酔いになって、日が暮れ始める頃に、楽所の演奏家をお呼びになる。大掛かりな舞楽ではなく、優美な感じに、殿上の童たちが、舞をし申し上げる。朱雀院の紅葉の賀を、いつものように、先例をふと思い出しなさる。「賀王恩」という舞楽を演奏する時に、太政大臣の末っ子の十歳ぐらいであるのが、とてもみごとに舞う。内裏の帝〔:冷泉帝〕が、衣服を脱いでお与えになる。太政大臣が庭におりてお礼の舞をなさる。

 「ダンス」の意の「舞踏」は、いまは前衛舞踊などで使うほか、「舞踏会」「舞踏病」と言った語に名残をとどめます。


 


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