瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
同じ『補助定理集』(Book of Lemmas)の中には、角を三等分するArchimedes(アルキメデス)の挿入法が示されているという。
Archimedes(アルキメデス〕によれば、「二箇所に印のついた物差し (これは普通に売っている, 目盛り付の物差しで十分である) とコンパスを用いると、 角は容易に三等分される」というものである。(左図参照)
以上示すようにArchimedes(アルキメデス)は目盛りを打つことができる定規を作図問題に取り入れている。これを使えば、線分を写す、二つの直線(または円)を書く、点をとるといったようなことができるので、与えられた点を通りその点で互いに交わるいくつかの直線を描いて、それらに交わる別の直線から、与えられた線分と同じ長さのところにある点をとるといったようなこともできる。これをギリシャ人は直線が点に向かっていくように見えることから「傾向」という意味の neusis(ニュアシス) と呼んだ。
この作図はユークリッドの原論が扱っている幾何学の範囲を超えるものであり、ユークリッドの幾何学では neusis に関する公理も定理もそもそもその存在さえも扱われておらず、したがってそれをつかった作図もすることはできない。この広い意味の幾何学では、既知の長さから三次または四次方程式の解として得られる比を持つ長さならば作図できる。これは目盛りの打てる定規と neusis を使えば角の三等分および立方倍積ができるということである(一方、円積問題についてはやはり不可能なままではあるが)。これによって、正七角形などいくつかの正多角形が作図可能となり、John Horton Conway〔ジョン・ホートン・コンウェイジョン・ホートン・コンウェイ、 1937~ 、イギリスの数学者」はその様なもののいくつかについて作図法を与えているという。それでも正十一角形など無数に作図不可能なものが存在するのである。
作図題に言う「定規」「コンパス」は現実世界にある実物のそれではなく(参考にはしているけれども)、可能な作業が決まっている仮想的な存在である。そのため、思考実験の一種としてサイズに関しては現実的にありえない無茶なことも想定できる代わりに、実物にできることのいくつかははっきりと禁止される。
「コンパス」はいくらでも小さく、またはどこまでも大きく半径を取ることのできる、仮想的なもので、広げて任意の長さを測り取ることもできる。ただし、測り取れるのは既に作図されている二点間の長さとしてだけである。なお、「コンパス」本体に角度を表示する目的などで目盛りなどの印を打つことはできない。また、作図の作業においては軸は既に作図された点に固定されるものとし、定規や線の上を引きずって線を引くような用途には使用できない。
「定規」はいくらでも長くまっすぐな線を引くことができる。ただし、「定規」に目盛りを打つことは許されない(目盛りがあっても長さを測るのには使わない)。また「定規」だけで引けるのは同時に一本だけであり、複数の平行線を同時に引くようなことはできない。「定規」でできるのは既知の任意の二点を線分で結ぶこと、およびそれを延長して直線にすることである。
仮に目測や近似を使って何らかの作図ができたと主張しても、それは作図問題に答えたことにはならない。間違いなく確実に決まっていることが必要なのである。もちろん(いくらきちんと点や線が作図できたとしても)、目盛りのある定規を使ったり、変形コンパスや分度器その他の道具、手段を利用してはならない。そのようにして得たものは定規とコンパスを用いた作図問題の解決とは無関係な存在だからである。
これらの条件から、定規とコンパスによる作図でできることは原理的には次に挙げるような作業のみであり、既知の点、直線、円たちからはじめて、それらの作業を有限回組み合わせて繰り返すだけで必要な点や長さを得ることができるならば目的の作図が可能、できなければ目的の作図は不可能であるということになる。
①既知の二点に対し、それらを通る直線を引く。
②既知の一点を中心とし、それ以外の既知の点を通るような円を描く。
③互いに平行でない既知の二直線から、その交点を得る。
④既知の円と直線から、その高々二個の交点を得る。
⑤既知の二つの円から、その高々二個の交点を得る。 (以上、左図参照)
Archimedes(アルキメデス〕によれば、「二箇所に印のついた物差し (これは普通に売っている, 目盛り付の物差しで十分である) とコンパスを用いると、 角は容易に三等分される」というものである。(左図参照)
以上示すようにArchimedes(アルキメデス)は目盛りを打つことができる定規を作図問題に取り入れている。これを使えば、線分を写す、二つの直線(または円)を書く、点をとるといったようなことができるので、与えられた点を通りその点で互いに交わるいくつかの直線を描いて、それらに交わる別の直線から、与えられた線分と同じ長さのところにある点をとるといったようなこともできる。これをギリシャ人は直線が点に向かっていくように見えることから「傾向」という意味の neusis(ニュアシス) と呼んだ。
この作図はユークリッドの原論が扱っている幾何学の範囲を超えるものであり、ユークリッドの幾何学では neusis に関する公理も定理もそもそもその存在さえも扱われておらず、したがってそれをつかった作図もすることはできない。この広い意味の幾何学では、既知の長さから三次または四次方程式の解として得られる比を持つ長さならば作図できる。これは目盛りの打てる定規と neusis を使えば角の三等分および立方倍積ができるということである(一方、円積問題についてはやはり不可能なままではあるが)。これによって、正七角形などいくつかの正多角形が作図可能となり、John Horton Conway〔ジョン・ホートン・コンウェイジョン・ホートン・コンウェイ、 1937~ 、イギリスの数学者」はその様なもののいくつかについて作図法を与えているという。それでも正十一角形など無数に作図不可能なものが存在するのである。
作図題に言う「定規」「コンパス」は現実世界にある実物のそれではなく(参考にはしているけれども)、可能な作業が決まっている仮想的な存在である。そのため、思考実験の一種としてサイズに関しては現実的にありえない無茶なことも想定できる代わりに、実物にできることのいくつかははっきりと禁止される。
「コンパス」はいくらでも小さく、またはどこまでも大きく半径を取ることのできる、仮想的なもので、広げて任意の長さを測り取ることもできる。ただし、測り取れるのは既に作図されている二点間の長さとしてだけである。なお、「コンパス」本体に角度を表示する目的などで目盛りなどの印を打つことはできない。また、作図の作業においては軸は既に作図された点に固定されるものとし、定規や線の上を引きずって線を引くような用途には使用できない。
「定規」はいくらでも長くまっすぐな線を引くことができる。ただし、「定規」に目盛りを打つことは許されない(目盛りがあっても長さを測るのには使わない)。また「定規」だけで引けるのは同時に一本だけであり、複数の平行線を同時に引くようなことはできない。「定規」でできるのは既知の任意の二点を線分で結ぶこと、およびそれを延長して直線にすることである。
仮に目測や近似を使って何らかの作図ができたと主張しても、それは作図問題に答えたことにはならない。間違いなく確実に決まっていることが必要なのである。もちろん(いくらきちんと点や線が作図できたとしても)、目盛りのある定規を使ったり、変形コンパスや分度器その他の道具、手段を利用してはならない。そのようにして得たものは定規とコンパスを用いた作図問題の解決とは無関係な存在だからである。
これらの条件から、定規とコンパスによる作図でできることは原理的には次に挙げるような作業のみであり、既知の点、直線、円たちからはじめて、それらの作業を有限回組み合わせて繰り返すだけで必要な点や長さを得ることができるならば目的の作図が可能、できなければ目的の作図は不可能であるということになる。
①既知の二点に対し、それらを通る直線を引く。
②既知の一点を中心とし、それ以外の既知の点を通るような円を描く。
③互いに平行でない既知の二直線から、その交点を得る。
④既知の円と直線から、その高々二個の交点を得る。
⑤既知の二つの円から、その高々二個の交点を得る。 (以上、左図参照)
円の性質について15の提議が書かれたArchimedes(アルキメデス)の『補助定理集』(Book of Lemmas) は、アラブ語で書かれた写しが知られている。ここには、arbelos(アルベロス)の研究があるという。
まず、線分ABを直径とする半円γを描き、次に線分AB上に点Cをとり、線分ACおよび線分BCを直径とする半円α、βを同じ側に描く。これらの3つの半円α、β、γで囲まれる図形がarbelos(アルベロス)といわれている図形である。すなわち、1つの半円γのなかに、2つの半円α、βをちょうど接するように描かれたもので、その3つの半円の円弧で囲まれた図形をarbelos(アルベロス)と呼ばれている。その形が古代ギリシャで使われていたらしい「靴屋のナイフ」(ギリシャ語でアルベロス)に似ていたことから、Archimedes(アルキメデス)が名付けたものだといわれている。
このアルベロス図形は、さまざまに面白い性質を持っていて、そのために、昔から多くの人が関心を寄せ、いまなお世界各地で研究され、研究は進化しつづけているという。Arbelos(アルベロス)というのは、古代ギリシアのArchimedes(アルキメデス)の頃から多くの数学者たちを魅了し、日本の和算家たちにも取上げられ、なお現在もホットな研究が続けられている平面図形であるという。
左図に示すように、アルベロスの面積は容易に求められ、この値は、驚くべきことに、図の垂線CDを直径とする円の面積に等しくなるのである。(左図参照)
さらに、左図のように半円A、Bの共通接線の接点を結ぶ線分EFと線分CDを対角線にもつ四角形CFDEを作ると、四角形CFDEは長方形になるという美しい性質がある。(左図の証明参照)
このアルベロス図形は,さまざまに面白い性質をもつが、なかでも,アルキメデスの双子の円と呼ばれる問題が有名である。左図で半円内の大きい方の円の半径をa、小さい方の円の半径をb とし、円内の2つの半円の交点を通る半円に垂直な線CHを引くと、その直線と内円と外円に接している円の半径はともに、ab/(a+b)という式で表されることも知られている。
まず、線分ABを直径とする半円γを描き、次に線分AB上に点Cをとり、線分ACおよび線分BCを直径とする半円α、βを同じ側に描く。これらの3つの半円α、β、γで囲まれる図形がarbelos(アルベロス)といわれている図形である。すなわち、1つの半円γのなかに、2つの半円α、βをちょうど接するように描かれたもので、その3つの半円の円弧で囲まれた図形をarbelos(アルベロス)と呼ばれている。その形が古代ギリシャで使われていたらしい「靴屋のナイフ」(ギリシャ語でアルベロス)に似ていたことから、Archimedes(アルキメデス)が名付けたものだといわれている。
このアルベロス図形は、さまざまに面白い性質を持っていて、そのために、昔から多くの人が関心を寄せ、いまなお世界各地で研究され、研究は進化しつづけているという。Arbelos(アルベロス)というのは、古代ギリシアのArchimedes(アルキメデス)の頃から多くの数学者たちを魅了し、日本の和算家たちにも取上げられ、なお現在もホットな研究が続けられている平面図形であるという。
左図に示すように、アルベロスの面積は容易に求められ、この値は、驚くべきことに、図の垂線CDを直径とする円の面積に等しくなるのである。(左図参照)
さらに、左図のように半円A、Bの共通接線の接点を結ぶ線分EFと線分CDを対角線にもつ四角形CFDEを作ると、四角形CFDEは長方形になるという美しい性質がある。(左図の証明参照)
このアルベロス図形は,さまざまに面白い性質をもつが、なかでも,アルキメデスの双子の円と呼ばれる問題が有名である。左図で半円内の大きい方の円の半径をa、小さい方の円の半径をb とし、円内の2つの半円の交点を通る半円に垂直な線CHを引くと、その直線と内円と外円に接している円の半径はともに、ab/(a+b)という式で表されることも知られている。
昨日のブログで述べたArchimedes(アルキメデス)が友人Eratosthenes(エラトステネス)に宛てた詩の形で知られている問題は不定方程式となり、べらぼうに大きな数が現われる問題として古来有名である。その大意は
「Hēlios(ヘリオス)の神が、シチリアの原野に、白・黒・黄・斑(ブチ)の4群の牛を飼っていた。
①白の牡の数は黄の牡の数よりも黒の牡の数の 1/2 と 1/3 だけ多く、②黒の牡の数は黄の牡の数よりも斑の牡の数の 1/4 と 1/5 だけ多く、③斑の牡の数は黄の牡の数よりも白の牡の数の 1/6 と 1/7 抱け多い。④白の牝の数は黒の牡牝合計の 1/3 と 1/4 であり、⑤黒の牝の数は斑の牡牝合計の 1/4 と 1/5 であり、⑥斑の牝の数は牝の数は黄の牡牝合計の 1/5 と 1/6であり、⑦黄の牝の数は白の牡牝合計の 1/6 と 1/7 である。
さらに、⑧白の牡と黒の牡の数の和は平方数、⑨斑の牡と黄の牡の数の和は三角数である。牛の総数はいくらか?」ということになる。
白、黒、黄、斑の牡牛と牝牛との頭数をそれぞれ、W、w、B、b、Y、y、D、dとして、与えられた条件を式で表わすなら、左のようになる。
最後の2つの条件は、W + B が平方数であり、Y + D が三角数であることを意味する。
アルキメデスは最初の7つの条件を与えた後に「これっぽっち(の条件を満たす牛の頭数を求めただけ)ではまだなかなかに知恵者の数には入らないのだ」と述べ、残りの2つの条件を与えている。
最初の7つの条件は、連立一次方程式に過ぎないため、簡単に一般解が求まる。8つの未知数に対し、7つの独立した一次式があるから、解は1つのパラメータ k(正の整数) を用いて表すことができ、左のようになる。
これだけでも、最低 k=1 としても、合計5千万頭をこすが、さらに⑧⑨の付加条件を付け加えた解は無数にあるが、最小のものでも牛の頭数は二十万桁以上に達する(二十万「頭」ではない)という。
「Hēlios(ヘリオス)の神が、シチリアの原野に、白・黒・黄・斑(ブチ)の4群の牛を飼っていた。
①白の牡の数は黄の牡の数よりも黒の牡の数の 1/2 と 1/3 だけ多く、②黒の牡の数は黄の牡の数よりも斑の牡の数の 1/4 と 1/5 だけ多く、③斑の牡の数は黄の牡の数よりも白の牡の数の 1/6 と 1/7 抱け多い。④白の牝の数は黒の牡牝合計の 1/3 と 1/4 であり、⑤黒の牝の数は斑の牡牝合計の 1/4 と 1/5 であり、⑥斑の牝の数は牝の数は黄の牡牝合計の 1/5 と 1/6であり、⑦黄の牝の数は白の牡牝合計の 1/6 と 1/7 である。
さらに、⑧白の牡と黒の牡の数の和は平方数、⑨斑の牡と黄の牡の数の和は三角数である。牛の総数はいくらか?」ということになる。
白、黒、黄、斑の牡牛と牝牛との頭数をそれぞれ、W、w、B、b、Y、y、D、dとして、与えられた条件を式で表わすなら、左のようになる。
最後の2つの条件は、W + B が平方数であり、Y + D が三角数であることを意味する。
アルキメデスは最初の7つの条件を与えた後に「これっぽっち(の条件を満たす牛の頭数を求めただけ)ではまだなかなかに知恵者の数には入らないのだ」と述べ、残りの2つの条件を与えている。
最初の7つの条件は、連立一次方程式に過ぎないため、簡単に一般解が求まる。8つの未知数に対し、7つの独立した一次式があるから、解は1つのパラメータ k(正の整数) を用いて表すことができ、左のようになる。
これだけでも、最低 k=1 としても、合計5千万頭をこすが、さらに⑧⑨の付加条件を付け加えた解は無数にあるが、最小のものでも牛の頭数は二十万桁以上に達する(二十万「頭」ではない)という。
牛の問題:問題は「おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを算(かぞ)え給え…」で始まる22の対句、44行のepigram(エピグラム)という詩の形で示されている。白、黒、黄、斑の各色にそれぞれ牡と牝がいて、牛の種類は計八種類である。Archimedes(アルキメデス)が発見し、アレクサンドリアにおいてこのような題目の研究に携わっている人びとにあてた形をとって、Cyrene〔キュレネ、現リビアにある古代ギリシア都市〕のEratosthenes〔エラトステネス、BC275~194年)宛の手紙に入れて送ってきたところの問題という。
おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを算(かぞ)え給え
もし君が綿密で知恵をもっているならば。
昔あるとき、シケリアの島のトリナキエの野に幾頭の牛が草を食(は)んでいたのか、
毛色を異にする四つの群れに分かれ
一つは乳白色に 別の群れは黒色に輝き、
ほかの一つは黄、もう一つは斑色(まだらいろ)。
おのおのの群れの牡牛(おうし)は多さにおいて勝(まさ)り
こういう割合になっていた-
白いのは、黒牡牛の半ばと三分の一とに黄なのを合わせた総和に等しく、
おお盟邦の友よ、
黒いのそれ自体は、斑色の四分の一と五分の一とに黄なのを加えた全体に等しいと思い給え。
残るところの斑色のは、白牡牛の六分の一と七分の一とに黄なのを加えた全体に等しいとみなし総え。
つぎに、牝牛(めうし)についてはこうなっていた-
白いのは、黒の群れの総和の三分の一と四分の一とにきっかり等しく、
黒いのそれ自体は、斑の牝牛が牡牛もろとも牧場にいったとき、その全体の四分の一と五分の一との和に等しかった。
黄の群れの五分の一と六分の一との和に等数の多さを、四色斑の牝牛はもっていた。
そして、黄なのは、白の群れの三分の一の半ばと七分の一とに等しいと数えられた。
盟邦の友なる君よ、ヘリオスの牛は幾頭たるか、正確にいい給え、 よく肥えた牡牛の数を、
また牝牛は幾頭なのかを、おのおのの色について別べつに。
君は数について不案内だとか苦手だとかといわれたくはあるまいが、
これっぽっちではまだなかなかに知恵者の数にははいらないのだ。
さあ、示し給え、ヘリオスの牛がまたこういう性質をすべてもつように-
白い牡牛がその頭数を黒いのに混ぜ合わせたとき、奥行きも幅も等しい長さ(正方形)にぎっしりと居並び
四方八方にさしも広いトリナキエの野もその頭数で埋め尽くされてしまったという。
また、黄のが斑のと一つ塊(かたまり)に集まったときには、その数が一からはじまってしだいにふえ
ちょうど三角数を形づくったときのような形に居並んだ-
ほかの色の牡牛が加わることもなく、また余ることもなしに。
おお、盟邦の友よ、もし君がこれらの条件を同時に満たすように発見できるなら
これらを心の中で結び合わせてすべての測度を示すことができるなら勝利を占めて誇ろうではないか、
そして、君がこの種の知恵にかけて完璧(かんぺき)であると判定されるにいたるのをみようではないか。
William Wordsworth〔ウィリアム・ワーズワース、 1770~1850年、イギリスの代表的なロマン派詩人〕が『The Prelude〔プレリュード、序曲〕』第10巻の終わり近くに、「山に生まれ、羊飼いのあいだで育った私は/ごく幼い小学生のころから、シチリアを夢みるのが/大好きだった。……」といい、この島の生んだ著名な人として、「哲学者ないし詩人の、あのEmpedocles〔エンペドクレス、BC490?~430年頃、古代ギリシアの自然哲学者、医者、詩人、政治家〕とか/深く静かな魂の持主、Archimedes(アルキメデス)! とか/それに、ああテオクリトスよ、……」(国文社、昭43)と歌っているように、アルキメデスにやや先だって、同じくSiracusa(シラクサ)から最初の牧歌詩人Theocritus〔テオクリトス、生存はBC310乃至318~270年頃とされるが詳細は不祥〕が出ているが、この詩でつづられた「問題」は、牧歌の故郷から大都市アレクサンドリア在住の数学者たちに贈るにふさわしいものであったのである。
おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを算(かぞ)え給え
もし君が綿密で知恵をもっているならば。
昔あるとき、シケリアの島のトリナキエの野に幾頭の牛が草を食(は)んでいたのか、
毛色を異にする四つの群れに分かれ
一つは乳白色に 別の群れは黒色に輝き、
ほかの一つは黄、もう一つは斑色(まだらいろ)。
おのおのの群れの牡牛(おうし)は多さにおいて勝(まさ)り
こういう割合になっていた-
白いのは、黒牡牛の半ばと三分の一とに黄なのを合わせた総和に等しく、
おお盟邦の友よ、
黒いのそれ自体は、斑色の四分の一と五分の一とに黄なのを加えた全体に等しいと思い給え。
残るところの斑色のは、白牡牛の六分の一と七分の一とに黄なのを加えた全体に等しいとみなし総え。
つぎに、牝牛(めうし)についてはこうなっていた-
白いのは、黒の群れの総和の三分の一と四分の一とにきっかり等しく、
黒いのそれ自体は、斑の牝牛が牡牛もろとも牧場にいったとき、その全体の四分の一と五分の一との和に等しかった。
黄の群れの五分の一と六分の一との和に等数の多さを、四色斑の牝牛はもっていた。
そして、黄なのは、白の群れの三分の一の半ばと七分の一とに等しいと数えられた。
盟邦の友なる君よ、ヘリオスの牛は幾頭たるか、正確にいい給え、 よく肥えた牡牛の数を、
また牝牛は幾頭なのかを、おのおのの色について別べつに。
君は数について不案内だとか苦手だとかといわれたくはあるまいが、
これっぽっちではまだなかなかに知恵者の数にははいらないのだ。
さあ、示し給え、ヘリオスの牛がまたこういう性質をすべてもつように-
白い牡牛がその頭数を黒いのに混ぜ合わせたとき、奥行きも幅も等しい長さ(正方形)にぎっしりと居並び
四方八方にさしも広いトリナキエの野もその頭数で埋め尽くされてしまったという。
また、黄のが斑のと一つ塊(かたまり)に集まったときには、その数が一からはじまってしだいにふえ
ちょうど三角数を形づくったときのような形に居並んだ-
ほかの色の牡牛が加わることもなく、また余ることもなしに。
おお、盟邦の友よ、もし君がこれらの条件を同時に満たすように発見できるなら
これらを心の中で結び合わせてすべての測度を示すことができるなら勝利を占めて誇ろうではないか、
そして、君がこの種の知恵にかけて完璧(かんぺき)であると判定されるにいたるのをみようではないか。
William Wordsworth〔ウィリアム・ワーズワース、 1770~1850年、イギリスの代表的なロマン派詩人〕が『The Prelude〔プレリュード、序曲〕』第10巻の終わり近くに、「山に生まれ、羊飼いのあいだで育った私は/ごく幼い小学生のころから、シチリアを夢みるのが/大好きだった。……」といい、この島の生んだ著名な人として、「哲学者ないし詩人の、あのEmpedocles〔エンペドクレス、BC490?~430年頃、古代ギリシアの自然哲学者、医者、詩人、政治家〕とか/深く静かな魂の持主、Archimedes(アルキメデス)! とか/それに、ああテオクリトスよ、……」(国文社、昭43)と歌っているように、アルキメデスにやや先だって、同じくSiracusa(シラクサ)から最初の牧歌詩人Theocritus〔テオクリトス、生存はBC310乃至318~270年頃とされるが詳細は不祥〕が出ているが、この詩でつづられた「問題」は、牧歌の故郷から大都市アレクサンドリア在住の数学者たちに贈るにふさわしいものであったのである。
Archimedes(アルキメデス)が図形の求積に使った方法はとりつくし法である。この方法はEudoxos〔ユードクソス、BC408?~355年、古代ギリシアの数学者、天文学者〕が発見したものといわれている。図形に内接する一連の多角形を描き、それらの面積を元の図形に収斂させる方法である。列を正しく構築すれば、n角形の面積と元の図形の面積の差は n が大きくなるにつれて小さくなっていく。この差を恣意的に小さくすれば、その図形の面積は一連の数列で得られる面積によって「取り尽くされ」、とりうる値の下限が体系的に定まる。
Eukleides(エウクレイデス、英語: Euclid《ユークリッド》)は『原論』第12巻で取り尽くし法を用いて以下の6個の命題を証明している。
命題2:円の面積は直径の2乗に比例する。
命題5:相等しい高さの三角錐の体積は互いに底面の三角形の面積に比例する。
命題10:円錐の体積は同じ底面と同じ高さを持つ円柱の体積の3分の1である。
命題11:同じ高さの円錐または円柱の体積はそれぞれ互いに底面の面積に比例する。
命題12:相似な円錐または円柱の体積はそれぞれ互いに底面の直径の3乗に比例する。
命題18:球の体積は直径の3乗に比例する。
Archimedesは、取り尽くし法を使って円の面積を計算した。円に多角形を内接させ、その多角形の辺の数を増やしていったのである。この多角形の面積を円の半径を1辺とする正方形の面積で割ると、その商は辺の数を増やすにつれてπに近づく。このことから半径 r の円の面積が πr² であることを証明し、πは円周と直径の比率と定義した。付随して、①円の面積とその直径上に作った正方形の面積の比は 11:14 であり、円周の長さと96角形の内接多角形と外接多角形の外周の長さから、223/71 < π < 22/7 という式を導き出した。この計算に際して、Archimedesは不等式 265/153<√3<1351/780 を利用したという。
Archimedesは取り尽くし法を使い、他にも以下のような結果を得ている。
1。直線と放物線に囲まれた部分の面積は、その直線の線分を底辺として放物線に内接して高さが最大の三角形の面積の4/3である。 (図「放物線の面積」参照)
2。楕円の面積は、その長軸と短軸と同じ長さの辺で囲まれる長方形の面積に比例する。
3。球の体積は、底面の円がその球の半径と等しく、高さも球の半径と等しい円錐の体積の4倍である。(図「球の求積」参照)
4。高さと直径が等しい円柱の体積は、同じ直径の球の体積の3/2である。 (図「球の求積」参照)
5。螺旋と直線で囲まれた部分の面積は、その線分と同じ直径の円の面積の1/3である。 (前述:昨日のブログ)
Archimedesは取り尽くし法を幾何級数の評価にも利用したという。
Eukleides(エウクレイデス、英語: Euclid《ユークリッド》)は『原論』第12巻で取り尽くし法を用いて以下の6個の命題を証明している。
命題2:円の面積は直径の2乗に比例する。
命題5:相等しい高さの三角錐の体積は互いに底面の三角形の面積に比例する。
命題10:円錐の体積は同じ底面と同じ高さを持つ円柱の体積の3分の1である。
命題11:同じ高さの円錐または円柱の体積はそれぞれ互いに底面の面積に比例する。
命題12:相似な円錐または円柱の体積はそれぞれ互いに底面の直径の3乗に比例する。
命題18:球の体積は直径の3乗に比例する。
Archimedesは、取り尽くし法を使って円の面積を計算した。円に多角形を内接させ、その多角形の辺の数を増やしていったのである。この多角形の面積を円の半径を1辺とする正方形の面積で割ると、その商は辺の数を増やすにつれてπに近づく。このことから半径 r の円の面積が πr² であることを証明し、πは円周と直径の比率と定義した。付随して、①円の面積とその直径上に作った正方形の面積の比は 11:14 であり、円周の長さと96角形の内接多角形と外接多角形の外周の長さから、223/71 < π < 22/7 という式を導き出した。この計算に際して、Archimedesは不等式 265/153<√3<1351/780 を利用したという。
Archimedesは取り尽くし法を使い、他にも以下のような結果を得ている。
1。直線と放物線に囲まれた部分の面積は、その直線の線分を底辺として放物線に内接して高さが最大の三角形の面積の4/3である。 (図「放物線の面積」参照)
2。楕円の面積は、その長軸と短軸と同じ長さの辺で囲まれる長方形の面積に比例する。
3。球の体積は、底面の円がその球の半径と等しく、高さも球の半径と等しい円錐の体積の4倍である。(図「球の求積」参照)
4。高さと直径が等しい円柱の体積は、同じ直径の球の体積の3/2である。 (図「球の求積」参照)
5。螺旋と直線で囲まれた部分の面積は、その線分と同じ直径の円の面積の1/3である。 (前述:昨日のブログ)
Archimedesは取り尽くし法を幾何級数の評価にも利用したという。
Archimedes(アルキメデス)の螺旋〔Archimedes' spiral〕は極座標の方程式 r=aθ によって表される曲線である。等間隔の渦巻きである。 aが負の場合も含めると、y軸に対して線対称となる。
われわれの身の回りには、蚊取り線香やデンデン虫の殻、鳴戸巻きカマボコの渦など、様々な螺旋がある。Archimedesの螺旋というのはいちばん一般的な螺旋である。数学的にはつぎのようにして作られる螺旋である。
<平面上で、その端の点Oのまわりに半直線 ℓ が定速で回転するとき、ℓ 上を点Oから等速で遠ざかっていく点Pの動いたあと。>
一定速度ω[rad/s]で回転する円盤上を点Pが中心から半径方向へ一定速度v [m/s]で移動する場合を想定する。このとき、円盤の外から眺めた点Pの軌跡はどう表されるであろうか。円盤の回転角はθ=ωt [rad]であり、そのとき点Pは円盤の中心からvt [m]だけ移動している。従って、円盤の中心Oから点Pまでの距離r [m]と回転角θの関係は、vとωの比をaとして式(1.1)で表される。(左図)
この曲線は、原点Oから点Pまでの距離r が位相角θに比例する曲線で、spiral of Archimedes〔アルキメデスの螺線〕と呼ばれている。
アルキメデス螺旋について、「動径が1回転して通過する図形の面積(左図の青い部分)は、1回転目の動径を半径とする円の面積の3分の1である」という興味ある事実がある。
われわれの身の回りには、蚊取り線香やデンデン虫の殻、鳴戸巻きカマボコの渦など、様々な螺旋がある。Archimedesの螺旋というのはいちばん一般的な螺旋である。数学的にはつぎのようにして作られる螺旋である。
<平面上で、その端の点Oのまわりに半直線 ℓ が定速で回転するとき、ℓ 上を点Oから等速で遠ざかっていく点Pの動いたあと。>
一定速度ω[rad/s]で回転する円盤上を点Pが中心から半径方向へ一定速度v [m/s]で移動する場合を想定する。このとき、円盤の外から眺めた点Pの軌跡はどう表されるであろうか。円盤の回転角はθ=ωt [rad]であり、そのとき点Pは円盤の中心からvt [m]だけ移動している。従って、円盤の中心Oから点Pまでの距離r [m]と回転角θの関係は、vとωの比をaとして式(1.1)で表される。(左図)
この曲線は、原点Oから点Pまでの距離r が位相角θに比例する曲線で、spiral of Archimedes〔アルキメデスの螺線〕と呼ばれている。
アルキメデス螺旋について、「動径が1回転して通過する図形の面積(左図の青い部分)は、1回転目の動径を半径とする円の面積の3分の1である」という興味ある事実がある。
Archimedes(アルキメデス)は幾何学よりも計算の方に興味をもった。その一つの例として、円周率の計算がある。
彼は『円と計測』という著書の中で、円周率が3と1/7(3.142…)より小さく、3と10/71(3.140…)より大きいことを理論的に証明している。
古代から円周率を求めることに多くの人々が関心を示していたようで、紀元前2000年頃から、バビロニアでは円周率がだいたい3であることが知られていた。また、エジプトのなわばり師たちは縄を使って地面に大きな円を描き、円周の長さが直径の縄のいくつ分あるかを求めた。そして、3つ分とれて半端がでた。そこで、その半端で直径を測って大体7つ分とれることがわかった。このようにして、円周率は大体 3と1/7 であることを知っていた。一方、ギリシアでは円についてずいぶん研究されていたが、「円の性質」とその証明が中心になっていて、円の面積など計量関係はあまり問題にされていなかったのである。よって、当時の状況から考えると、Archimedes(アルキメデス)の証明は驚くべきことである。彼は、円周率の値というものを正しく評価した最初の人であり、円周率の値を小数点以下第二桁「3.14」まで正しく求めた最初の人でもある。
それでは、一体どのような方法で円周率の値を求めたのだろうか。
まず、直径1の円に内接する正六角形と、円に外接する正六角形をかいて、この円の円周の長さは、これに内接する正六角形の周よりは長く、これに外接する正六角形の周よりは短いと考えた。(左図参照)
そしてこの図から出発して、次々とその辺の数を2倍にして、円に内接および外接する正十二角形、正二十四角形、正四十八角形、そしてついに正九十六角形をかき、この円の円周の長さは、これに内接する正九十六角形の周よりは長く、外接する正九十六角形の周よりは短いと考えた。こうしてついに、円周率πが、 3と1/7<π<3と10/71 すなわち 3.140…<π<3.142… という不等式を満たしていることを証明した。
ここに出てくる 3と1/7 すなわち 22/3 というπの近似値は、いまでもよく用いられている。この計算をするにあたって、Archimedes(アルキメデス)は √3 の計算や大きい数の開平計算にも取り組んだ。
このようにArchimedesの発想と粘り強さをもって、円周率の近似値3.14が求められた。ちなみに、Archimedesが活躍したこの時代には、0や小数の概念はまだ無かった。このなかでこれだけの発見をしたのは驚くべきことだある。
以来、世界中の多くの学者が同じ方法で、さらに辺の数を増やして、より多くの桁数のπの値を求めている。17世紀にドイツのLudolph van Ceulen(ルドルフ・ファン・コーレン、1539~1610年)が35桁まで求めたという記録が残っている。17世紀には微分積分の発見によってπを無限級数を使って計算する方法ができるようになった。そして近年、計算機の発達によってπの桁数は飛躍的に増加した。
彼は『円と計測』という著書の中で、円周率が3と1/7(3.142…)より小さく、3と10/71(3.140…)より大きいことを理論的に証明している。
古代から円周率を求めることに多くの人々が関心を示していたようで、紀元前2000年頃から、バビロニアでは円周率がだいたい3であることが知られていた。また、エジプトのなわばり師たちは縄を使って地面に大きな円を描き、円周の長さが直径の縄のいくつ分あるかを求めた。そして、3つ分とれて半端がでた。そこで、その半端で直径を測って大体7つ分とれることがわかった。このようにして、円周率は大体 3と1/7 であることを知っていた。一方、ギリシアでは円についてずいぶん研究されていたが、「円の性質」とその証明が中心になっていて、円の面積など計量関係はあまり問題にされていなかったのである。よって、当時の状況から考えると、Archimedes(アルキメデス)の証明は驚くべきことである。彼は、円周率の値というものを正しく評価した最初の人であり、円周率の値を小数点以下第二桁「3.14」まで正しく求めた最初の人でもある。
それでは、一体どのような方法で円周率の値を求めたのだろうか。
まず、直径1の円に内接する正六角形と、円に外接する正六角形をかいて、この円の円周の長さは、これに内接する正六角形の周よりは長く、これに外接する正六角形の周よりは短いと考えた。(左図参照)
そしてこの図から出発して、次々とその辺の数を2倍にして、円に内接および外接する正十二角形、正二十四角形、正四十八角形、そしてついに正九十六角形をかき、この円の円周の長さは、これに内接する正九十六角形の周よりは長く、外接する正九十六角形の周よりは短いと考えた。こうしてついに、円周率πが、 3と1/7<π<3と10/71 すなわち 3.140…<π<3.142… という不等式を満たしていることを証明した。
ここに出てくる 3と1/7 すなわち 22/3 というπの近似値は、いまでもよく用いられている。この計算をするにあたって、Archimedes(アルキメデス)は √3 の計算や大きい数の開平計算にも取り組んだ。
このようにArchimedesの発想と粘り強さをもって、円周率の近似値3.14が求められた。ちなみに、Archimedesが活躍したこの時代には、0や小数の概念はまだ無かった。このなかでこれだけの発見をしたのは驚くべきことだある。
以来、世界中の多くの学者が同じ方法で、さらに辺の数を増やして、より多くの桁数のπの値を求めている。17世紀にドイツのLudolph van Ceulen(ルドルフ・ファン・コーレン、1539~1610年)が35桁まで求めたという記録が残っている。17世紀には微分積分の発見によってπを無限級数を使って計算する方法ができるようになった。そして近年、計算機の発達によってπの桁数は飛躍的に増加した。
Archimedes(アルキメデス)の原理は、Archimedesが発見した物理学の法則で、「流体中の物体は、その物体が押しのけた流体の重さ(重力)と同じ大きさの浮力を受ける」(左図参照)というものである。
当時、ギリシア人の植民都市であったSiracusa(シラクサ)の僭主Hieron(ヒエロン)2世が金細工師に金を渡し、純金の王冠を作らせた。ところが、金細工師は金に混ぜ物をし、王から預かった金の一部を盗んだ、という噂が広まった。そこで、HieronはArchimedesに、王冠を壊さずに混ぜ物がしてあるかどうか調べるように命じた。Archimedesは困り果てたが、ある日、風呂に入ったところ、水が湯船から溢れるのを見て、その瞬間、Archimedesの原理のヒントを発見したと言われる。このとき、浴場から飛び出たArchimedesは「Eureka〔ヘウレーカ、分ったぞ〕、Eureka!」と叫びながら裸で走っていったという伝説も残っている(もっとも、この時代のギリシアでは、男性は裸で運動するのが普通で、streaker(ストリーカー)で外を走っていても別に珍しくはなかったのだろう)。
Archimedes(アルキメデス)は、金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、これと王冠を天秤棒に吊るしてバランスを取り、水を張った容器に入れた。空気中では天秤棒は、てこの原理によりバランスが保たれている。てこの原理は水中でも変わらないので、金塊と王冠を水中に沈めても、天秤棒のバランスは保たれるはずである。しかし、水中でのバランスが崩れたために、王冠と金塊の比重が違うということが判明し、金細工師の不正が明らかになった。これがArchimedesの発見した浮力の原理である。金細工師の名は知られていないが、その後死刑になったと伝えられる。
Archimedesとその後の学者たちは、この法則が自然科学的な法則であるとは気付かず、数学的な原理であると考えた。そのため、次の科学法則であるケプラーの法則が発見されるまでは、1800年もの時間がかかったのだという。
Archimedesが発見した原理は浮力の原理なのだが、王冠のエピソードによって、物質による密度の違いを説明する際に引き合いに出される場合がある。
当時、ギリシア人の植民都市であったSiracusa(シラクサ)の僭主Hieron(ヒエロン)2世が金細工師に金を渡し、純金の王冠を作らせた。ところが、金細工師は金に混ぜ物をし、王から預かった金の一部を盗んだ、という噂が広まった。そこで、HieronはArchimedesに、王冠を壊さずに混ぜ物がしてあるかどうか調べるように命じた。Archimedesは困り果てたが、ある日、風呂に入ったところ、水が湯船から溢れるのを見て、その瞬間、Archimedesの原理のヒントを発見したと言われる。このとき、浴場から飛び出たArchimedesは「Eureka〔ヘウレーカ、分ったぞ〕、Eureka!」と叫びながら裸で走っていったという伝説も残っている(もっとも、この時代のギリシアでは、男性は裸で運動するのが普通で、streaker(ストリーカー)で外を走っていても別に珍しくはなかったのだろう)。
Archimedes(アルキメデス)は、金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、これと王冠を天秤棒に吊るしてバランスを取り、水を張った容器に入れた。空気中では天秤棒は、てこの原理によりバランスが保たれている。てこの原理は水中でも変わらないので、金塊と王冠を水中に沈めても、天秤棒のバランスは保たれるはずである。しかし、水中でのバランスが崩れたために、王冠と金塊の比重が違うということが判明し、金細工師の不正が明らかになった。これがArchimedesの発見した浮力の原理である。金細工師の名は知られていないが、その後死刑になったと伝えられる。
Archimedesとその後の学者たちは、この法則が自然科学的な法則であるとは気付かず、数学的な原理であると考えた。そのため、次の科学法則であるケプラーの法則が発見されるまでは、1800年もの時間がかかったのだという。
Archimedesが発見した原理は浮力の原理なのだが、王冠のエピソードによって、物質による密度の違いを説明する際に引き合いに出される場合がある。
Archimedes〔アルキメデス、BC287~212年〕は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者である。彼の生涯は全容を掴めていないが、古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察ではてこの本質を説明した。「われに支点をあたえよ。しからば地球を動かせて見せよう」というのは、彼の自信に満ちた言葉として伝えられている。彼は実際面と理論面の両方に興味をもち、さまざまな機械の発明に異常な能力を発揮した(左図「アルキメデスの発明品」参照)。また、数々の武器を考案したことでも知られる。
一般には、Archimedes(アルキメデス)は史上まれな偉大なる古代の数学者という評価を受けている。級数を用いて放物線の面積を求める取り尽くし法、円周率の近似値計算、彼の名で「アルキメデスの螺旋」とも呼ばれる代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。
Archimedes(アルキメデス)は、シシリー島で生まれた。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者Phidias(ペイディアス)と告げている。Plutarchus(プルタルコス、 46年から48年~127年頃、帝政ローマのギリシア人著述家)は著書『対比列伝』で、Siracusa(シラクサ)を統治していたHieron(ヒエロン)2世の縁者だったと記している。Archimedes(アルキメデス)の伝記は友人でもあるHeraclides〔ヘラクレイデス 、BC387~312年、古代ギリシャの哲学者〕が書き残しているが、これは失われてしまい細部は伝わっていない。例えば、彼は結婚したのか、子供はいたのかなど全くわからない。若い頃Archimedes(アルキメデス)は、Samos(サモス)のConon〔コノン、BC280?~220年頃、天文学者であり数学者〕やEratosthenes〔エラトステネス、BC275~194年、ヘレニズム時代のエジプトで活躍した数学者〕がいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。ArchimedesはSamos(サモス)のConon〔コノン、BC280?~220?年頃〕を友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはEratosthenes(エラトステネス)に宛てた序文があるという。
Archimedes(アルキメデス)は紀元前212年、第二次ポエニ戦争のさ中にローマの将軍Marcus Claudius Marcellus〔マルクス・クラウディウス・マルケッルス、BC268~208年、共和政ローマ期の軍人、政治家。第二次ポエニ戦争でHannibal《ハンニバル、BC247~183or182年、カルタゴの将軍》に対して果敢に戦闘を仕掛け「ローマの剣」と称された〕が率いる軍隊が2年間の攻城戦を経てSiracusa(シラクサ)を占領した年に死んだ。Plutarchus〔プルタルコス〕は、帝政ローマのギリシア人著述家が記した俗説によると、まさに街が占拠された時Archimedes(アルキメデス)は砂の上に描いた数学図形について熟考していた。ローマの兵士はArchimedesをMarcellus(マルケッルス)の元へ連行するよう命令を受けていたが、Archimedesは思案中だとこれを拒絶した。これに兵士は激昂し、剣をもって彼を殺した(左図「シラクサイのアルキメデス」参照)。Plutarchus(プルタルコス)は、この殺害は連行される前の出来事だった可能性も示唆しており、この逸話によると、Archimedes(アルキメデス)は製図器械を運んでいたところ、これを金目のものと見た兵士によって殺されたという。Marcellus(マルケッルス)将軍はArchimedes(アルキメデス)を有能な科学者と知っていたため危害を加えないよう指令を出していたにも関わらず、殺害されたという知らせに激怒したと伝わる。
Archimedes(アルキメデス)の最期の言葉は「私の図形をこわさないでくれ(私の円を踏むな)」(羅: Noli(ノーリー)(君は)~してはならない. turbare(トゥルバーレ)乱すことを. circulos meos(キルクロース・メオース)私の円を.、英: Do not disturb my circles)と伝えられる。これは、兵士が踏み込んだ際にArchimedes(アルキメデス)は円の図を描いて数学的思索を巡らしている最中だったためである。しかし、この言い伝えには証拠は無く、Plutarchus(プルタルコス)の記述の中にも見出せないという。
Archimedes(アルキメデス)の墓は彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた(左図参照)。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家Marcus Tullius Cicero〔マルクス・トゥッリウス・キケロ、BC106~3年、共和政ローマ期の政治家、文筆家、哲学者〕がQuaestor〔クァエストル、財務官〕としてシチリアに勤めていた頃、Archimedes(アルキメデス)の墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にSiracusa(シラクサ)のAgrigentine(アグリゲンティア)門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。Cicero(キケロ)が墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになったという。
評価が定まったArchimedes(アルキメデス)の人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録された。Siracusa(シラクサ)攻囲を記したPolybius〔ポリュビオス、BC204?~125年?、古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家〕の『Universal History 』(普遍史)には70年前のArchimedes(アルキメデス)の死が記されており、これはPlutarchus(プルタルコス)やTitus Livius〔ティトゥス・リウィウス、BC59?~AD17年、共和政末期、帝政初期の古代ローマの歴史家〕が出典に利用している。この書ではArchimedes(アルキメデス)にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。
アラビアの史料に拠るとArchimedesは他にも沢山の著作をしたという。例えば天文学上の著作として『天球技の作り方』、力学の著作として『テコについて』、『支点の研究』などがあったらしいが、今は残っていないという。
Archimedesの数学上の大きな特徴は2つあるという。まず、第一にEukleides(エウクレイデス、英語: Euclid(ユークリッド)、BC3世紀頃の人)との大きな違いは、Eukleides(エウクレイデス)が運動、変化、連続などの概念を数学の中で極力排除試用としたのに対して、Archimedesはこれらの概念を積極的に取り入れたことである。このために、Archimedesは曲線や曲面で囲まれた部分の体積や面積、接線や極値の問題、微小三角形などを体系的に研究することが出来た。
第2にArchimedesは数学を実際問題に応用し、πの近似値に見られるように、計算数学に注目し、計算数学を発展させようとしたことである。数学上の定理を見つけるためにArchimedesの用いた力学的方法は、難しい問題を解く時、極めて有力な方法となった。例えば、18世紀にDaniel Bernoulli〔ダニエル・ベルヌーイ, 1700~1782年、スイスの数学者・物理学者〕は物理・力学的判断から弦の振動方程式の一般解を発見したのだという。
淺草は昨日・今日と「お富士さん」。淺草では昔から「お富士さん」と呼ばれて親しまれている植木市である。/毎年、5月末と6月1日 及び、6月末日と7月1日 という日程で行われてたが、交通事情により、現在は、5月と6月の末の土日にかけて行われるようになった。/「お富士さん」とは、浅草神社の下社である浅間神社のことで、富士山信仰の盛んだった江戸時代の頃に創建されたと言われている。/以前は、夏の訪れを告げる市として、地元でとても親しまれていて、市の規模も大きく、早朝から深夜まで賑わったものである。現在は、住宅事情の様変わりで、新築の家には、庭も植木をおけるスペースも無くなってしまい、ミニ盆栽のような小さな鉢が少し売られているだけの小じんまりしたものになってしまったようである。
昨夜は、隅田側の吾妻橋~桜橋間で、昨年に引き続いて東京ホタルが放たれた。人ごみが嫌いな爺はすっかり出不精になり、婆様だけで川っぷちまで見学に行ったらしい。
今朝は4時前に山谷堀の水門まで出ると、水門脇に昨日の残滓か?まだ薄暗い川面に青白く光っている玉が2つほど見えた。携帯で写真に収めてみたが、後で見るとぶれてしまって使い物にならない。
桜橋から墨田区側をテラス沿いに南下、厩橋を渡って、テラス沿いに吾妻橋まで北上。隅田公園に入ると花川戸からテラスに降りて、桜橋まで北上。早朝に見た玉は直径8~9cmで、水門の脇に固まって数十個浮かんでいた。最早光っているものはなく、囲み浮き袋の中で白く波に洗われ揺れていた。
いやはや、この玉は「いのりの星」と名付けられ、パナソニックが提供したLED〔Light(光を)Emission (放射する)Diode(ダイオード)〕発光ダイオード球ということであるが、水面から1つ拾い上げ裏面を見るとmade in China とあった。中央で、上下に別れ中にダイオード電池が十字ビスで納められているものであった。ふと、この玉、記念に1つ戴いて持ち帰ろうかとも思ったが、いやいや来年も使用するとのこと、そっと、元の水面に戻しておいた。
今朝の朝日新聞の「川の手」欄の記事に曰く、
ホタルが染める隅田川 スカイツリーと競演 東京 ―― 隅田川に25日よる、青い光を放つ「ホタル」が出現した。/光の正体は、「いのり星」と名付けられた直径約10センチのプラスチック製のLED「発光ダイオード」球。(東京を世界に誇れる美しい都市へ」との願いを込め、墨田、台東両区などでつくる実行委員会が主催した。/午後7時過ぎ、約10万この光の玉が流されると、川面に揺られながら帯状に広がった。訪れた人は、ライトアップされた東京スカイツリーとの競演を楽しんだ。〔朝日新聞 2013年5月26日〕
新聞の写真はモノクロ写真であったので、インターネットから、「無断掲載禁止」とあったが、内緒で頂戴してここに入れた。
昨夜は、隅田側の吾妻橋~桜橋間で、昨年に引き続いて東京ホタルが放たれた。人ごみが嫌いな爺はすっかり出不精になり、婆様だけで川っぷちまで見学に行ったらしい。
今朝は4時前に山谷堀の水門まで出ると、水門脇に昨日の残滓か?まだ薄暗い川面に青白く光っている玉が2つほど見えた。携帯で写真に収めてみたが、後で見るとぶれてしまって使い物にならない。
桜橋から墨田区側をテラス沿いに南下、厩橋を渡って、テラス沿いに吾妻橋まで北上。隅田公園に入ると花川戸からテラスに降りて、桜橋まで北上。早朝に見た玉は直径8~9cmで、水門の脇に固まって数十個浮かんでいた。最早光っているものはなく、囲み浮き袋の中で白く波に洗われ揺れていた。
いやはや、この玉は「いのりの星」と名付けられ、パナソニックが提供したLED〔Light(光を)Emission (放射する)Diode(ダイオード)〕発光ダイオード球ということであるが、水面から1つ拾い上げ裏面を見るとmade in China とあった。中央で、上下に別れ中にダイオード電池が十字ビスで納められているものであった。ふと、この玉、記念に1つ戴いて持ち帰ろうかとも思ったが、いやいや来年も使用するとのこと、そっと、元の水面に戻しておいた。
今朝の朝日新聞の「川の手」欄の記事に曰く、
ホタルが染める隅田川 スカイツリーと競演 東京 ―― 隅田川に25日よる、青い光を放つ「ホタル」が出現した。/光の正体は、「いのり星」と名付けられた直径約10センチのプラスチック製のLED「発光ダイオード」球。(東京を世界に誇れる美しい都市へ」との願いを込め、墨田、台東両区などでつくる実行委員会が主催した。/午後7時過ぎ、約10万この光の玉が流されると、川面に揺られながら帯状に広がった。訪れた人は、ライトアップされた東京スカイツリーとの競演を楽しんだ。〔朝日新聞 2013年5月26日〕
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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