瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
午後、高校の同期で横浜在住のN氏が訪ねてくれた。話に夢中になり、写真を撮るのも忘れてしまった。
本日は終戦記念日、まあ今の爺にはあまり関係ない。悪い思い出は少しでも忘れるようにしよう。言問通りを国際通りまで西へ、国際通りを寿2丁目の信号まで南下。ここを左折して暫く進むと、大きなものではないが、道に面した石囲いや石柱に劇場関係や役者の名前が刻まれたお堂がある。外からの外観とお堂の撮影は出来たが、門扉は半分開かれていて、その扉が台東区教育委員会の案内板を覆い隠していて写真に取ることは出来なかった。説明板をみて、ここが佐倉惣五郎供養する「宗吾殿」であると知った。
さらに東に進むとそれこそ猫の額ほどの家1軒分ほど場所に黒船神社というのがあった。あのペリー来航で騒がせた黒船に関係あるとも思ったが、どうやら嘉永6(1853)年のペリー来航とは何の関係もないことがわかった。
左に駒形どぜう、右に玩具のバンダイ本社のビルで江戸通りに出た。バンダイ本社ビルの南側に江戸通りに面してこれまたせせこましい所に諏訪神社があった。まあ、ここは日を改めてと取材と見過ごして蔵前橋まで南下。蔵前橋を渡ると、蔵前橋通りを三つ目通りまで東進、三つ目通りを北上して源森橋を渡ると旧水戸藩下屋敷庭園を抜けて、言問橋を渡って帰宅した。水戸庭園の池では水鳥(ハクガン)が百日紅(さるすべり)の花が散り注ぐ下で遊んでいた。カメラを向けても逃げようともしない。かなり人に馴れているようだ。本日の記録は10711歩、6.9㎞とあった。

惣五郎は下総国佐倉公津村の農民(名主とする説もある)で、江戸の初期・承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主の堀田正信に直訴を図り、その罪(当時、直訴は御法度)により処刑された。後年、歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、法要も営んでいる。この辺りは正信の子、正休の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地で、宗吾殿は同家の敷地内にあったという。享和5(1803)年に150回忌の法要が営まれたその頃に建立されたようである。惣五郎はその後、芝居や講談の題材となり、明治に入ってから当主・堀田正養により宗吾殿の一般参詣を許可し、それ以降、劇場関係者や庶民から多くの信仰を集めている。現在のお堂は戦災後、1953年に有志により再建されている。案内板に曰く、「宗吾殿(そうごでん)/台東区寿三丁目十九番十二号/宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国(現千葉県)佐倉公津村の農民(一説に名主)惣五郎(宗吾)を供養する堂である。惣五郎は、江戸初期承応年間(1652~54年)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主堀田正信(1631~1680年)のとき、直訴を図った罪により処刑された。後年、佐倉藩歴代の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、百回忌などの法要を営んでいる。/その後、この付近は堀田正信の子、正休の家系である近江国(現滋賀県)宮川藩主堀田家の屋敷地となる。宗吾殿は同家が屋敷内に建立したものである。建立年代は不明だが、宮川藩堀田家では、享和5 (1803) 年に惣五郎の150回忌法要を営んでおり、堂もこの頃に建立したものと考えられる。/江戸末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となり広く世に知られた。明治12年、当主堀田正養(ほったまさやす、1848~1911年)は、一般の宗吾殿参詣を許可し、以来劇場関係者や庶民の信仰を集めている。/現在の堂は、戦災の後、昭和28年に有志によって再建され、毎年9月には縁日が行われている。/台東区教育委員会」



春日通りを西から東進し江戸通りと交差する手前の南側・蔵前三丁目に『江戸名所図会』にも 榧寺 ( かやでら) の通称で載っている正覚寺がある。「黒船町にあり。浄土宗にして増上寺に属す。池中山正覚寺と号す。…… 往古 ( そのかみ 当寺に名ある大木の榧ありし故に号とせりといへり」とある。『図会』は榧寺の所在地を黒船町と記しているが、昭和9年まで浅草黒船町という町があった。現在の寿一丁目、駒形一丁目、蔵前三丁目の内で、江戸時代初期から存在した町名のようで、黒船・外国船の船長が宿泊した所があった、さらには徳川家康に仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)のリーフデ号とも、オランダ船であったなどの諸説があって、はっきりしない。今、寿四丁目にあるこの黒船神社という小さなお宮は、東京都神社名鑑(上下巻、東京都神社庁編纂/1986年発行)によると、「天慶3(940)年、平将門(?~940年)を破った平貞盛(たいらのさだもり、生没年不詳)を祀ったのが始まりと伝えられる歴史の古い神社で、現在地より東の隅田川べりにあったのが享保17(1732)年の火災後、現在地に移った」とある。ところが現在、江東区牡丹一丁目にも同名の黒船稲荷神社というのがあって、同じ名鑑に享保17年、浅草黒船町から移ったもので、元地での創建は応徳3(1086)年とある。黒船は町名も神社も判らないことが多い。幕末ペリーの黒船来港とは関係がならしく、その証拠に、鳥居は寛文11(1671)年、灯籠は安永2(1773)年、手水鉢は寛政7(1795)年と刻まれていて、この神社の創建はペリー来航より随分前のことになるとおもわれる。黒船の呼称はペリー来航以前にも、古く安土・喪も山時代より、南蛮船を呼び、欧米の強大な軍事力・経済力の象徴として広く国内で呼ばれていたという。
左に駒形どぜう、右に玩具のバンダイ本社のビルで江戸通りに出た。バンダイ本社ビルの南側に江戸通りに面してこれまたせせこましい所に諏訪神社があった。まあ、ここは日を改めてと取材と見過ごして蔵前橋まで南下。蔵前橋を渡ると、蔵前橋通りを三つ目通りまで東進、三つ目通りを北上して源森橋を渡ると旧水戸藩下屋敷庭園を抜けて、言問橋を渡って帰宅した。水戸庭園の池では水鳥(ハクガン)が百日紅(さるすべり)の花が散り注ぐ下で遊んでいた。カメラを向けても逃げようともしない。かなり人に馴れているようだ。本日の記録は10711歩、6.9㎞とあった。
言問通りを国際通りまで西進。国際通りを南下、寿4丁目の信号を過ぎて2つ目の路地を左に入ると、三島神社がある。台東区には3つの三島神社があるので、取り敢えずここは「寿 三島神社」としておこう。昔はかなりの土地を有していたのだろうが、削りに削られていまでは辛うじて鳥居は路地にあるものの本殿と摂社の石稲荷髪稲荷神社はコンクリートの階段を上がった上にあり、その下はガレージとなっている。本家本元の三島神社の由緒書きもなければ、案内板もない。まして摂社の謂れを書いたものなど何処にも見当たらない。

神社前の路地を江戸通りまで進み、駒形橋を渡り、淺草通りを東進、三つ目通りを過ぎて、四つ目通りから京成橋の上にでると、スカイツリーの写真を撮り、押上商店街から、東武伊勢崎線の踏切を渡り、桜橋通りを西進、見番通りから弘福寺・長命寺の前を通り、川沿いの遊歩道に出ると白鬚橋の方からワンさんが近付いてくる。カメラを向けてシャッターを切るが、慌てていたのか少々ピンボケの写真になってしまった。本龍院(聖天様)に立ち寄るワンさんと桜橋を渡り、隅田公園を出たところで別れ、帰宅した。9940歩、6.4㎞という記録であった。

寿三島神社の縁起は元三島神社と全く同じで、承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡したが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承した。後の蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇(おおやまつみ)神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起である。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが御用地となったため、1650年に浅草小揚町(現、蔵前4丁目~寿4丁目)に移転する。元三島神社縁起によれば、金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったために氏子が要望して浅草小揚町から根岸に再び移転して元三島神社になったとある。御府内寺社備考(台東区教育委員会発行)に曰く、「浅草三嶋西蔵院前 三嶋明神社。本社土蔵造二間四方、供殿二間四方、拝殿間口三間奥行二間、神体幣、随身丈ニ尺五寸、相殿十一面観世音木像長九寸、弁財天木像長八寸。御供所間口五間奥行三間。石鳥居高一丈三尺横一丈四尺。末社、稲荷宮ニ社。別当円明山宝福寺西蔵院、新義真言宗足立郡元木村吉祥院末、寺在豊嶋郡金杉村。以上乙酉書上。/清水稲荷の西なり。西蔵院の持とす。祭神ハ大山祇命なり。当社ハむかし上野の麓にありしか。元禄のころ此地に移さるといへり。/縁起にいふ、延久2年5月、武州豊嶋郡領主江川団左衛門安経と云人、下谷金杉根岸村に三嶋を祭、本地薬師仏を造立、金杉鎮守とす。宝永中台命に因りて浅草へ遷さる。祭事5月15日・9月15日なり。」
祭神の、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味という。別名の和多志大神(ワタシノオオカミ)の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、木花之佐久夜姬(コノハナノサクヤビメ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に捧げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。

摂社に石稲荷髪稲荷神社があるが、その由緒などについては不明。江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3を含む広範囲)にあった社を当地(浅草駒形町の西2丁ほどの位置)に移転したとある。1丁は約109mであるから、名所図会の時点では現在地でほぼ間違いない。今は下階が駐車場のコンクリート造りの上に坐しまし、商業地の真ん中の狭い敷地では神様もたいへんなのである。縁起では1650年に小揚町に移転とあるが、これは現在の蔵前3及び4丁目付近から当地の寿3丁目に至る大名屋敷の並ぶ当社の南隣になる。移転年に数十年のずれがあることから火災ないし大名屋敷設置のために小移転しているのかもしれない。(この付近は「なになに代地」といったなんらかの移転による代替地名が入りくんでいる)




台東区には元三島神社と下谷三島神社と当社があるが、江戸名所図会に書かれているのは当社のみである。この3社の関係はいささか複雑あるようだ。江戸末期の地図(1850年頃)にはそれぞれ現在地の元三島権現社と当社が記載されているが、下谷三島神社は記載がない。江戸名所図会の完成は1832年であるから、江戸初期の三島神社は寛永寺東麓にあり、1650年に浅草小揚町に移転、1688~1704年頃に現地点に小移転し、江戸末期に根岸に再び移転したことがうかがえるのである。移転を繰り返したために複数の三島神社が登場したものであろう(当社の別当は金杉西蔵院)。なお、江戸名所図会(1832年)には諏訪社がいっしょに描かれている。江戸末期の地図(1860年頃)には当社と諏訪社の中間に黒船神社の3社が記載されている。黒船神社は位置を少し変えて現存している。
祭神の、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味という。別名の和多志大神(ワタシノオオカミ)の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、木花之佐久夜姬(コノハナノサクヤビメ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に捧げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。
案内板にあるように被官稲荷は新門辰五郎が勧請した稲荷である。辰五郎について調べていると、徳川慶喜に勧められて撮ったという写真にぶち当たった。この写真の持ち主杉下仁一氏は新門辰五郎の7代目ということになっていて、イベントの多い淺草ではよく姿をはいけんする。ごく親しい人たちの間では「ジンさん」と愛称でよばれて慕われている。
菅沼定敬の歌碑には「敷島のみちにはせきもあらなくに、なとてこころのとほらざる覧」と刻まれている。嘉永3(1827)年の建立というから、おそらくその頃の歌人であろうが、今のところ、いかなる人物なのか不明である。誰かご存知の方があれば、お教え願いたい。
昨日は、淺草神社境内の南の区画の石碑もデジカメに収めた。南の区画は鳥居によって西側と東側に分かれ、西側には「友情はいつも宝物」というコミック漫画の碑と、「初代市川猿翁句碑」の2つの石碑があり、東側には「粧(よそおい)太夫碑」・「久保田万太郎句碑」・「川口松太郎句碑」と3つの石碑が建つ。
「友情はいつも宝物」の碑文は大変読みづらい。『碑文抜粋: 一九七六年に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ。人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず、健全に成長してくれるように願いを込めて建てられました。 平成十七年八月六日 建立/「浅草物語」概略 ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、かつての優等生は逃亡犯になっていました。両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めたベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。そして逃亡犯は自首することになったのです。/ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」五七巻「浅草物語」より』おおよそ、こんなことが記されている。

「初代市川猿翁句碑」の傍に案内板が立っていてカメラに収めたが、よく読めない。凡そ『初代 市川猿翁句碑/「翁の文字まだ身にそはず衣がえ」 猿翁/建碑 昭和42年5月17日/撰文 市川猿翁/孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。/昭和38年5月、歌舞伎座に於いて襲名興業。/(浅草寺の襲名お練りは4月16日)/「猿翁」(昭和39年6月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず 衣がへ 猿翁 昭和37年5月猿翁襲名のとき」とある。/明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に生れる。/父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助-段四郎)、母古登の長男。(弟妹は10人)兵役を終えたのち明治43年10月(22才)で二代目市川猿之助を襲名。/昭和38年6月聖路加病院(心不全)にて死去。/享年75才。/昭和36年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。/浅草観光連盟』と読める。

碑文は「保農々々登明石能浦廼旦霧爾 四摩伽久礼行不念遠之所思 蕋雲女史文鴦書」とある。流暢な草書体で刻まれたこの碑、一見よく萬葉歌と誤解される。白文で書かれたためか、歌が萬葉調なるためか、或は人麻呂作と考えられてか、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく舟をしぞ思ふ」、世俗に有名な歌で能の「草子洗小町」(そうしあらいこまち、歌合を舞台に小野小町が、大友黒主の姦策を機知によって退ける様を描く)にも出てくる。出典は『古今集』巻9―416で、よみ人しらずの歌。ただしこの歌の左注に「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とある。また、『今昔物語集』巻第24(巻45)にも載っていて、ここでは「小野篁が隠岐に流さるる時」明石で読んだと記されている。しかし、『人麻呂集』にも入っていて、一般的には柿本人麻呂作と了解されて来た。文化13(1816)年の建立で筆者の蕋雲女史とは案内板にもあるように吉原平松楼の妓女・粧太夫で、文鴦とも号し、和歌・書をよくし、書を中井董堂に学び、董堂が碑陰に撰文を記している。
久保田万太郎(1889~1963年):昭和38年5月6日歿。73歳(顕功院殿緑窓傘雨大居士)本郷・喜福寺に眠る。明治の浅草に生まれ、浅草を愛し、浅草を書いた作家、久保田万太郎は浅草が全ての文学生涯であった。府立第三中学の後輩、芥川龍之介は「久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、---たとへば、雪に伏せたる竹と趣を一にすと云ふを得べし」と評しているが、この粘り強い意志の人も、昭和38年5月梅原龍三郎画伯邸での会食中、赤貝を喉に詰めて窒息、絶命したという。

川口松太郎(1899~1985年)昭和60年6月9日歿 85歳 雑司ヶ谷霊園に眠る。川口松太郎は多彩な遍歴を持つ作家である。小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧、古本露天商、警察署給仕、電信局勤務、講釈師許に住込み口述筆記手伝い、編集者等を経ての作家人生であった。妻であり女優の三益愛子を看取ってから3年後の昭和60年6月、86歳、東京女子医大で肺炎により死去。
仲見世を南下し、雷門通りから吾妻橋をわたり、墨田区側の遊歩道を白鬚橋まで北上。白鬚橋を渡ると件の川沿いの落書き遊歩道を通って、帰宅した。昨日からの台風9号の所為か、川面にごみが浮いて汚れている。9303歩、6.0㎞を記録していた。
浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、徳川家康・大国主命を合祀するという。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったそうだが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったのである。社伝によれば、推古天皇36(628)年、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称したということである。
三社祭の三社とは土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命で、神託によって1312年から浅草観音船祭りが隔年ではじめられたという。御輿を浅草寺本堂に移してここから浅草橋へ渡り、浅草橋から船に乗せて駒形橋から戻る漁師の祭りであったらしい。1692に橋場付近から蔵前付近の隅田川は漁猟禁止となり、漁師が多摩川河口の大森~六郷に移転させられたために三社祭にはその漁師が参加していたということである。(浅草海苔は安房守平公雅が945年に浅草浦に黒赤青の海苔を得たのが事始めとされているがはてさていかがかな?)
江戸名所図会は事跡がたくさんあって書ききれないとあり、江戸庶民にとっての浅草の重要性がうかがえるのである。以下は江戸名所図会に書かれる境内社には、熊谷稲荷、銭塚弁財天、銭瓶弁財天、熊野権現、淡島明神、十社権現祠(縁起の10人の童を祀る)、一の権現社(顕松院阿加牟堂、10人の童が最初に作った草堂(現在の花川戸1丁目)、西宮稲荷祠(上千束稲荷、隣接して蛭子祠、地主神)などがある。
江戸名所図会の千束郷に「浅草寺の永徳四年(1387)の鐘の銘に武州豊島郡千束郷金竜山浅草寺」があるとあり、浅草が千束郷の一部であったことがわかる。浅草の地名の初出は吾妻鏡の治承5(1181)年で、鶴ヶ岡八幡宮造営で武蔵国浅草の宮大工を呼ぶ記事があり、これが最古の浅草寺の登場文献という。考古学的な出土物からは「瓦葺の浅草寺」が造営されたのは平安末期とされている。
言問通りからジグザグコースで淺草小学校前に出る。西側の道を行くと、「嬉の森稲荷」というのがある。

台東区教育委員会の案内板に曰く、「伝承によれば、嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森にまつられていた。嬉の森は小さな丘や樹や竹が生い茂っていたという。その名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。ちなみに、嬉の森と呼ばれた森は、隅田川岸に数ヶ所あった。/嬉の森稲荷社については不明な部分も多いが、明治四十年刊の『東京案内』では、「案ずるに嬉の森稲荷は、花川戸町二十七番地に在りたり」と推定している。現在の花川戸一丁目四番の辺りである。その後、数度の移転の後に昭和二年現在地に移った。この間、大正十二年九月の関東大震災の焼失を免れ、また昭和二十年三月の戦火も免れたという。/嬉の森稲荷は、火伏の神として信仰され、四月の二の午の日には、近隣の人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。」
東武線の浅草駅北口から吾妻橋を渡って、墨田区側の遊歩道を北上。白鬚橋を渡り、何時もの台東区側の遊歩道を南下して帰宅する。今日は日曜日とあって、東京湾に釣船を走らせる人もあれば、親水テラスで釣を楽しむ人もいる。昭和40年代の頃は、臭気で仏壇の像や箔に緑青がわいていたほど汚染されていた隅田川で、釣をする人を見かけれるほどになり、こうして川辺を散策できるようになったことは誠に喜ばしきことである。本日の記録は9273歩、6.0㎞であった。
今日は土曜日、昼には歯科医に予約があるあるし、夕刻はTY君の親父さんの通夜に行かなくてはならないので、朝の徘徊は控えめにしようと、朝食後1時間ほどの散策とする。
小松橋通りと言問通りの間に千束に通じる道がある。これを柳通りまで進み、淺草見番の前の路地を右に入ったところに箭弓稲荷神社というのがある。「箭弓」は「やきゅう」と読むのだそうだ。千束通りからひさご通り、六区を抜けて、すし屋横丁へ、雷門通りにでる1つ手前の通り淺草1丁目14番の区画がある。この区画の真ん中の路地に「御手洗稲荷神社」というのがある。まん前に小型トラックが止めてあったので、体を横にして朱塗りの門を開けて中に入ってみた。由緒書きなど一切なく、どのような稲荷かよく判らない。トラック越しに鳥居の写真を撮っておいた。路地を南側に出た細い道に「無聿富稲荷神社」というのがあった。はてさて、これは何と読みどういう意味だんべえと考えながら、「聿」の音は「イツ・イチ」だから「むいつふ? 」「むいちふ? 」…… 鳥居を潜り中に入ると賽銭箱に書いてあったのは「無事富稲荷大明神」とある。まあ、これなら意味はよく判る。ただし、由緒書きなどは何処に見見当たらない。
雷門通りに出ると、只今建て替え中の水上バス淺草ステーションの工事現場を見ながら吾妻橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで北上、橋を渡って帰宅した。6750歩、4.3㎞という記録であった。
今日は、地図にも記されていない路地裏にある稲荷を回ってみたが、どのお稲荷さんも由緒・案内版らしきものは見当たらない。辛うじて、「箭弓稲荷神社」というのは埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」の講社であろうということが推測できる。

平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常(967~1031年)が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従へ、ついにその威を関八州に奮い、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきた。朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信(968~1048年)を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久(やきゅう)稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利した。帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷(やきゅういなり)と改めて呼ぶようにと里人に命じた。以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれている。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているという。ここ淺草3丁目の箭弓稲荷神社も、松山の箭弓稲荷神社の講社だろう。尚、台東区には上野にも箭弓稲荷神社があるが、これも松山の講社であろう。

「御手洗稲荷」についても、「みたらし」(団子の名前)、(みたらい)などの読みが考えられるが、まさか「おてあらい」と読むことはあるまい。いずれにしても「御手洗稲荷」「無事富稲荷」については全国的にもこんな名前の稲荷さんは少ないようである。「無事富稲荷」については、この辺りが元々淺草の三業地(「芸妓置屋」「料理屋」「待合」の施設のある土地)であったことを考え合わせるとこんな名前が付けられたことも肯けるのである。





小松橋通りと言問通りの間に千束に通じる道がある。これを柳通りまで進み、淺草見番の前の路地を右に入ったところに箭弓稲荷神社というのがある。「箭弓」は「やきゅう」と読むのだそうだ。千束通りからひさご通り、六区を抜けて、すし屋横丁へ、雷門通りにでる1つ手前の通り淺草1丁目14番の区画がある。この区画の真ん中の路地に「御手洗稲荷神社」というのがある。まん前に小型トラックが止めてあったので、体を横にして朱塗りの門を開けて中に入ってみた。由緒書きなど一切なく、どのような稲荷かよく判らない。トラック越しに鳥居の写真を撮っておいた。路地を南側に出た細い道に「無聿富稲荷神社」というのがあった。はてさて、これは何と読みどういう意味だんべえと考えながら、「聿」の音は「イツ・イチ」だから「むいつふ? 」「むいちふ? 」…… 鳥居を潜り中に入ると賽銭箱に書いてあったのは「無事富稲荷大明神」とある。まあ、これなら意味はよく判る。ただし、由緒書きなどは何処に見見当たらない。
今日は、地図にも記されていない路地裏にある稲荷を回ってみたが、どのお稲荷さんも由緒・案内版らしきものは見当たらない。辛うじて、「箭弓稲荷神社」というのは埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」の講社であろうということが推測できる。
言問通りを西に向けて歩く。国際通りを南下してビューホテルを過ぎたところに、感應稲荷神社がある。門扉が閉まっていて、境内には入れないが、門の右側に小祠がみえる。中に入れないのでよく判らぬが、併社であるらしい。門扉の桟の間や玉垣の間からカメラを突っ込み何枚か写真撮影。さらに国際通りを南下して、ROXの前の新仲見世通りから国際通りを横切って真っ直ぐ進んだ角地に八幡神社がある。ここも門扉が閉まっていて境内には入れない。ここでも門扉や玉垣の間からカメラを入れてシャッターを押しては見たが、はてさてうまく撮れているやら?
国際通りを更に南下、寿4丁目の交差点から淺草通りを東進。四つ目通りから京成橋を渡り、押上駅前商店街を抜けて桜橋通りを西に進み、桜橋まで来ると、遊歩道を南下するワンさんの姿を見たので思わず声を掛けた。桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は10888歩、7.0kmであった。
感應稲荷神社は古くより柴崎村に鎮座していたが、天正19 (1591) 年に本銀町(普請場が有った所で、銀町《しろがねまち》とも言った。竜閑川の南側一帯で、今の中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯をよんだ)に遷座し、そのころから「感應稲荷神社」と呼ばれるようになったという。文禄元(1592)年、明暦3 (1657) 年にも鎮座地を移ったが、ついに元の浅草柴崎に落ち着き、柴崎村の鎮守神として人々の篤い信仰あつめ、現在に至っているという。






八幡神社のあるこの地域の旧町名である浅草田島町は、明暦の大火(1657年)後に神田須田町から移ってきた田島山快楽院誓願寺(府中市紅葉丘に引っ越して、今は無いが、東本願寺《旧名;東京本願寺》と並ぶ壱千坪を越す大きさがあったらしい)に由来するという。八幡神社は元禄13年田島山快楽院誓願寺に宇佐八幡宮の分霊を勧誘し旧浅草田島町の鎮守としたことにはじまる。誓願寺の中にあったが神仏分離政策で独立し、明治6年廃仏起釈により浅草神社の管理下になる。誓願寺が府中市に移転した後もこの地に残ったということである。戦災により焼失するも昭和24年同地に再建、昭和47年コンクリートの社として改築された。
感應稲荷神社は古くより柴崎村に鎮座していたが、天正19 (1591) 年に本銀町(普請場が有った所で、銀町《しろがねまち》とも言った。竜閑川の南側一帯で、今の中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯をよんだ)に遷座し、そのころから「感應稲荷神社」と呼ばれるようになったという。文禄元(1592)年、明暦3 (1657) 年にも鎮座地を移ったが、ついに元の浅草柴崎に落ち着き、柴崎村の鎮守神として人々の篤い信仰あつめ、現在に至っているという。
八幡神社のあるこの地域の旧町名である浅草田島町は、明暦の大火(1657年)後に神田須田町から移ってきた田島山快楽院誓願寺(府中市紅葉丘に引っ越して、今は無いが、東本願寺《旧名;東京本願寺》と並ぶ壱千坪を越す大きさがあったらしい)に由来するという。八幡神社は元禄13年田島山快楽院誓願寺に宇佐八幡宮の分霊を勧誘し旧浅草田島町の鎮守としたことにはじまる。誓願寺の中にあったが神仏分離政策で独立し、明治6年廃仏起釈により浅草神社の管理下になる。誓願寺が府中市に移転した後もこの地に残ったということである。戦災により焼失するも昭和24年同地に再建、昭和47年コンクリートの社として改築された。
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目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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