昨日は謡曲「呉服(くれは)」について、長年謡曲を習っているという藤沢在住のY氏に教えを乞おうと電話してみました。彼の習っている流派は「観世流」で、「呉服(くれは)」と言う曲目を聞いたことがないと言うことでありましたが、「くれはとり」とか「あやはとり」と言う言葉はほかの曲にも出てくると言うことで、大いに参考になりました。今朝ほどパソコンを開くと、Y氏からメールが入っていました。曰く、
「2月28日 17:53 発信 日高 様/今日は電話を有難う。/お尋ねの件には応えられず失礼しました。/先ほど貴ブログで呉服のことについての解説拝見しました。/電話の後小生も手元にあるハンドブックで謡曲の呉服(くれは)を調べてみました。/あらすじはブログに示された通りでした。/作者は世阿弥元清だとありましたがハンドブックでは作者不詳とありました。/電話で小生の不勉強で観世流にはない、と云いましたが観世流をはじめ五流全てにありました。間違ってごめんなさい。/梅花の香りも今が盛りでしょうか。Y 」
永倉新八(1839~1915年、松前藩士、新選組隊士)の”同志連名記”によると、江戸に引き上げた時の沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順(1832~1907年、幕末から明治期の御典医、軍医、政治家)の医学所で治療を受けていましたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのことです。松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。今戸八幡は現在、今戸神社と改称し、境内には“今戸焼発祥の地”の碑と並んで“沖田総司終焉之地”の碑があります。
爺の少年時代は八幡様と言えば武勇の神様で、よく戦地の武運長久を祈願しに強制的にお参りさせられたものです。それが最近は縁結び乃至安産の神様とお成りになったようです。世の中変われば変わるものですなぁ。
この今戸神社は我が家から10分足らずの距離にありますが、今は縁結びの神社として「縁結びの会」なども設けられていて、最近頓に若い女性の参拝客が多く、よく道行く女性から今戸神社の行き方を訪ねられます。爺も朝の徘徊などで良く立ち寄るところです。昨日も隅田公園を抜けて今戸神社の前に来ると河津桜が咲いていました。
sechin@nethome.ne.jp です。
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