瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 一般に中国四大美人と呼ばれるのは次の女性たちといわれています。
 西施(春秋時代)・王昭君(漢)・貂蝉(後漢)・楊貴妃(唐)
 ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともあります。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともあります。
西施
 本名は施夷光(しいこう)。中国では西子ともいいます。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(しょきけん、現在の諸曁市)生まれだと言われています。現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿(ちょら)村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになったと言います。
 西施(せいし)の「顰(ひそみ)に倣(なら)う」という故事を四字熟語としたものが、「西施捧心(せいしほうしん)」です。

 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいました。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれています。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになります。呉が滅びた後の生涯は不明ですが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられたともいわれています。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあったと言います。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになったそうです。
 また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡(はんれい)に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もあります。
 中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれていそうです。逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」といわれているそうです。

 王昭君
 『西京雑記』(せいけいざっき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物です。著者は晋の葛洪(かつ こう、283~343年、西晋・東晋時代の道教研究家・著述家)ともされますが、明らかではありません。この中の記述に次のようにあります。
 〔元帝の後宮に住む女性たちは既にたくさんいたので、常に(元帝に)お目にかかることができるというわけではありませんでした。/そこで(元帝は)絵描きたちに(女性の)姿を描かせて、その絵で、(選んだ)女性を召し抱えて寵愛していました。/宮中の女性たちは皆、(美しく描いてもらおうと)絵描きたちに賄賂をわたし、多い者は十万(の賄賂)を、少ない者でも五万を下りませんでした /一人王嬙(王昭君)だけはこれを良しとしませんでした。/(醜く描かれた絵のせいで、王昭君は)ついに(元帝に)お目にかかることはできませんでした。
 匈奴が朝貢してきたとき、美人をもらって君主の妻としたいと言いました。/(元帝は)そこで、(絵描きに描かせた)絵を参考に、王昭君を(妻として)行かせることにしました。/(王昭君が宮廷を)去ることになったので、(元帝が)召し抱えて(王昭君を)見たところ、(王昭君は)宮廷一の美貌でした。/対応の仕方がよく、立ち振舞いはしとやかで優雅でした。/元帝はこれ(王昭君を嫁がせること)を後悔しましたが、(王昭君の名が記された)名簿は既に出来上がっていました。/元帝は外国への信用を重視しました。/それゆえにもう人を変えることはしませんでした。/そこで(元帝は不思議に思って)その事を徹底的に調べて、絵描きたちを皆死刑にしてその死体を市中にさらしました。〕

 前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于((こかんやぜんう、?~BC31年)が、漢の女性を閼氏(あっし、匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もあります)王昭君が選ばれました。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けます。その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于(ぶくしゅるいにゃくたいぜんう、?~BC20年)の妻になって二女を儲けました。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされました。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった時、王昭君は、反発しましたが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述があります。 こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まりました。
 王昭君は旅の途中、故郷の方向へ飛んでいく雁を見ながら望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした所、彼女の姿と悲しい調べに魅入られて雁が次々に落ちてきたので、「落雁美人」と言われました。俗説では、撫で肩が欠点であったということで、いつも肩パットを愛用したとか?

 貂蝉
 貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性です。実在の人物ではありませんが、楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられるそうです。

 『三国志演義』第八回から登場します。幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられました。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てます。
 王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせます。次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまいます。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めます。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をするのです。2人が密会していることに董卓はいったん怒るのですが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言います。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしません。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害するのです。2人の間に貂蝉を置き(美人計)、貂蝉を巡る両者の感情を利用し2人の関係に弱点を作り、そこを突く(離間計)、これが「連環の計」なのです。
 董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となるのですが子ができません。(第十六回)
 下邳(かひ)の攻防戦では、陳宮(ちんきゅう)に掎角(きかく、両雄が相対して勢力を争うこと)の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めています。下邳陥落後の貂蝉については記述がありません。

 楊貴妃(ようきひ、(719~756年))
 中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)です。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれます。幼名を玉環(ぎょくかん)といい、早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄(げんきょう)の養女となったとされますが、玄の実子とする説もあります。
 才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となりましたが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召したのです。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けました。
 3人の姉は韓国(かんこく)、虢国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競いました。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名です。

 毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送ったといいのす。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出します。しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめたのです。時に38歳であったといいます。

 兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させましたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったといいます。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだのです。


 


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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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