明治以前では密教と習合して第六天と呼ばれており、明治2年に神仏分離によって胡禄神社と改称された。
現社殿は嘉永5年(1852)造営の様式で昭和2年に改築されたという。
汐入は胡粉(貝殻を粉にした顔料)の産地であり社内にその石臼が残っている。胡禄の呼称は胡粉と第六天からという説と弓の武具の呼称からという説があるが、類名社は千葉、埼玉、東京に分布しているのでなんらかの氏族が関与しているのかもしれない。胡粉の材料には縄文貝塚のカキ殻を用いていたらしい。「江戸紀聞」によれは道灌山(現:文京区千駄木3付近)は雪の降ったような小山で享保(1716~1735年)の頃までは馬で浅草の胡粉製造場所へ毎日運んでいたという。汐入も昔は海が入っていたところの地名であるから、貝塚があったのかもしれない。摂社に道祖神があり猿田彦を祀っている。足の病気治癒に草履、耳の病気治癒に2個のお椀に穴をあけて奉納して祈願していたという。周囲はマンション群の造成に囲まれてはいるが、社地にはいくらかの木立が残っているようである。
隅田川神社のご祭神は、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)、 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、 大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)で、隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称しいたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
速秋津比古神・速秋津比売神は伊弉諾・伊弉冉二神の間に産まれた男女一対の神で、その総体として水戸神(みなとのかみ)ともいう。鳥之石楠船神はまたの名を天鳥船(あめのとりふね)といい、楠で造られた堅牢な速く走る船ということで、船神を表している。輸送や交通を司る神という意味もあるらしい。大楫木戸姫神については全く解らない。
1487年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行に「利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、西のなぎさに孤村あり」とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃である。西の孤村が石浜、東の幽村が関屋(旧関屋、新荒河橋付近)だろうか。
隅田川神社は水神宮の前は「浮島の宮」とも呼ばれていたようで、入間川と古隅田川の水流がぶつかりあう関係で中洲が生じていたのであろう。中洲が東岸とつながってゆくのは利根川東遷によって古隅田川の水量が減り、ついには廃河となる1700年頃と思われる。江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という古典的な形を残したのかもしれない。
福岡在住の拙痴无爺爺の甥の娘が6月からアフリカはスーダンで勤務することになった。そして、現地の様子をブログにしている。時々開いてみてやってほしい。
http://happinesssharing-eric.blogspot.com/
永井荷風の濹東綺譚「寺しまの記」に曰く
《……車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、……法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞こえる。……これと向かいになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影の見えない二階家が立ちつづいて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯りが出してある。……辻の向側には曹洞宗東清寺と刻した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と二十日の両日である事や、縁日の晩は外ばかり賑やかで、路地の中はかえって客足が少ないことから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでいる事などを思い出し、……》
東武線のガードに沿って南下し、いろは通りの入口から右折して大正通りを西進し、墨堤通りに出た。明治通りをさらに西進し、白鬚橋を渡り、件の川沿いの遊歩道を通って帰宅した。本日の記録は10465歩、6.8㎞。
東清寺からいろは通りを引き返し東武伊勢崎線の線路伝いに南下して、東向島駅から水戸街道を下り、桜橋通りから、桜橋を渡って帰宅した。記録は9572歩、6.2㎞。
隅田川稲荷神社は稲荷だから、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)ということになる。ここの境内にはお稲荷さんというのにお狐様がいない。本殿前には狛犬さんが鎮座まします。社伝によれば、天文年間(1532~54年)伊豆の堀越公方・足利政知(将軍足利義政の弟、伊豆の堀越《今の韮山町》に居を構えたため、堀越公方とよばれた)の家臣であった江川善左衛門雅門は、主家滅亡後、一族郎党とともに当地に逃れ、土地を開墾して善左衛門村を開いた。善左衛門は信仰心篤く、伏見稲荷より御分霊を勧請し、村の鎮守としたという。その後、五代目善左衛門が伊勢神宮に参拝した折、悪鬼に襲われたが、8人の山伏が現れ、危難を救ってくれた。この山伏たちは善左衛門を村まで送ると、忽然と消えてしまったという。戦前までは、この霊験に因んで八僧稲荷、あるいは善左衛門の徳をたたえて善左衛門稲荷と称したという。大正2(1913)年荒川の改修工事のため、現在地に遷座。昭和7(1932)年村社に昇格した。現在の社殿は昭和18(1943)年の改築であるという。
白髭神社(墨田区東向島3―5―2)の祭神は猿田彦大神。他に天照大神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、建御名方神とある。境内内に三峯社、水神社、諏訪社などがある。
今日でも農村の稲荷社が関東地方をはじめ多くは田の叢林(そうりん)、もしくは田を見おろす丘陵の突端に営まれているのは農民のもつ田の神は、春は農耕の折に山から下って田に下り、秋は収穫の折をもって山を登って山の神となるとする普遍的な信仰によるものであるとされる。こうした農耕的な性格から、稲荷神を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ―倉稲魂神)にあて、また大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、御饌神(みけつかみ)、もしくは豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)、宇迦売神(うかめかみ)とも同神と解かれるに至るのである。
稲荷信と狐との関係は何時ごろ始ったかは明らかではないが、荼枳尼天(だきにてん)の別号を白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)などと称して稲荷神と習合させたというが、狐が冬に発情してしきりにキツネ鳴きを発し食べ物をもとめて里近くにさまよい出ることや、その挙措習性が古くから農民に神秘的な印象を与えてきたことが、外来文化とも結びついて、広く民衆に伝播土着するに至ったとも想像される。
奈良時代末期以来狐を神秘動物とする思想が仏者、陰陽師の間に見られ、狐霊を駆使霊とする術者、幻術者などが民間に存したらしいことが、この時代の文献にみられる。稲荷神を奉ずる巫女・術者が真言密教や道教の影響の下に憑依(ひょうい)託宣を行い、これを「稲荷下げ)「稲荷おろし」と称するようになって、稲荷の使わしめから、次第に稲荷そのものと見られるようになったのではなかろうか。
近世にはこのような呪術的な稲荷信仰が都会地にも齎され、除災招福の神として、卜占・祈祷・予言その他の機能を発揮したという。とくに江戸では18世紀以降、田沼意次の信仰が評判になって隆盛を極め、いろいろな俗信も付け加わって武家や商家の屋敷神として勧請される風が広く行われたという。田沼意次が紀州藩の小姓(こしょう)から5万7000石の大名、ひいては老中にまで出世したのは、邸内に稲荷を祀ったからだという話が広まった。そのため明和・安永年間(1764~81年)に、居宅に小祠(しょうし)をもうけて稲荷を勧請する武家が多くなり、のちには町民の家にもまつられるよう になった。江戸の稲荷神社は、「町内に伊勢屋稲荷に犬の糞(くそ)」といわれるほど多くなったのだそうだ。
江戸時代末期には翁稲荷、太郎稲荷、三囲稲荷、妻恋稲荷、瘡守稲荷、真崎稲荷などは一代の流行神となって、主として開運出世、商売繁盛が祈られたという。神名に人名に似せた名をつけて呼ぶのは、稲荷信仰の全国的な特徴で、地方の霊狐を人名に似た名をもって呼ぶのと関係があり、古来憑霊として著しい活躍をしてきた跡の一つとして見られるのだろう。
三輪里稲荷神社はこんにゃく稲荷と言われている。それは初午の日に「こんにゃくの御符」を授与するかららしい。江戸時代、このあたりは大畑村という農村地帯だったが、流感がはやったとき、この神社でこんにゃくを竹串に刺してゆでた汁を村人に飲ませ、それで風邪が治ったところから、初午の日にこんにゃくの御符を授与するようになったと伝えられている。稲荷神社だから祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。鳥居の傍に簡単な由緒を書いた立て札がある。
桜橋を渡ると、桜橋通りを東武伊勢崎線の踏切まで東進。飛木稲荷神社にも、高木神社にも明6月30日の大祓に備えて、茅の輪が設けられていた。曳舟川通りに出ると、東武伊勢崎線の曳舟駅から、高架線に沿って、水戸街道に出ると、そこは地蔵坂通りへの入口であった。明治通りに入ると、同じ方向に歩いているお方があり、どちらからともなく話しかけて、問わず語りの雑談をしながら歩いた。話によると、茨城県出身の73歳になるお方で、どうやら曳舟あたりに住んでいらっしゃるらしい。結局、一緒に白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道を離しながら歩いた。桜橋碑東詰で別れて帰宅した。9195歩、5.9㎞を歩いていた。
高木神社は応仁2 (1468)年創建と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、江戸末期の地図では「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺(墨田区押上2-37-4)が別当として管理していたという。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。境内にある狛犬は左右同形で、阿・吽の区別がなく、どちらも阿形である。
もとの第六天社は台東区の榊神社で見たように面足神・惶根神を御祭神とすることが多いが、江戸末期の国学者の平田篤胤は天神6代を祀ることはありえないとして神産巣日神や高御産巣日神(高木神)のことだとしているそうだ。ここ高木人神社の祭神を高皇産霊神とするのは、この平田篤胤の説に従ったものだろう。
タカミムスビは古事記では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と書かれ、葦原中つ国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊などとも書かれる。別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であるので、高皇産霊神は天孫瓊瓊杵尊の外祖父に相当することになる。古事記によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神であったというわけ。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の3神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。
江戸時代には田園と沼地が広がっていた曳舟地域。あちこちに水路が伸び、灌漑用水や舟運に利用されていた。現在の曳舟川通りも、かつては曳舟川が流れ、小舟の先に結ばれた綱を岸から人力で曳いて川を遡っていたといわれている。明治以後は大小の工場が立ちならぶ工場地帯として発展。現在でも優れた技術を持つ中小の工場や江戸切子、桐箪笥などの職人工房も健在。江戸の粋と先進の技がしっかりと息づいているようだ。
今日は日曜日。昨日・今日と淺草の象潟では植木市が立つ。最近は庭を持つ家屋は少なくなり、かつてのように大型の樹木は殆んど置いていない。市全体も年々小型化しているように思われる。本日は桜橋を渡り桜橋通りから水戸街道を北上。途中向島四丁目にある秋葉神社に立ち寄り、明治通りから白鬚橋を渡り帰宅した。隅田川の遊歩道の橋場テラス昇降口から見る東京スカイツリーの工事現場もクレーンの下の建物の骨組みが見えるようになった。今日の記録は8438歩、5.4㎞。
sechin@nethome.ne.jp です。
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