瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていましたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられています。(現代においても果物は「水菓子」と呼ばれます。)初めは生のまま食べていましたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁(あく)を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、今日の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていきました。
 『古事記』『日本書紀』においては、垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされています。
 『古事記』によるタジマモリの記述は以下の通りです。


「垂仁天皇は、三宅連の祖先の多遅摩毛理(タジマモリ)を常世国に派遣して、"ときじくのかくの木の実"を探させた。多遅摩毛理は遂に常世国へと到り、木の実を取って持ち帰ったが、そのとき既に天皇は崩御していた。そこで、多遅摩毛理は半分の苗を皇后に献上し、残り半分の苗を天皇の墓の入口に供えた。そして、木の実を持って大きな声で泣き叫び、「縵四縵(カゲヨカゲ)・矛四矛(ホコヨホコ)を分けて大后に献り、常世国の"ときじくのかくの木の実"を持って来ました」と申し上げると、そのまま泣き叫びながら死んでしまった。"ときじくのかくの木の実"とは今で言うところの橘(タチバナ)である。 垂仁天皇は153歳で亡くなった。墓は菅原の御立野の中にある。」

 和菓子の原型は、推古天皇の頃、600年代より遣隋使を派遣し、中国大陸との交流を始めたことにより整えられていきました。文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされました。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法でした。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残しています。奈良時代の754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、平安初期の806年には空海によって煎餅の製法が伝えられました。

 鎌倉時代には、宋から茶苗を持ち帰った栄西によって茶の栽培と普及が進められて喫茶文化が広まったことにより、点心の一つとしての菓子作りも発達していきました。当時食されていた菓子は今日にはほとんどその形をとどめていませんが、1341年に日本にもたらされた饅頭(蒸し饅頭)は、現在も続いている最も古い菓子の一つです。饅頭は仁和寺の第二世龍山徳見に弟子入りした宋の林浄因によってもたらされたもので、浄因は奈良の村に定住して日本における最初の饅頭である「奈良饅頭」を売り出しました。饅頭には当初中国のものにならって羊豚の肉が餡として使われていましたが、日本には当時肉食の習慣がなかったため、浄因は肉の代わりに豆類餡を入れたものを創案し、この形の饅頭が全国に波及していきました。鎌倉時代から室町時代にかけてもたらされた羊羹も、もともとは文字通り羊の肉が使われていたものでしが、日本では小豆を使用したものに改良されてしだいに現在の形になっていったものです。

 室 町時代にはポルトガル、スペイン、オランダの宣教師たちにより、カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラといったいわゆる南蛮菓子がもたらされ、小麦粉や砂糖を使ったこれらの菓子は和菓子の製法と発展にも大きな影響を与えました。またこれらの南蛮菓子もその後の改良により、伝来時の形と大きく異なっているものも少なくありません。

 その後、江戸時代には鎖国体制が敷かれたため菓子の発展にもいったん歯止めをかけることになりますが、一方でそれまで貴重品であった砂糖の輸入も増え、また平和が続いたこともあって独自に製菓技術が発達していき、江戸で武家や庶民に親しまれた江戸菓子、京都のみやびな京菓子がその形を整えていきました。また参勤交代制度によって各地の街道が整備されたことでひとびとの行き来や情報交流が盛んになり、各地の銘菓・名物菓子が知られるようになりました。このようにして江戸時代には現在の和菓子のほとんどが形作られたのです。
 明治時代になると、開国とともに西洋の文化が押し寄せ、チョコレートやビスケット、ケーキ、キャンディーといった洋菓子が日本に次々と導入されてきました。これにともない新たに日本に入ってきた洋風菓子を「洋菓子」、それまでの日本の菓子を「和菓子」とする呼び分けがされるようになったのです。その後はあんパン、クリーム入りの饅頭といった和洋折衷の菓子なども生まれ、現代の日本では多様な菓子が並立する時代となっているのです。


 


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