瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨夜は雨模様でしたが、今朝は雨もやんで気温も12℃と、一度に春がやって来たような暖かさでした。爺の家から石浜通りを渡って隅田公園に入るとそこは梅園です。紅、白の梅が咲き誇っています。

 さて梅園に入ってみるとまだ咲き始めたばかりの「呉服枝垂れ」という品種の枝垂れ梅がありました。プレートには、「呉服枝垂れ、~くれはしだれ~」とあります。はてさて、「呉服」を「くれは」と読ませるのかな? と、

帰宅後「呉服」の語源についてしらべてみました。

 

 

 呉で作られていた織物の織り方を日本で取り入れて、その織物のことを「呉服」または「呉織」と書いて「くれはとり=くれ・はたおり」と呼んでいたそうです。それが織物のことを大きく指す言葉になり、生地・反物を商う店を呉服屋と呼ぶようになったそうです。ですから呉服が直接呉(ご)の服を指すのではなく、呉(ご)の織物を模した製品が日本で生まれたということなんだそうです。

 

  謡曲に「呉服(くれは)」という曲があるということです。作者は世阿弥元清といわれているそうです。その典拠は日本書紀や古事記にあり、史実に基づいて脚色されたものだそうです。曲の主人公である呉服(くれはとり)、綾服(あやはとり)は応神の代に天皇の要請で日本に渡来し、我が國に産業文化を伝え、織物の道を教え、人々を寒暑の悩みから救った若い女性で、機織りの祖ということで神格化されているそうです。したがって能の「呉服(くれは)」では神様物に分類されているそうです。あらすじは、

「時の帝に仕える臣下が、摂津の国住吉に参詣し、更に浦伝いに西宮に向かおうとして呉服の里を通りかかったところ、一人は機を織り、一人は糸を引いている二人の女がありました。その様は常に里人とも見えないので不審に思って尋ねると、応神天皇の御代に、立派な御衣を織りそめた呉服織、綾織(あやはどり)という二人の女で、今まためでたき御代を迎えて、再びここに現れ来たのだと答えます。そしてここを呉服の里と呼ぶのも、我等がこの所に住んでいた故であるといい、更に綾織の由来を説き、応神天皇の御代に、呉国の勅使が、綾女糸女の二人を伴れて日本に渡り哀龍の御衣を織って帝に奉った事などを語り、夜明けを待つようにといって姿を消します。やがて臣下が松陰に旅寝して奇特を待っているところに呉服の霊が現れ出で、めでたき君の御代を寿ぎ、綾を織り、舞を舞って帝に捧げ、喜びをなして」終わります。

 

日本書紀には応神天皇の37年、呉の国から織物の技術を伝えるため呉織(くれはとり)、穴織(あやはとり)らの縫工姫(きぬぬひめ)が摂津の国、武庫の津に着いたという記述があります。池田市に伝わる織姫伝説では、この後二人が猪名川を上がって猪名の港(唐船が渕)に着き、同地に織物の技術を伝えたとされています。呉織は139歳まで生き、その遺体を納めたとされる姫宮の跡が現在の呉服(くれはとり)神社であるといわれているそうです。
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