G20に初参加した英国のメイ首相は、EU主要国や大英帝国時代に支配したインドの首相他の首脳たちと会談し、それなりの存在感を示していたようです。世界の元首・首長に“女性時代”の到来がきたようです。
国連常任理事国では、英国のメイ首相(2016)に次いで、米国初の女性大統領にクリントン氏が就任する可能性は高いといわれています。EUを牽引してきたドイツのメルケル首相(2005)以降では、ブラジルのルセフ大統領、パク・クネ(朴槿恵)韓国大統領(2013)、2014年にマルタのコレイロプレカ大統領、バングラデシュのワセド首相、2015年はモーリシャス大統領、ノルウエーとポーランドの首相、ミャンマーのスーチー国家最高顧問が就任しました。今年は、リトワニア大統領、英国首相が、国家元首として女性リーダーの時代を築きつつあります。国連機関や世界銀行・FRBなどの独立組織の首長で活躍している女性も少なくありません。
嘗ては日本にも飛鳥時代から奈良時代にかけて女帝時代がありました。最近では東京都知事小池百合子が都民・国民の耳目を集めているようですが、“戦後強くなったのは女と靴下”と、男性に揶揄された女性社会進出をマッカーサーの占領政策のせいにする向きが後を絶たないのは未だに「男社会」が健在である証拠です。これが今の日本の現状です。
昨日の朝日新聞(文化の扉)のページに「古代日本女帝の時代」が取り上げられていましたので、転写しておきます。
(文化の扉)古代日本、女帝の時代 男系社会の行き詰まり打開 ―― かつての日本には、女性が政治の権力を握っていた「女帝」の時代があった。しかも、彼女たちは特定の時期にかたまって現れていたという。それは、どのような時代だったのだろう。
7、8世紀は「女帝の世紀」といわれる。この間、6人の女性天皇が登場したからだ。当時の天皇は政治を取り仕切る権力者。8世紀の「養老律令」にある継嗣(けいし)令には女性天皇を「女帝」と記述している。
6人の最初に登場した推古天皇は崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子に殺害されるという異常事態の直後に即位。その後の女帝たちの即位も、皇位継承に伴って起きる有力氏族の対立を和らげるためだったとされる。そのため、女帝の存在を皇位の「中継ぎ」とみる見方もある一方、数々の業績から政治力も経済力も備えていたとの見解もある。
瀧浪(たきなみ)貞子・京都女子大学名誉教授は「皇太子を決めないまま天皇が没するなどしたときに必要とされた女帝は男系社会での緩衝材で、もしいなければ混乱は増していた」と指摘する。「中国や朝鮮半島より早く誕生した日本の女帝は古代日本に根ざした存在。国史の編纂(へんさん)や遷都など文化的に果たした役割は大きい」
平安時代になると、皇太子制度が整備されて次期天皇が明確化されたことなどにより女帝はみられなくなり、その後、政治の実権は武士に移っていった。
*
3世紀には女王もいた。卑弥呼だ。だが、ほかに多くの女性首長がいたことも近年わかってきた。
岡山大学の清家(せいけ)章教授は、墳丘墓に残された人骨や、副葬品の種類とその配置を調べることで被葬者が男性か女性かを判別した。弥生中期までは首長として葬られた女性はいなかったが、弥生後期には女性の被葬者が現れ始めた。古墳前期に入るとその傾向は強まり、全国の首長のうち3~5割が女性とみられるという。
この時期は戦争や争乱を推察させる資料が比較的少ない。政治、祭祀(さいし)、軍事といった首長に求められる素養のうち、男性優位の軍事への期待が低くなったためと考えられる。「女性首長が一般的な存在になる時期に登場した卑弥呼とその後の台与(とよ)は特異な存在ではなく、女王が受け入れられやすい素地があった」と清家教授は話す。
清家教授は一方で、卑弥呼の優位性についても言及する。「本来であれば、父系社会の中国王朝に対して男王が外交にあたる必要があったし、海外諸国と衝突が起こることを考えて王には軍事的な能力も求められた。そうした不利益があっても女王に共立されたのは卑弥呼の政治や祭祀に関する能力が高かったからだろう」
古墳中期になると、首長として葬られる女性が消え、男性だけになる。男王を基本としながら一時的に首長層の女性の地位が上がった時代があったという清家教授の研究結果。これは、邪馬台国がかつて男王を立て、卑弥呼を経て、再び男王を立てたとする魏志倭人伝の記述にも沿う。
政治的背景や社会的背景と個人の能力が相備わって、女帝や女王は君臨しえたといえる。
■ 女性は言葉で、男性は戦で 脳科学者・中野信子さん
女性は脳の「言語野」の容量が男性より大きく、言語能力が高い。男性が1日あたり7千の単語を話すのに対して、女性は2万を超えるという研究結果があります。女性は言語的存在であり、言葉を使って大衆を束ねるリーダーに向いていると言えます。
ただ、過去の指導者には言葉よりも戦(いくさ)での能力が求められる傾向がありました。その点では男性が有利です。男性は脳の「頭頂連合野」が女性より発達していて空間認知能力が高いので、戦場での陣形や地形を把握するのが得意だからです。これは地図を逆から読めるかなどを検証する実験結果からも男女の差が明らかになっています。
今後、女性の得意な言語能力がより求められる世界になれば、日本にも女性トップが現れる可能性があります。実際、海外で女性首相が増え、外交の場で女性同士が議論する場が増えています。 (朝日新聞DIGITAL 2016年9月25日05時00分)
昨日のブログで、海海海海海・烏烏烏烏烏・木木木木木木木木木木木は何と読むかと尋ねましたね。
まず、海という字は今の音訓表では カイ・うみ の一音一訓しかありませんが、昔のように宛字を使えば 海女(あま)の「あ」、以下 海豚(いるか)、海胆(うに)、海老(えび)、海髪(おご)と読ませることができます。すなわち、海五文字で 海海海海海=あいうえお と読むことが出来ます。
同じように 烏乎(あゝ)、烏賊(いか)、烏合(うごう)の衆、烏帽子(えぼし)、烏滸(おこ)がましい などと読めますので、 烏烏烏烏烏=あいうえお と読めるのです。
さて、「木」を十一字並べた語は、木防己(つづらふじ)、木天蓼(またたび)、木枯(こがらし)、木菟(ずく)、木賊(とくさ)、木綿(もめん)、木(き)、木乃伊(ミイラ)、木半夏(なつぐみ)、木瓜(かりん・ぼけ) から、
木木木木木木木木木木木=妻来ずとも君鳴かず と読めるというのです。
しかし、宛字というのは、例えば「海女」はあくまでも 海と女の二字で「あま」と読むのであって、海を「あ」と読み、女を「ま」と読むのではありません。「木防巳」「木天蓼」「木半夏」などに至ってはこれらの「木」を「つ、ま、な」と読ますのですから、何をかいわんやです。
漢字や漢文から仮名や日本文を創造した先祖の苦しみを思えば、当用漢字制定によって漢字の枠が設けられたと嘆くふしもあります。例えば、颱風(タイフウ)を「台風」と書いたのでは意味を成しません。漢字は表意文字で見て意味が判るところに重要な面があるのです。とはいえ、颱風はもともと typhoon の宛字なのです。
「鯨」のように漢字からは誤った概念を受け取ってしまう恐れもあります。鯨は魚類ではありません。「虹」や「偽」も漢字からは古臭い原始時代の思想を学び取るだけです。虹は虫の一種と考えるよりも、rsin-bow(雨の弓)と読んだり「天のかけ橋」と名付けた方が、科学的でロマンチックではありませんか。ノーベル賞ものの「人の為した業績も」漢字にかかれば「偽(いつわり)」と言われかねないのです。
鯨が私達人間の仲間の哺乳類であると断じ、虹が水と光がおりなす化学現象であると理解するところに文化的で近代的な人間生活があるのです。生活表現としての言葉もこのようにあってこそ本来の役割がつとまるのでしょうね。
昨夕、大分市在住のHM氏より携帯にメールが入りました。曰く、
2016年9月24日20時37分着信 題:Mです
日高様 先日はFAXでのお便りありがとうございました。私がメールは全然ダメですので、今娘にこのメールを打ってもらっています。年は取りたくないものですが、お互いに仕方の無い事ですね。また、FAXでお便りします。 HM
13世紀前半に書かれたという説話集の『宇治拾遺物語』に次のような件(くだり)があります。
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、無悪善と書きたりけり。帝、篁に、「よめ。」と仰せられたりければ、
「よみはよみ候ひなん。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ。」と奏しければ、「ただ申せ。」と、たびたび仰せられければ、「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば、君を呪ひ参らせて候ふなり。」と申しければ、
「これは、おのれ放ちては、誰か書かん。」と仰せられければ、「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ。」と申すに、
帝、「さて、何も書きたらんものは、よみてんや。」と、仰せられければ、
「何にても、よみ候ひなん」と申しければ、片仮名の子文字を十二書かせ給ひて、「よめ。」と仰せられければ、
「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし。」とよみたりければ、帝ほほ笑ませ給ひて、事なくてやみにけり。
訳) 今となっては昔のことですが、小野篁という人がいらっしゃいました。嵯峨天皇の時代に、(誰かが)宮廷に札を立てたのですが、(そこには)無悪善と書いてありました。天皇は篁に「(立て札を)読みなさい。」とおっしゃったところ、
(篁は)「読むことは読みましょう。しかし、恐れ多いことですので、申し上げることはできません。」と(天皇に)申し上げたので(天皇は)「とにかく読みなさい。」とたびたびおっしゃったので(篁が、)「性(嵯峨天皇の嵯峨とかけている)がなくてよいと申しております。つまり、あなた様を呪い申し上げているのです。」と申し上げると、
(天皇が)「(札の内容がわかるのだから)これはお前以外に、誰が書くというのだろうか。」とおっしゃったので、
(篁は)「だからこそ(犯人と疑われるからこそ)、(読めるけどその内容は)申し上げまいと申しておりましたのに。」と申し上げると、帝が、「それでは、何でも書いてあるものは、きっと読めるのか。」とおっしゃったので
(篁は)、「なんでも、きっと読みましょう。」と申し上げたところ、(天皇は)片仮名の子の文字を十二個お書きになって、「読んでみろ。」とおっしゃったので
(それを見た篁が)、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子。」と読んだところ、帝は微笑まれて、お咎めがないまま(この件は)終わりになりました。
「さが」は、生れつきの性であって、善悪のどちらにも通じます。易林本『節用集』(室町時代から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種)に、「無レ悪」を「サガナシ」と読んでいるそうです。ここでも、「悪(さが)なし」と読んで、「嵯峨なし」に掛けているのです。
福井県三方上中(みかたかみなか)郡若狭町には、「無悪(さかなし)」という地名があって、小野篁(たかむら)に由来すると言われています。嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐へ流罪となった小野篁は、隠岐から帰郷中に暴風に遭って小浜に漂着、そこから三年間、無悪で過ごしたと言います。地元の人から愛され人望があった小野篁は、当時嵯峨天皇が在位していなかったら無罪だったろうという意味で、この地が「さかなし」と名付けられたというのです。
古来漢字は一字に多くの音・訓があり、名乗り字や宛字があって「生」などは150通り以上あって正確な所はよく判らないほどです。
「子」の字にしても、接尾語に用いるものだけでも、冊子、杏子、様子、餃子、面子どれも読み方が違います。
皆さんは、「海海海海海」(海五文字)「烏烏烏烏烏」(烏五文字)さらに「木木木木木木木木木木木」(木十一文字)を讀めますか。
昨日に続いて、今朝も早朝から雨模様です。
昨日の爺のブログを見て思いついたのでしょうか。篠山の姪から、メールが入りました。曰く、
2016年9月22日17時14分着信 題:彼岸について
今日は朝から雨で、家にじっとしております。
おはぎも食べず、今日も暮れゆく…。
さて、お彼岸がなぜ日本だけの風習かを考えると、やはり「太陽の道」を尊ぶ古代の風習があったせいかと思われます。
それと
【日想観】〘仏〙 西に沈む太陽を見て,その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で,観無量寿経に記される。
日想観修行の最古の例は延暦6年(787年)に行った真言宗の祖・空海とされる
などが、結び付いたかと。
以前、そんなNHKの番組を見て気になっていたので、調べた結果、折口信夫の文章に行き当たりました。
ご存知かもしれませんんが、コピペしておきます。
篠山には、日置という地名があり、日置さんという名字もあります。「日高」という名字も、古代信仰に由来するかもしれませんね。
ではまた。 Chisato
参考資料 青空文庫よりコピペ
「山越しの阿弥陀像の画因」折口信夫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/45498_26150.html
(前略)
昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ひまつり)をする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。
そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)
又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還って来る。
これを日の伴(ひのとも)と謂っている。
宮津辺では、日天様(にってんさま)の御伴と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う。
こうある。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行の様なことをした。又現に、してもいるのである。
(中略)
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代御代の尊い御方に、近侍した舎人たちが、その御宇御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播した。
此が、日奉部(ひまつりべ又、日祀部)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。
この事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。後代算盤の上で、ある数にあたる珠を定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。
源為憲の「口遊(くゆう)」に、「術に曰はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法である。
置くが日を計ることに関聯していることは、略、疑いはないようである。ただ「おく」なる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否む訣には行かぬ。
既に述べた「日の伴」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、凡考えていてよかう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠りの風である。此は専ら、五月の早処女となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。
だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。
一方にこうした日かげを追う風の、早く埋没した俤を、ほのか乍らわせているというものである。
暑さ寒さも彼岸までと言いますが、ここ二三日ずい分涼しくなりました。このまま涼しい日が続くと良いのですがね。
今日は彼岸の中日です。
彼岸という言葉は仏教用語からできたもので、梵語〔ぼんご〕「波羅密多〔はらみた〕」の訳だと言われています。正しくは到彼岸〔とうひがん〕、つまり生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻〔しょうじりんね〕)である此岸(この世)を離れて苦しみの無い安楽(涅槃常楽〔ねはんじょうらく〕)な彼岸に至るという意味です。その内容にも仏教の影響が多く見られますが、他の仏教国には無い日本固有の信仰のようです。
延暦二十五年(806年)の2月の記録に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』を崇道(すどう)天皇のために転読させた(日本後紀)」とあり、これが日本の歴史上最初の彼岸法要の記録だそうです。崇道天皇とは、桓武天皇が弟の早良親王に贈った諡号です。
その後政権を争う戦いが長く続き、その不安から人々の間で“1052年に仏の教えが消滅してしまう”という「末法思想」が広まり、社会現象になり始めました。信者達は、現世で報われないのなら、せめて死んでから極楽浄土へいけるようにとすがるようになりました。初めは浄土宗の人たちだけの信仰だったようですが、あまりにも戦乱が長く続いたため一般の人にまで広がりました。
仏教の教えには、何でもほどほどが良いという「中道」という考え方があるようで、その考えと合致して出来たのが「彼岸」だといわれています。春分と秋分の日は昼夜の長さが同じになります。また、暑くも寒くもないほどほどの季節であり、 太陽が真西に沈む時期なので西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいという考えから、次第に人々の生活に浄土をしのぶ日、またあの世にいる祖先をしのぶ日として定着していったようです。
ところで、お彼岸に良く見られる「ぼたもち」と「おはぎ」は、餅米とアンコで作られた同じ食べ物ですが、食べる時期が異なる為、それぞれの季節の花を意識して名前が変えられているのです。
春の彼岸にお供えする場合は「牡丹餅」と書き、一般的には漉し餡を使用します。一方、秋にお供えする場合は萩〔はぎ〕の花を意識して「お萩」と呼ばれ、餡は粒餡を使用します。あずきは赤い色をしていて古くから邪気を払う効果がある食べ物として食べられており、それが先祖の供養と結びついたのでしょうね。
IN氏のメールにあった「ローマ法王庁の番兵は伝統的にスイスの傭兵」について調べてみました。
ご承知のようにバチカン市国は、イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家です。バチカンの統治者はローマ教皇でローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山なのだそうです。
バチカンでは、一切の軍事力は保持していませんので、スイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」によってまかなわれているんだそうです。
スイス人傭兵は宮殿の入り口とかの警護に当っているそうで、神聖ローマ皇帝カール5世の時、プロテスタントの軍隊がローマを荒らした際に、命を賭けて法王を守ったのがスイス傭兵だったことが今でもスイス人を傭兵に招く主な理由とされているようです。
スイス人衛兵の制服は膨らんでゆったりした上下に、オレンジと青の縦縞――。シェークスピア劇の衣装と見まがいそうな制服は、あのミケランジェロがデザインとも言われているそうですが、実際は1914年に制定されたものといいます。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵です。1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったといいます。
IN氏からメールが入りました。曰く、
2016年9月20日11時18分 題:鄭和、ご教示ありがとう
日高節夫様
早速、鄭和の海外遠征? ご教示御礼。
鄭和が先かコロンブスが先か、みたいな大航海時代の先駆け論は一時棚上げさせてください。
愚妻が数日前から、風邪を引き、咳込がひどく、寝込みました。小生、好むと好まざるとにかかわらず、炊事担当に当たります。君と同じ状態になったわけだ。
愚妻の回復次第、インド洋の何とかいう小さな島を米英が取っ替えっこした、話を書きます。IN
福岡市にいる甥のHaruki君からメールが入りました。曰く、
2016年9月20日13時11分着 題:石鎚山
節夫叔父上様。
道子叔母様のお身体の具合はいかがでしょうか。
徐々によくなってきているとのブログの記事を拝見して、安堵しています。近日中にお見舞いに上京したいと思っています。
9月18,19日の連休に、高校時代の友人と四国の石鎚山1982mに登ってきました。天候不順の中、なんとか山頂までたどり着くことができました。ちょうど50年前の小倉高校1年の夏、学校から希望者約70名と一緒に登りました。当時は若かったからでしょうか、あまり苦しかったという記憶はありません。今回、息は上がるし、両足はがたがたで、這いつくばるようにして頂上までたどり着きました。日ごろのトレーニング不足を反省しています。残念ながら見晴らしは悪かったのですが、西日本最高峰の山に登ったという満足感には浸ることができました。
ではまたお会いする日を楽しみにしています。
早速、返信メールを出しました。曰く、
2016年9月20日 15時19分発信 Re: 石鎚山
メールと添付の写真有難う。
道子の具合は少しずつですが、良い方に向かっているようです。やっとリハビリの先生付きですが、外にも出かけられるようになったようです。(添付写真参考)
今日は下関のKeisuke君が訪ねてくれました。(添付写真参考)
町田にいる伯母さんの事でここの所何回か上京しているようです。下関の親父・お袋の話を沢山聞かせてくれました。兄貴(Keisuke君の親父)も眼が見えない、耳が聞こえない、付き添いがないと外に出かけられないと言いながらも日曜日には教会で子供たち相手に遊んでいるようで、適当に息抜きしているようです。少し安心しました。
私も全快とはいかないまでも、まあまあ元気で過ごしています。
貴兄の上京を楽しみに待っています。 節夫
昨日は、『敬老の日』でした。自分が高齢者になってみると、別に敬ってなんぞ貰いたくもありません。でも、高齢者虐めはして貰いたくありません。
東京など首都圏1都3県で急増すると予想される高齢者を地方へ移す日本版CCRC構想が、本格的に動きだしました。全国263の地方自治体が受け入れの意向を示し、新潟県南魚沼市、山梨県都留市など本格的な受け入れ準備を進めるところも出ていると聞きます。
受け入れを進める自治体は高齢者が安心して暮らせる「生涯活躍のまち」の建設を地方創生に結びつけたい考えだが、都会の高齢者を地方へ押しつける「平成の姥捨て山」と批判する声も少なくありません。日本版CCRC構想は地方に何をもたらすのでしょうね。
※CCRC:「Continuing Care Retirement Community」の略で、直訳すると「継続的なケア付きの高齢者たちの共同体」。米国発祥で、高齢者が元気なうちに地方に移住して社会活動に参加し、介護や医療が必要になった場合もケアを受けて暮らし続けることができる。政府は昨年、有識者会議で「日本版CCRC」構想をまとめた。高齢者の地方移住を促すことで首都圏の人口集中の緩和と地方の活性化を目指す。 (2016-04-12 朝日新聞 朝刊 都区内・2地方)
横浜のIN氏からメールが入りました。曰く、
2016年9月18日 題:美術館長はトマス・ホーヴィング
日高節夫様
次なる台風16号が来ているとかで、天気が悪いね。
さて、先日、ローマ法王庁の番兵は伝統的にスイスの傭兵だということを書いたが、その筆が滑って、腹巻の話になったね。その美術館長の名前がメモから分かった。
トマス・ホーヴィング氏(1931-2009)元・メトロポリタン美術館長で、「名画狩り」(1989)(「ミイラにダンスを踊らせて」(1994)の著書のどちらかでよんだはず。「読書メモ」には載っていないから、いよいよもって私の曖昧な記憶かもね。
このホーヴィング氏は2009.12.10ガンで死去したとネット情報に出ていた。
昨夕より今朝にかけてかなりの雨です。いよいよ台風16号のご入来でしょうか。
ウェブニュースより
台風16号、鹿児島・大隅半島に上陸 暴風や大雨警戒 ―― 非常に強い台風16号は九州の南西海上を東寄りに進み、20日午前0時すぎ、鹿児島県・大隅半島に上陸した。今後は列島の太平洋側を東進し、21日には日本の東で温帯低気圧に変わる見込み。気象庁は暴風や高波、大雨に警戒するよう呼び掛けた。
レーダーの解析では、愛知県岡崎市内で19日夕、1時間に約110ミリ、鹿児島県枕崎市では深夜に120ミリ以上の猛烈な雨が降ったとみられ、気象庁は記録的短時間大雨情報を発表。宮崎県高鍋町でもこの地点の観測史上最大となる1時間に110.0ミリの雨を記録し、静岡県富士市では70.0ミリの非常に激しい雨が降った。枕崎市では20日未明、瞬間風速44.5メートルの非常に強い風が吹いた。
台風16号は20日午前0時現在、鹿児島県・佐多岬付近を時速30キロで東北東に進んだ。中心気圧は945ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートルで、中心から半径110キロ以内は暴風域となっている。
20日にかけて予想される最大瞬間風速は、九州南部60メートル、四国45メートル、九州北部と近畿、奄美35メートル、東海30メートル。波の高さは九州南部9メートル、四国と近畿7メートル、奄美と九州北部、東海6メートルと予想している。
21日午前0時までの24時間予想雨量は、いずれも多い所で四国と近畿300ミリ、九州と東海250ミリ、伊豆諸島200ミリ、北陸180ミリ、中国地方150ミリ、関東甲信120ミリ。 (日本經濟新聞 2016/9/20 1:52)
横浜のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2016年9月16日11時36分 Re: 中国の海外進出のヒント
日高節夫様
空〈飛行機)に関する質問全部、ご教示ありがとう。
門司中学の校庭に暁部隊が掘った防空壕を狙った飛行機は、偵察機であるはずもないから君の言うように、あれはグラマン戦闘機だろうね。いまでもあのプロペラの回る音が耳に残っているよ。異常な金属音という言葉がふさわしい音でした。
今月の下旬に、航空自衛隊に売り渡される(アメリカから引き渡される)予定のステルス戦闘機F35は、いまの航空自衛隊の戦闘機部隊の主力がいる百里基地でなく、宮崎県の新田原(ニュータバル)基地でもなくて、米軍のお膝元、三沢基地に置かれるらしい。書店に売っていない『選択』という月刊誌に載っていた。
さて「グレイ産業、やがては日の目を見る」論。
グレイ? 産業が表街道に出てくることは、よくあること。
まだ日本では傭兵はいないだろうが、フランスの外人部隊に入って一時的に大金を設けた青年の話はよく聞いた。
ローマ法王庁は昔から、番兵はスイスの傭兵だと聞いている。
蛇足だけれど、バチカンの傭兵は、腹巻をするのが決まりだと、有名なアメリカの美術館長の本で読んだことがある。理由は「バチカンの建物はすべて石造りで、その中で勤務するから、おなかを冷やす。下痢をするので、そこで傭兵には腹巻を支給していて、その規則に違反した者には罰を加える。美術館の職員も環境は同じだが、腹巻は支給しない」と書いてあった。
その出典を明らかにしようと思うのだけれど、過去の読書抜き書き帳では見つからない。だから私のホラ話と思ってくれていい。
会社勤めをしているときに、一度だけ、ラブホテルにたった一人で泊まったことがある。
新宿西口支店に勤務しているときで交通ゼネストのある前夜のこと。
職掌柄、責任者は是が非でも、店を開けなければならないという日の前夜。
新宿地区の普通のホテルはみんな満員札止め。同僚の総務課長さんが、高校時代の友人がラブホテルのマネージャーをしているから、そこでよければ取れます」と言ってくれて、歌舞伎町に近い、西武新宿線の新宿駅近くだった。
周囲に鏡を張り詰めた部屋に布団が敷いてあって、あとの設備はホテルとそう違わなかった。
私が用心したのは、性病が移らないように浴槽はご遠慮して、シャワーだけで汗を流せば、周りが鏡であろうとなんであろうと、ぐっすりと寝た。起きてみたらストは払暁に解決して、電車はふつう通りに動いていた。職場の近くのパン屋で朝食の菓子パンを食って、出勤した。その経験から行くと、ラブホテルだろうと、ノン・ラブホテルであろうと、機能は同じだと思った。
あのラブホテル代は、社費で払ってもらったが、いま観光庁が、ホテル不足に対処しようと、ラブホテルに目をつけたのも、30年も前にわたしが選んだ宿探しも同じような対処方法だと思うね。
それはそうと、どうして民進党だけは、村田蓮舫と戸籍通りの名前で登録しないで済んでいるのだろうね。蓮舫で選挙に出ることは、私で言えば Ituro だけで世の中を歩くようなものと違うのだろうか。蓮舫ちゃんには、姓はいらないのかな。
今の世の中のことはもうどうでもいいのだけれど、ここ十数年、隣りの国の中国が海洋開発に目覚めて、考古学の古い陳腐な手を使って、古い陶器を証拠に「ここは昔から中国の土地だ」という主張をするようになった。このヒントはどこにあったのか?
わたしは明代の鄭和の大航海がヒントになっているのではなかろうかと思っています。
鄭和は、明の永楽帝の時代に何回も大艦隊を率いて海外遠征を試みた宦官だけれど、彼が死んだあと、あまりにも膨大な予算を使い過ぎ、国費に莫大な負担を強いたので、同じ時代の官僚、劉大夏(1436-1516)が、鄭和の遠征記録を焼却して、後の皇帝が二度と海外に目を向けないようにしたという資料が出てきたのではあるまいかと勘ぐっているのです。
官僚としてはありそうなことですが、資料はなくっても、今の時代、昔よりもっと島の地政学上での価値は高まっていますから、所有権を主張するのには、鄭和がどこの島に行ったのかを明らかにできれば、インド洋やオセアニアの島が中国領になる可能性もあるのでしょう。
中国の古典に詳しい君なら、鄭和の秘密が解けるのではないでしょうか。
ご教示のお礼と、次なる質問? IN
昨日取り上げた五柳先生ではないが、「書を読むことを好めども、甚解を求めず」と言います。判る範囲で鄭和について調べてみました。
中国ではしばしば明朝時代の鄭和の大航海の再来になぞらえられています。鄭和は大艦隊を率いて計七回にわたって遠征を行ない、南シナ海からマレー海峡を経てインド洋にまで至りましたが、その間、沿岸の様々な諸国に寄港し、最終的には中近東やアフリカ東岸の諸国にまで赴いたといいます。中国では7月11日が「航海の日」と定められているそうです。その日は鄭和の記念すべき第一回目の大航海の出発日とされているといいます。
コロンブスがアメリカに上陸し、バスコ・ダ・ガマがインドに到着する1世紀近く以前に、中国の艦隊は何をしたのでしょう。
明朝の永楽帝は、世界の国々を探検し、貿易を行うために、大艦隊を送り出しました。永楽帝が航海の司令官として選んだのが、宦官の最高職の太監であった鄭和でした。 鄭和は、およそ30年(1405~33年)にわたって、7度の西方への航海にでますが、その規模と範囲は、前例のないものでした。大艦隊は、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾、そして、アフリカの東海岸にまで到達しました。これらの航海に使われた船は、考古学的な証拠によれば、全長が120メートルを超えており、コロンブスが大西洋を航海した船の何倍もの大きさだったといいます。これらの航海によって、明朝の力と富がいかんなく示されたのです。より重要なのは、これらの航海が、訪問国に長く続く影響を与えたということです。この地域のモスクには、鄭和と名付けられたものが数多くあり、鄭和の現地社会への貢献を讃えているといいます。
もし、歴史的な主張によって海洋の管轄権が決まるというのであれば、中国人は、600年前にこれらの海域を誰にも妨げられることなく航海した事実を指摘するでしょうね。
コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはありませんでした。
鄭和が航海をしていた当時、アジアではすでに活発に交易が行われていました。明朝には、物資は十分にあったと言われます。産業革命までは世界の基軸はアジアであり、生活水準もヨーロッパに比べ高かったことが判っています。これに対してヨーロッパは、海を渡って他国を侵略して食料や原料、市場を得なければ、自国の発展はありませんでした。自国の発展のために、さまざまな新しいものを持ち帰ったコロンブスと物質的に満たされていて新たなものを積極的には求めなかった鄭和の航海の目的の差が、歴史に与えた影響の差となっているのではないでしょうか。
陶淵明の小品「五柳先生伝」は、長らく陶淵明の自叙伝であると信じられてきました。五柳先生自体は架空の人物として設定されていますが、そこに陶淵明は自分自身を投影したのだと、後世の人々はこう考えたのでしょう。
蕭統(しょうとう)の『陶淵明伝』に「淵明、少(わか)くして高趣(こうしゅ)あり、……曾(かつ)て『五柳先生伝』を著して以って自(みずか)らに況(たと)う。時の人これを実録と謂(い)えり」とあります。
これは淵明が江州祭酒となる以前の、恐らく28歳ぐらいの頃の作だろうとする説があります。しかし、文中に酒食にも不自由するほどの貧困の状態を述べ、また文筆の老熟している点などから見て晩年の作と見たいものです。
五柳先生傳 幷賛 陶 淵 明
先生不知何許人也。 先生は何処(いずこ)の人なるかを知
亦不詳其姓字。宅 らざるなり。亦た其の姓字(せいじ)
邊有五柳樹。因以 も詳かにせず。宅辺に五柳樹有り、因
爲號焉。 って以って号と為す。
閑靖少言、不慕榮 閑静にして言少なく、栄利を慕わず。
利。好讀書、不求 書を読むことを好めども、甚解(じん
甚解。毎有會意、 かい)を求めず。意に会するもの有る
便欣然忘食。 毎に、便ち欣然として食を忘る。
性嗜酒、家貧不能 性、酒を嗜むも、家貧にして常には得
常得。親舊知其如 ること能わず。親旧、其の此の如くな
此、或置酒而招之、 るを知り、或いは置酒(ちしゅ)して
造飲輒盡。期在必 期すること必ず酔うに在り。既に酔い
醉。既醉而退、曾 て退き、之れを招く。造(いた)れば
不吝情去留。 飲みて輒(すなわ)ち尽くし、曾て情
を去留(きょりゅう)に吝(お)しまず。
環堵蕭然、不蔽風 環堵(かんと)蕭然として、風日(ふ
日。短褐穿結、箪 うじつ)を蔽(おお)わず。短褐(た
瓢屢空、晏如也。 んかつ)穿結(せんけつ)し、
常著文章自娯、頗 箪瓢(たんぴょう)屢〃空しきも、晏
示自己志、忘懷得 如(あんじょ)たり。常に文章を著し
失。以此終。 て自ら娯(たの)しみ、頗(いささ)か
己が志を示す。懐いを得失に忘れ、
此れを以って自ら終わる。
贊曰、黔婁之妻有 賛に曰く、黔婁(けんろう)の妻の言
言、不戚戚於貧賤、 える有り、「貧賤に戚戚(せきせき)
不汲汲於富貴。極 たらず、富貴に汲汲たらず」と。其の
其言、茲若人之儔 言を極わむるに、玆(こ)れ若(かく
乎。酣觴賦詩、以 のごと)き人の儔か。酣觴(かんしょ
樂其志。無懷氏之 う)して詩を賦(ふ)し、以て其の志
民歟、葛天氏之民 を楽しむ。無懐氏(むかいし)の民か、
歟。 葛天氏(かってんし)の民か。
※黔婁の妻:黔婁は春秋時代の斉の人で、清節の士として知られ、魯の恭公が粟三千鍾を贈って宰相に迎えようとしたが、就かなかった。のち斉王も黄金百斤を贈って大臣に迎えようとしたが応じなかった。(皇甫謐の『高士傳』による)
黔婁の妻の言葉は劉向の『列女傳』にみえる。
※無懐氏・葛天氏:いずれも古代伝説中の帝王の名。
訳) 先生ハ何処ノ出身カワカラナイ。マタソノ姓名モヨクワカラヌ。家ノソバニ五本ノ柳ガアッテ、ソレヲソノママ号トシテイル。
モノシズカデ口数スクナク、名誉ヤ富ヲノゾマヌ。読書ハ好キダガ、トコトンマデワカロウトハセヌ。タダコレダト思ウコトガアルト、モウウレシクテ食事モワスレルノガツネダッタ。
生マレツキ酒ガ好キダガ、家ガ貧乏デ、イツモ手ニ入レルワケニハユカヌ。親戚・旧友タチハソノ様子ヲ見テ,酒席ヲシツラエ、招待シテヤルコトガアッタ。出カケテユケバ、イッキニ飲ミツクシ、必ズ酔ッパラウノガ目的ダッタ。酔ッテシマウトヒキアゲ、思イキリワルクグズグズト居坐ルトイウコトハナカッタ。
セマイ家ハサビレテ、風ヨケ陽ヨケニモナラヌ。チンチクリンノ毛皮ノ上衣ハボロニナリ、オ椀ヤ湯呑ハカラッポノコトガ多カッタガ、平然トシテイタ。イツモ詩文ヲツヅッテハ、ヒトリ楽シミ、イササカオノガ主張をシメシタ。人生ノ損得ヲ気ニカケズ、カクテヒトリデ死ンデイッタ。
賛ノコトバ――
ムカシノ隠者黔婁ノ妻ノコトバニ「貧乏ヤ低イ身分ニクヨクヨセズ、財産ヤ高イ地位ニアクセクセヌ」トイウ。ソレハマッタク先生ノヨウナ人物ヲイウノデアロウ。酒ニ酔ウテハ詩ヲ作リ、オノガ心ヲ楽シマセタ。古代ノ帝王無懐氏ノ民デモアルカノヨウニ、マタ葛天氏ノ民デデモアルカノヨウニ――。
篠山にいる姪に久しぶりに電話してみました。
爺が食事の料理を作っていることから、姪の「カレーライスに卵を入れて食べたことある?」の質問に「そんなの食べたこともない」と答えると、自分は子供のころカレーに卵の黄身を入れて食べた記憶があるということから、そんな風習が西日本特に広島にあると聞いたので、広島で生まれた爺に訊ねてみたとのことでした。
そんなこんなで、爺が上京してからの自炊生活時代に家庭教師に入っていた家の奥さんからカレーの作り方を習ったことや、子供の頃の食べ物の話になり、親父の商売の関係でイタリアからスパゲティ(マカロニの記憶違い)が送られてきて、それをすき焼きに入れて食べたこと、当時この爺が穴の開いた饂飩と呼んでいたことなどを話しました。
電話が終わって、しばらくしてスパゲティとマカロニの違いに気が付き、携帯でメールを入れました。曰く、
2016年9月14日19時13分発信 題:先刻の話の訂正
さっきの話のなかでスパゲティといったのはマカロニの間違いでした。僕は穴の開いたうどんと言っていました。節夫
すぐに返信メールが入りました。曰く、
2016年9月14日19時28分着信 FW:ありがとうございます
パスタの総称としての「スパゲッティ」と理解しておりました。
長いマカロニは、太めをツィーテ(英名ロングマカロニ)、細めをブカティーニというそうです。
昭和初期に「オシャレ」ですね。
マカロニについて調べてみました。
イタリア語ではマッケローニmaccheroni(単数形はmaccherone)という。macaroniはイタリア語から借用の英語で、日本ではマッケローニではなくマカロニを借用している。以前はマカロニという名称でパスタ全般を意味することがあったが、パスタということばが普及してからは、マカロニは管状の乾燥パスタの一種という本来の意味になった。
語源は、古代ギリシア語のmakariaであるという説が有力である。マカロニの起源についてはいろいろな説がある。語源からみてギリシアに起源があるという説は、makariaが葬儀の宴に供される一種の聖なるパスタであったということに基づいている。シチリアに起源を置く人もいる。この場合、シチリア方言のtriaということばは「パスタを圧搾機で押し出し、大気で乾燥させた穴あきの細長いパスタ」を意味するが、これがマカロニの祖先であるという説である。マカロニのシチリア起源説は、パスタのアラブ起源説につながる。なぜなら、シチリア方言のtriaはアラビア語のitriyaからきているからで、1154年にアラブの地理学者が書いた本にパスタの一種としてitriyaのことを記述しているからである。
いずれにしても、マルコ・ポーロが中国の麺(めん)をみて伝えたというのは俗説であり、マカロニはもっと古い時代からすでに地中海世界に存在していたと考えるほうが正しい。はっきりイタリア語の文献にマカロニの名が現れるのは、ボッカチオの『デカメロン』(14世紀の中ごろ)のなかである。マカロニはそのなかで、ラビオーリと並んでたいへんな御馳走(ごちそう)として扱われている。しかし、『デカメロン』に出てくるマカロニは現在の管状のものと違い、ニョッキのようなものであったというのが定説になっている。 日本百科全書より
なお、『デカメロン』での表記は、「そこにはすっかりパルメザン・チーズのおろした粉でできた山があって、その上にはマッケローニとラヴィオリづくりの人がいて、せっせとつくっては去勢雄鶏のスープのなかで茹で、それを下へところがしていく」 (第八日第三話)
ここでころがっていくマッケローニは、小さなだんご状のニョッキです。乾燥パスタのマッケローニのほうは中流の人が購入したと考えられていますがが、マッケローニ/ニョッキのほうは、庶民が腹を満たす食べ物だったようです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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