瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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f51f9681.jpg 昨日見過ごした諏訪神社を目当てに江戸通りを南下。松屋の向こうの明け初めたそらに虹が出ている。諏訪神社に立ち寄った後、蔵前警察署の横から榊神社の横を通っていると、境内に赤い鳥居が見えるので立ち寄ってみた。繁盛稲荷神社と向かい合わせに七福稲荷神社というのがあった。榊神社については既に取材済みで、ブログに書いたが、同じ境内にあるこれらのお稲荷さんについては書き落としてしまった。七福稲荷の鳥居を潜ると、そこには2つの小祠が並んでおり、その横に「豊受神社・事比羅神社」という標柱が立っている。その2つの小祠の前にさらに鳥居がある。案内板がないかとさがしてみたが、どこにもみあたらない。どれが七福稲荷で、どれが豊受神社・事比羅神社か判らずじまいで、榊神社をでて、柳橋に出て、両国橋を渡ると、橋の東端からテラスに降りて、テラスを北上した。本日は日曜日とあって、東京湾へ下る釣り船とも行き交う。厩橋袂でゴルフの素振りをしているT氏と会う。吾妻橋でテラスから上がると、桜橋まで北上して、桜橋を渡って帰宅した。本日の記録は11026歩、7.1㎞。
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b4a49274.jpg 諏訪神社の祭神は信濃国諏訪大社と同じく、健御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売神(やさかとめのかみ)。建御名方神は建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられていて、大国主神と高志沼河姫(こしのぬながわひめのみこと)との間にできた御子とある。神名の意味は、タケは神を称える美称で、ミナカタは諸説あるが、妻である八坂刀売神に会いに出かける跡とされる諏訪湖の結氷上の亀裂「御神渡り」という伝承などから考えて水潟(みなかた)からきているという説が有力である。東京都神社庁発行の『東京都神社名鑑』に、「同神社は武家勢力が京都朝廷を圧倒する契機になった承久の乱(1221年)の後、信濃国諏訪郡小日村の神官によって諏訪大社(上社)の分霊が現在地に祀られた」と伝えられている。つまり、創建は鎌倉時代にさかのぼる。天正年間には神主が数代に亘って奉仕したと伝えられ、その後、浅草寺の修善院が別当として奉仕して来たという。鳥居の袂にある小祠については全く不明。江戸時代、神社名にちなんで周辺は諏訪町と名付けられた。絵図にも、駒形町の南に同町より広い範囲に「諏訪町」と記されている。しかし昭和9年、全域が当時の浅草駒形町一丁目に編入され、諏訪町は消滅したという。
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a4f35c09.jpg 榊神社境内の繁昌稲荷神社(倉稲魂神)、七福稲荷神社(倉稲魂神)、事比羅神社(大己貴神)、豊受神社(豊受姫神)について、帰宅後いろいろ調べてみたが、繁盛稲荷、七福稲荷については何一つ判らない。まあ、この辺りは沢山の米蔵があり、札差や両替商が集中していた所で、お江戸の経済の中心地帯、謂わば「粋筋」ので何処である。まあ、こういう名前のお稲荷さんがあったにしても不思議ではない。豊受神社は伊勢神宮の外宮の豊受神宮からの勧請だろうか? 事比羅神社は香川県の金刀比羅宮からの勧請なのだろうか? これらについても詳しいことは解らずじまいである。
 午後、高校の同期で横浜在住のN氏が訪ねてくれた。話に夢中になり、写真を撮るのも忘れてしまった。
 本日は終戦記念日、まあ今の爺にはあまり関係ない。悪い思い出は少しでも忘れるようにしよう。言問通りを国際通りまで西へ、国際通りを寿2丁目の信号まで南下。ここを左折して暫く進むと、大きなものではないが、道に面した石囲いや石柱に劇場関係や役者の名前が刻まれたお堂がある。外からの外観とお堂の撮影は出来たが、門扉は半分開かれていて、その扉が台東区教育委員会の案内板を覆い隠していて写真に取ることは出来なかった。説明板をみて、ここが佐倉惣五郎供養する「宗吾殿」であると知った。
7982cefc.jpg さらに東に進むとそれこそ猫の額ほどの家1軒分ほど場所に黒船神社というのがあった。あのペリー来航で騒がせた黒船に関係あるとも思ったが、どうやら嘉永6(1853)年のペリー来航とは何の関係もないことがわかった。
左に駒形どぜう、右に玩具のバンダイ本社のビルで江戸通りに出た。バンダイ本社ビルの南側に江戸通りに面してこれまたせせこましい所に諏訪神社があった。まあ、ここは日を改めてと取材と見過ごして蔵前橋まで南下。蔵前橋を渡ると、蔵前橋通りを三つ目通りまで東進、三つ目通りを北上して源森橋を渡ると旧水戸藩下屋敷庭園を抜けて、言問橋を渡って帰宅した。水戸庭園の池では水鳥(ハクガン)が百日紅(さるすべり)の花が散り注ぐ下で遊んでいた。カメラを向けても逃げようともしない。かなり人に馴れているようだ。本日の記録は10711歩、6.9㎞とあった。
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a967e940.jpg 惣五郎は下総国佐倉公津村の農民(名主とする説もある)で、江戸の初期・承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主の堀田正信に直訴を図り、その罪(当時、直訴は御法度)により処刑された。後年、歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、法要も営んでいる。この辺りは正信の子、正休の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地で、宗吾殿は同家の敷地内にあったという。享和5(1803)年に150回忌の法要が営まれたその頃に建立されたようである。惣五郎はその後、芝居や講談の題材となり、明治に入ってから当主・堀田正養により宗吾殿の一般参詣を許可し、それ以降、劇場関係者や庶民から多くの信仰を集めている。現在のお堂は戦災後、1953年に有志により再建されている。案内板に曰く、「宗吾殿(そうごでん)/台東区寿三丁目十九番十二号/宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国(現千葉県)佐倉公津村の農民(一説に名主)惣五郎(宗吾)を供養する堂である。惣五郎は、江戸初期承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主堀田正信(1631~1680年)のとき、直訴を図った罪により処刑された。後年、佐倉藩歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、百回忌などの法要を営んでいる。/その後、この付近は堀田正信の子、正休の家系である近江国(現滋賀県)宮川藩主堀田家の屋敷地となる。宗吾殿は同家が屋敷内に建立したものである。建立年代は不明だが、宮川藩堀田家では、享和5 (1803) 年に惣五郎の150回忌法要を営んでおり、堂もこの頃に建立したものと考えられる。/江戸末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となり広く世に知られた。明治12年、当主堀田正養(ほったまさやす、1848~1911年)は、一般の宗吾殿参詣を許可し、以来劇場関係者や庶民の信仰を集めている。/現在の堂は、戦災の後、昭和28年に有志によって再建され、毎年9月には縁日が行われている。/台東区教育委員会」
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b758ff53.JPG 春日通りを西から東進し江戸通りと交差する手前の南側・蔵前三丁目に『江戸名所図会』にも 榧寺 ( かやでら) の通称で載っている正覚寺がある。「黒船町にあり。浄土宗にして増上寺に属す。池中山正覚寺と号す。…… 往古 ( そのかみ 当寺に名ある大木の榧ありし故に号とせりといへり」とある。『図会』は榧寺の所在地を黒船町と記しているが、昭和9年まで浅草黒船町という町があった。現在の寿一丁目、駒形一丁目、蔵前三丁目の内で、江戸時代初期から存在した町名のようで、黒船・外国船の船長が宿泊した所があった、さらには徳川家康に仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)のリーフデ号とも、オランダ船であったなどの諸説があって、はっきりしない。今、寿四丁目にあるこの黒船神社という小さなお宮は、東京都神社名鑑(上下巻、東京都神社庁編纂/1986年発行)によると、「天慶3(940)年、平将門(?~940年)を破った平貞盛(たいらのさだもり、生没年不詳)を祀ったのが始まりと伝えられる歴史の古い神社で、現在地より東の隅田川べりにあったのが享保17(1732)年の火災後、現在地に移った」とある。ところが現在、江東区牡丹一丁目にも同名の黒船稲荷神社というのがあって、同じ名鑑に享保17年、浅草黒船町から移ったもので、元地での創建は応徳3(1086)年とある。黒船は町名も神社も判らないことが多い。幕末ペリーの黒船来港とは関係がならしく、その証拠に、鳥居は寛文11(1671)年、灯籠は安永2(1773)年、手水鉢は寛政7(1795)年と刻まれていて、この神社の創建はペリー来航より随分前のことになるとおもわれる。黒船の呼称はペリー来航以前にも、古く安土・喪も山時代より、南蛮船を呼び、欧米の強大な軍事力・経済力の象徴として広く国内で呼ばれていたという。
 言問通りを国際通りまで西進。国際通りを南下、寿4丁目の信号を過ぎて2つ目の路地を左に入ると、三島神社がある。台東区には3つの三島神社があるので、取り敢えずここは「寿 三島神社」としておこう。昔はかなりの土地を有していたのだろうが、削りに削られていまでは辛うじて鳥居は路地にあるものの本殿と摂社の石稲荷髪稲荷神社はコンクリートの階段を上がった上にあり、その下はガレージとなっている。本家本元の三島神社の由緒書きもなければ、案内板もない。まして摂社の謂れを書いたものなど何処にも見当たらない。
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76ef4499.jpg 神社前の路地を江戸通りまで進み、駒形橋を渡り、淺草通りを東進、三つ目通りを過ぎて、四つ目通りから京成橋の上にでると、スカイツリーの写真を撮り、押上商店街から、東武伊勢崎線の踏切を渡り、桜橋通りを西進、見番通りから弘福寺・長命寺の前を通り、川沿いの遊歩道に出ると白鬚橋の方からワンさんが近付いてくる。カメラを向けてシャッターを切るが、慌てていたのか少々ピンボケの写真になってしまった。本龍院(聖天様)に立ち寄るワンさんと桜橋を渡り、隅田公園を出たところで別れ、帰宅した。9940歩、6.4㎞という記録であった。
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f569d941.jpg 寿三島神社の縁起は元三島神社と全く同じで、承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡したが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承した。後の蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇(おおやまつみ)神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起である。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが御用地となったため、1650年に浅草小揚町(現、蔵前4丁目~寿4丁目)に移転する。元三島神社縁起によれば、金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったために氏子が要望して浅草小揚町から根岸に再び移転して元三島神社になったとある。御府内寺社備考(台東区教育委員会発行)に曰く、「浅草三嶋西蔵院前 三嶋明神社。本社土蔵造二間四方、供殿二間四方、拝殿間口三間奥行二間、神体幣、随身丈ニ尺五寸、相殿十一面観世音木像長九寸、弁財天木像長八寸。御供所間口五間奥行三間。石鳥居高一丈三尺横一丈四尺。末社、稲荷宮ニ社。別当円明山宝福寺西蔵院、新義真言宗足立郡元木村吉祥院末、寺在豊嶋郡金杉村。以上乙酉書上。/清水稲荷の西なり。西蔵院の持とす。祭神ハ大山祇命なり。当社ハむかし上野の麓にありしか。元禄のころ此地に移さるといへり。/縁起にいふ、延久2年5月、武州豊嶋郡領主江川団左衛門安経と云人、下谷金杉根岸村に三嶋を祭、本地薬師仏を造立、金杉鎮守とす。宝永中台命に因りて浅草へ遷さる。祭事5月15日・9月15日なり。」
 祭神の、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味という。別名の和多志大神(ワタシノオオカミ)の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、木花之佐久夜姬(コノハナノサクヤビメ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に捧げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。
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b4012ae0.jpg 摂社に石稲荷髪稲荷神社があるが、その由緒などについては不明。江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3を含む広範囲)にあった社を当地(浅草駒形町の西2丁ほどの位置)に移転したとある。1丁は約109mであるから、名所図会の時点では現在地でほぼ間違いない。今は下階が駐車場のコンクリート造りの上に坐しまし、商業地の真ん中の狭い敷地では神様もたいへんなのである。縁起では1650年に小揚町に移転とあるが、これは現在の蔵前3及び4丁目付近から当地の寿3丁目に至る大名屋敷の並ぶ当社の南隣になる。移転年に数十年のずれがあることから火災ないし大名屋敷設置のために小移転しているのかもしれない。(この付近は「なになに代地」といったなんらかの移転による代替地名が入りくんでいる)
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f686f4fb.JPG 台東区には元三島神社と下谷三島神社と当社があるが、江戸名所図会に書かれているのは当社のみである。この3社の関係はいささか複雑あるようだ。江戸末期の地図(1850年頃)にはそれぞれ現在地の元三島権現社と当社が記載されているが、下谷三島神社は記載がない。江戸名所図会の完成は1832年であるから、江戸初期の三島神社は寛永寺東麓にあり、1650年に浅草小揚町に移転、1688~1704年頃に現地点に小移転し、江戸末期に根岸に再び移転したことがうかがえるのである。移転を繰り返したために複数の三島神社が登場したものであろう(当社の別当は金杉西蔵院)。なお、江戸名所図会(1832年)には諏訪社がいっしょに描かれている。江戸末期の地図(1860年頃)には当社と諏訪社の中間に黒船神社の3社が記載されている。黒船神社は位置を少し変えて現存している。
7e09c20d.jpg 昨日と同様、言問通りから馬道、淺草神社横の路地に入り、神社の北側の道を歩いてみた。おやおや、前に被官稲荷は工事中と書いたと思うが、惚けも惚けたり、古びた被官稲荷はそのまま。間違ったのは、三社の本殿の右隣に社務所・会館が新築されるための防禦塀が設けられていたものであった。被官稲荷神社を暫し拝観、神社の北側にある4つの石碑をカメラに収め、仲見世の北側裏道りを南下した。新仲見世にかかる角に仲見世会館があるが、その前に河竹黙阿弥住居跡の碑がある。その傍に河竹黙阿弥の血筋を引く歌舞伎研究家の河竹登志夫氏の書かれた案内板がある。並木通りを南下していると、どうやら小雨模様で本降りになりそうだ。駒形橋を渡るのは止めて、江戸通りを北上、吾妻橋まで来ると墨田区役所とアサヒビール本社ビルの間に東京スカイツリーが見える。隅田公園にはいり、土手の遊歩道を桜橋まで来ると、いつの間にか雨は止んでいる。折角だからと桜橋を渡り、川沿いに北上白鬚橋まで来ると、ワンさんと出会った。5・6分立ち話をして、白鬚橋を渡り、落書き遊歩道を南下して帰宅した。9681歩、6.2㎞と記録されている。
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 案内板にあるように被官稲荷は新門辰五郎が勧請した稲荷である。辰五郎について調べていると、徳川慶喜に勧められて撮ったという写真にぶち当たった。この写真の持ち主杉下仁一氏は新門辰五郎の7代目ということになっていて、イベントの多い淺草ではよく姿をはいけんする。ごく親しい人たちの間では「ジンさん」と愛称でよばれて慕われている。
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c8529f82.jpg 竹本津賀太夫(?~1837年)は義太夫節の太夫で、碑には「大江戸のつよきひいきの力にぞ、かゝる千曳のいぶみはたつ」と刻まれ、台石には百数十名の門下の名前が列記されている。
 菅沼定敬の歌碑には「敷島のみちにはせきもあらなくに、なとてこころのとほらざる覧」と刻まれている。嘉永3(1827)年の建立というから、おそらくその頃の歌人であろうが、今のところ、いかなる人物なのか不明である。誰かご存知の方があれば、お教え願いたい。
48829e70.jpg 初代並木五瓶の句碑の横に台東区教育委員会の説明板が立つが、露出不足でカメラに旨く収まらなかった。説明板には凡そ曰く『碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」右手側面に「なにはづの五瓶、東武に狂言を出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁栄を仰ぐ、つづくらん130里雪の人普子堂大虎」、左手側面に「寛政8年丙たつ2月10日建之 庭柏子書、印」裏面に「篠山金二迂造」と刻んである。/「なにはづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言作者として活躍した。生存年代は延享4(1747)年から文化5(1808)年まで。はじめ五八、のち吾八・呉八、呉兵衛と改め、ついで五瓶という。寛政6(1794)年江戸へ出て、非凡な才能をみせ、初代桜田治助とともに、江戸の二大作者といわれた。時代物・世話物に優れた作品を遺し、4代市川団蔵、4代松本幸四郎らによって演じられた。作品には、「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある。』
c573f3e7.jpg 山東京伝机塚の碑:「書案之紀/明和六年といふとしの二月ばかり齢九歳といふに師のかとにいりたちていろはもし習ひそめし時親のたまはりしふつくえなむ此つくえにはありけるされはつくりさまもおろそかにてみやひたるかたは□なけれとはならし拾すとし頃のたのもし人にてかたはらをさらすひとり愛つゝ了ありへしとしは五十にちかく何くれとつくれる冊子は百部をこ えたり今はおのかこゝろたましひも□れゝし□まなこもかすみゆくにいつしかこれもたしろきかちにうちゆかみなとしてもろお□に老しらへるさまなるはあはれいかゝはせむ 耳もそこねあしもくしけてもろともに/世にふる机なれも老たり/山東庵京伝/文化十四年丁丑春二月」と刻まれる。碑の傍に立つ台東区教育委員会の碑に曰く、『 山東京伝机塚の碑(台東区有形文化財)/台東区浅草2丁目3番1号  浅草寺/山東京伝(1761~1816)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよくした人物。/この碑は,京伝の弟京山が文化14(1817)年に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)もくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝(おおたなんぽ)の撰による京伝の経歴を刻む。/京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成2年に台東区有形文化財として搭載。/平成6年3月/台東区教育委員会』
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054bf096.jpg 先だって墨田区の北斎通りから区役所通りへ少し入ったところに河竹黙阿弥終焉の地の標柱を見たが、この案内板を見る限り、どうやらここ淺草が、黙阿弥の仕事の本拠地であったらしい。
 昨日は、淺草神社境内の南の区画の石碑もデジカメに収めた。南の区画は鳥居によって西側と東側に分かれ、西側には「友情はいつも宝物」というコミック漫画の碑と、「初代市川猿翁句碑」の2つの石碑があり、東側には「粧(よそおい)太夫碑」・「久保田万太郎句碑」・「川口松太郎句碑」と3つの石碑が建つ。
f64260ef.jpg 「友情はいつも宝物」の碑文は大変読みづらい。『碑文抜粋: 一九七六年に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ。人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず、健全に成長してくれるように願いを込めて建てられました。 平成十七年八月六日 建立/「浅草物語」概略 ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、かつての優等生は逃亡犯になっていました。両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めたベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。そして逃亡犯は自首することになったのです。/ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」五七巻「浅草物語」より』おおよそ、こんなことが記されている。
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a5bd46f2.jpg 「初代市川猿翁句碑」の傍に案内板が立っていてカメラに収めたが、よく読めない。凡そ『初代 市川猿翁句碑/「翁の文字まだ身にそはず衣がえ」 猿翁/建碑 昭和42年5月17日/撰文 市川猿翁/孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。/昭和38年5月、歌舞伎座に於いて襲名興業。/(浅草寺の襲名お練りは4月16日)/「猿翁」(昭和39年6月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず 衣がへ 猿翁 昭和37年5月猿翁襲名のとき」とある。/明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に生れる。/父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助-段四郎)、母古登の長男。(弟妹は10人)兵役を終えたのち明治43年10月(22才)で二代目市川猿之助を襲名。/昭和38年6月聖路加病院(心不全)にて死去。/享年75才。/昭和36年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。/浅草観光連盟』と読める。
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cf1affbc.jpg 碑文は「保農々々登明石能浦廼旦霧爾 四摩伽久礼行不念遠之所思 蕋雲女史文鴦書」とある。流暢な草書体で刻まれたこの碑、一見よく萬葉歌と誤解される。白文で書かれたためか、歌が萬葉調なるためか、或は人麻呂作と考えられてか、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく舟をしぞ思ふ」、世俗に有名な歌で能の「草子洗小町」(そうしあらいこまち、歌合を舞台に小野小町が、大友黒主の姦策を機知によって退ける様を描く)にも出てくる。出典は『古今集』巻9―416で、よみ人しらずの歌。ただしこの歌の左注に「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とある。また、『今昔物語集』巻第24(巻45)にも載っていて、ここでは「小野篁が隠岐に流さるる時」明石で読んだと記されている。しかし、『人麻呂集』にも入っていて、一般的には柿本人麻呂作と了解されて来た。文化13(1816)年の建立で筆者の蕋雲女史とは案内板にもあるように吉原平松楼の妓女・粧太夫で、文鴦とも号し、和歌・書をよくし、書を中井董堂に学び、董堂が碑陰に撰文を記している。
1083ffbd.jpg 久保田万太郎(1889~1963年):昭和38年5月6日歿。73歳(顕功院殿緑窓傘雨大居士)本郷・喜福寺に眠る。明治の浅草に生まれ、浅草を愛し、浅草を書いた作家、久保田万太郎は浅草が全ての文学生涯であった。府立第三中学の後輩、芥川龍之介は「久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、---たとへば、雪に伏せたる竹と趣を一にすと云ふを得べし」と評しているが、この粘り強い意志の人も、昭和38年5月梅原龍三郎画伯邸での会食中、赤貝を喉に詰めて窒息、絶命したという。
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82af60ba.jpg 川口松太郎(1899~1985年)昭和60年6月9日歿 85歳 雑司ヶ谷霊園に眠る。川口松太郎は多彩な遍歴を持つ作家である。小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧、古本露天商、警察署給仕、電信局勤務、講釈師許に住込み口述筆記手伝い、編集者等を経ての作家人生であった。妻であり女優の三益愛子を看取ってから3年後の昭和60年6月、86歳、東京女子医大で肺炎により死去。
449afc03.jpg 昨日と同じく、言問通りから馬道。路地から淺草神社に出る。鳥居を潜ると境内の右前方に神木といわれている槐(えんじゅ」の木が立つ。手前の狛犬像の西側の1区画に幾つかの石碑や案内板がたつ。区画の中央に「檜前(ひのくま)の馬牧(うままき)」の案内板があり、その前に扇塚があり、これらの右(北側)に花柳壽輔の句碑、左(南側)に初代中村吉右衛門の句碑、花塚の碑、河竹黙阿弥顕彰碑などが建っている。これらをデジカメに入れると、仲見世の東側裏道を通り雷門通りへ出る。さらに並木通りを南下して、駒形橋に出る。駒形橋の上からも東京スカイツリーが目立つようになった。遊歩道を白鬚橋まで北上、橋を渡ると対岸の落書遊歩道を南下して帰宅した。9724歩、6.3㎞と記録されていた。
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c2615284.jpg 昭和20年3月10日の東京大空襲で当時のご神木は焼けてしまったそうであるが、現在10mにも及ぼうとするこの槐の木は言い伝えの通りに自生してきて育ったものであるという。

026aa6ef.jpg 檜前の馬牧 :大宝元(701)年、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられている。 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされている。時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになったとある。
7c996cbd.jpg この区画には扇塚があり、古くなった扇が供養されるようになっている。舞踊で使い親しんだ扇が使えなくなってもただゴミとして捨てるのではなく、丁寧に供養することになっている。古扇納め箱(扇入)の横にある立て札に金文字でに曰く「わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことの出来ない品でございます/使い古された扇はどうぞこの箱の中にお納め下さい/毎年四月八日にご祈祷の上扇に感謝のご供養をいたします 花柳流花柳会」
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0af3ed92.jpg 「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが1849年であり、この頃に花柳流が成立したと見られる。「花柳」という名前の由来には諸説あるが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、破門の後に一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けたといわれている。
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11799abc.jpg 初代中村吉右衛門(1886~1954年)は 3代目中村歌六の長男として東京に生まれる。明治30(1897)年に中村吉右衛門を名乗り初舞台。 6代目尾上菊五郎(1885~1949年)とは若い時から市村座でともに舞台に立ち、「菊・吉」と並び称された。世話物を得意とした菊五郎に対し、9代目市川団十郎の芸風を受け継ぎ時代物に当たり役が多くある。『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実はその当たり役の一つであった。
e1f66460.jpg 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。黙阿弥調と呼ばれる華美な科白が特徴である。ご存知「月も朧に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめたい風もほろ酔に、心持好く浮か浮かと、浮かれ烏の只一羽、塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両、…こいつあ春から縁起がいいわえ(「三人吉三廓初買」大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白)」「知らざあ言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜…(「青砥稿花紅彩画」《あおとぞうし はなの にしきえ》浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白)」などがある。
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1589bceb.jpg 笠翁斎乱鳥は、享和3(1803)7月晦日に死去。享年88歳。花塚の建碑は翌年の文化元(1804)年3月17日だったという。この慰霊祭は花供養とも言われていて、生け花や花の販売を生業(なりわい)とする者たちが花に感謝し、お花の霊を慰める気持で行う大切な行事にもなっているという。今では、この花供養はお釈迦様の誕生日の「花まつり」4月8日に行われるという。
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49a64350.JPG 言問通りから馬道をとおり、改装中の二天門を潜る。淺草神社に立ちより、本殿や狛犬さんを写真に納める。境内の方々にはいろいろな石碑が並ぶが、これは次に機会にまわすことにする。神社の後方に被官稲荷というのがあるが、ここも改装中で防禦シートで覆われているので、改めて訪ねてみよう。
aa897f3d.jpg 浅草寺本堂は現在鹿島建設の手で大規模な外装改修工事が行われているらしく、本堂全体がすっぽりと防禦シートに包まれている。ルーフシステム株式会社のホームページ、2008年8月5日付けの発表に曰く、「浅草寺本堂屋根改修にチタン製本瓦葺きを採用 /東京都浅草にある浅草寺本堂の屋根改修に、昨年完了した宝蔵門に続いてチタン製本瓦葺きが採用されました。/平成21年2月に着工し、平成22年11月に完工予定です。/使用するチタンは約14トンで、屋根総重量は標準的な土瓦の約13分の1まで軽減されます。/工事が始まると本堂全体が仮設屋根で覆われるため建物を見ることができなくなります。興味のある方は工事が始まる前もご覧になり、完工後どう変わるか楽しみにして頂きたいと思います。」
 仲見世を南下し、雷門通りから吾妻橋をわたり、墨田区側の遊歩道を白鬚橋まで北上。白鬚橋を渡ると件の川沿いの落書き遊歩道を通って、帰宅した。昨日からの台風9号の所為か、川面にごみが浮いて汚れている。9303歩、6.0㎞を記録していた。
 浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、徳川家康・大国主命を合祀するという。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったそうだが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったのである。社伝によれば、推古天皇36(628)年、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称したということである。
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ebc6ac70.JPG 「童達が藜(あかざ)で仮小屋を作って安置した」ともされており、その童を祀る十社権現が江戸名所図絵の浅草寺本堂裏手(図会4の赤丸)に描かれているが、江戸名所図会では世にいう話は縁起にはないともある。浅草寺縁起は複数あるようで、承応縁起(1654、土師保底)が古形とされ、ここでは檜熊浜成と武成の二人が漁に出て仏像を拾い、村オサの土師真土知に見せたところ聖観音像であることが判って土師真土知が草堂を作ったが焼失し、645年に勝海上人(しょうかいしょうにん)が再興した、とされている。
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f296f708.JPG 土師氏は野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)。続日本後紀に武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとあり、檜熊浜成と武成も同族かもしれない。江戸名所図会によれば浅草神社のご神体は慈覚大師(794~864年)の作で、浅草寺の護法神とするとあるという。拾われた観音像を祀っているのが浅草寺で、当初の祠は638~645年の間に7回も火災にあったが、645年に勝海上人によって再建されこれをもって開山としている。857年に慈覚大師(天台宗、円仁)が堂塔を増築し、これを中興の祖としている。その後、安房守平公雅(930~946年頃)、(1041年地震で大破、1051年再建)、1070源義家、1146源頼朝、足利尊氏、1539北条氏、徳川家康、家光など時代の著名人の参拝や伽藍修復造営が続いている。家光造営の社殿は戦災で焼けたが浅草神社社殿と二天門は焼け残って重要文化財となっている。江戸名所図会の社殿と爺のとった写真の本殿は同じものというわけである(図会4の青丸)。
三社祭の三社とは土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命で、神託によって1312年から浅草観音船祭りが隔年ではじめられたという。御輿を浅草寺本堂に移してここから浅草橋へ渡り、浅草橋から船に乗せて駒形橋から戻る漁師の祭りであったらしい。1692に橋場付近から蔵前付近の隅田川は漁猟禁止となり、漁師が多摩川河口の大森~六郷に移転させられたために三社祭にはその漁師が参加していたということである。(浅草海苔は安房守平公雅が945年に浅草浦に黒赤青の海苔を得たのが事始めとされているがはてさていかがかな?)
江戸名所図会は事跡がたくさんあって書ききれないとあり、江戸庶民にとっての浅草の重要性がうかがえるのである。以下は江戸名所図会に書かれる境内社には、熊谷稲荷、銭塚弁財天、銭瓶弁財天、熊野権現、淡島明神、十社権現祠(縁起の10人の童を祀る)、一の権現社(顕松院阿加牟堂、10人の童が最初に作った草堂(現在の花川戸1丁目)、西宮稲荷祠(上千束稲荷、隣接して蛭子祠、地主神)などがある。
江戸名所図会の千束郷に「浅草寺の永徳四年(1387)の鐘の銘に武州豊島郡千束郷金竜山浅草寺」があるとあり、浅草が千束郷の一部であったことがわかる。浅草の地名の初出は吾妻鏡の治承5(1181)年で、鶴ヶ岡八幡宮造営で武蔵国浅草の宮大工を呼ぶ記事があり、これが最古の浅草寺の登場文献という。考古学的な出土物からは「瓦葺の浅草寺」が造営されたのは平安末期とされている。
 言問通りからジグザグコースで淺草小学校前に出る。西側の道を行くと、「嬉の森稲荷」というのがある。
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ae0a887d.jpg 台東区教育委員会の案内板に曰く、「伝承によれば、嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森にまつられていた。嬉の森は小さな丘や樹や竹が生い茂っていたという。その名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。ちなみに、嬉の森と呼ばれた森は、隅田川岸に数ヶ所あった。/嬉の森稲荷社については不明な部分も多いが、明治四十年刊の『東京案内』では、「案ずるに嬉の森稲荷は、花川戸町二十七番地に在りたり」と推定している。現在の花川戸一丁目四番の辺りである。その後、数度の移転の後に昭和二年現在地に移った。この間、大正十二年九月の関東大震災の焼失を免れ、また昭和二十年三月の戦火も免れたという。/嬉の森稲荷は、火伏の神として信仰され、四月の二の午の日には、近隣の人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。」
b3d0c3a8.jpg 東武線の浅草駅北口から吾妻橋を渡って、墨田区側の遊歩道を北上。白鬚橋を渡り、何時もの台東区側の遊歩道を南下して帰宅する。今日は日曜日とあって、東京湾に釣船を走らせる人もあれば、親水テラスで釣を楽しむ人もいる。昭和40年代の頃は、臭気で仏壇の像や箔に緑青がわいていたほど汚染されていた隅田川で、釣をする人を見かけれるほどになり、こうして川辺を散策できるようになったことは誠に喜ばしきことである。本日の記録は9273歩、6.0㎞であった。
 今日は土曜日、昼には歯科医に予約があるあるし、夕刻はTY君の親父さんの通夜に行かなくてはならないので、朝の徘徊は控えめにしようと、朝食後1時間ほどの散策とする。
 小松橋通りと言問通りの間に千束に通じる道がある。これを柳通りまで進み、淺草見番の前の路地を右に入ったところに箭弓稲荷神社というのがある。「箭弓」は「やきゅう」と読むのだそうだ。千束通りからひさご通り、六区を抜けて、すし屋横丁へ、雷門通りにでる1つ手前の通り淺草1丁目14番の区画がある。この区画の真ん中の路地に「御手洗稲荷神社」というのがある。まん前に小型トラックが止めてあったので、体を横にして朱塗りの門を開けて中に入ってみた。由緒書きなど一切なく、どのような稲荷かよく判らない。トラック越しに鳥居の写真を撮っておいた。路地を南側に出た細い道に「無聿富稲荷神社」というのがあった。はてさて、これは何と読みどういう意味だんべえと考えながら、「聿」の音は「イツ・イチ」だから「むいつふ? 」「むいちふ? 」……  鳥居を潜り中に入ると賽銭箱に書いてあったのは「無事富稲荷大明神」とある。まあ、これなら意味はよく判る。ただし、由緒書きなどは何処に見見当たらない。
8d44ffdc.jpg 雷門通りに出ると、只今建て替え中の水上バス淺草ステーションの工事現場を見ながら吾妻橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで北上、橋を渡って帰宅した。6750歩、4.3㎞という記録であった。
 今日は、地図にも記されていない路地裏にある稲荷を回ってみたが、どのお稲荷さんも由緒・案内版らしきものは見当たらない。辛うじて、「箭弓稲荷神社」というのは埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」の講社であろうということが推測できる。
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1db228a7.jpg 平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常(967~1031年)が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従へ、ついにその威を関八州に奮い、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきた。朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信(968~1048年)を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久(やきゅう)稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利した。帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷(やきゅういなり)と改めて呼ぶようにと里人に命じた。以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれている。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているという。ここ淺草3丁目の箭弓稲荷神社も、松山の箭弓稲荷神社の講社だろう。尚、台東区には上野にも箭弓稲荷神社があるが、これも松山の講社であろう。
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3eda2038.jpg 「御手洗稲荷」についても、「みたらし」(団子の名前)、(みたらい)などの読みが考えられるが、まさか「おてあらい」と読むことはあるまい。いずれにしても「御手洗稲荷」「無事富稲荷」については全国的にもこんな名前の稲荷さんは少ないようである。「無事富稲荷」については、この辺りが元々淺草の三業地(「芸妓置屋」「料理屋」「待合」の施設のある土地)であったことを考え合わせるとこんな名前が付けられたことも肯けるのである。
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 言問通りを西に向けて歩く。国際通りを南下してビューホテルを過ぎたところに、感應稲荷神社がある。門扉が閉まっていて、境内には入れないが、門の右側に小祠がみえる。中に入れないのでよく判らぬが、併社であるらしい。門扉の桟の間や玉垣の間からカメラを突っ込み何枚か写真撮影。さらに国際通りを南下して、ROXの前の新仲見世通りから国際通りを横切って真っ直ぐ進んだ角地に八幡神社がある。ここも門扉が閉まっていて境内には入れない。ここでも門扉や玉垣の間からカメラを入れてシャッターを押しては見たが、はてさてうまく撮れているやら?
e887498e.jpg 国際通りを更に南下、寿4丁目の交差点から淺草通りを東進。四つ目通りから京成橋を渡り、押上駅前商店街を抜けて桜橋通りを西に進み、桜橋まで来ると、遊歩道を南下するワンさんの姿を見たので思わず声を掛けた。桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は10888歩、7.0kmであった。
 感應稲荷神社は古くより柴崎村に鎮座していたが、天正19 (1591) 年に本銀町(普請場が有った所で、銀町《しろがねまち》とも言った。竜閑川の南側一帯で、今の中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯をよんだ)に遷座し、そのころから「感應稲荷神社」と呼ばれるようになったという。文禄元(1592)年、明暦3 (1657) 年にも鎮座地を移ったが、ついに元の浅草柴崎に落ち着き、柴崎村の鎮守神として人々の篤い信仰あつめ、現在に至っているという。
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八幡神社のあるこの地域の旧町名である浅草田島町は、明暦の大火(1657年)後に神田須田町から移ってきた田島山快楽院誓願寺(府中市紅葉丘に引っ越して、今は無いが、東本願寺《旧名;東京本願寺》と並ぶ壱千坪を越す大きさがあったらしい)に由来するという。八幡神社は元禄13年田島山快楽院誓願寺に宇佐八幡宮の分霊を勧誘し旧浅草田島町の鎮守としたことにはじまる。誓願寺の中にあったが神仏分離政策で独立し、明治6年廃仏起釈により浅草神社の管理下になる。誓願寺が府中市に移転した後もこの地に残ったということである。戦災により焼失するも昭和24年同地に再建、昭和47年コンクリートの社として改築された。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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