瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は私の誕生日。ブログのコメントでお祝いの言葉を戴きました。シンさん、ハルキ君ありがとう。
 私の生まれた1932年は2月4日が節分でした。だから、節夫という名前が付けられました。


 旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれています。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためであるといいます。これを夏正(かせい)というそうです。古代中国夏王朝の正月という意だそうです。平気法(二十四節気を配置する方法の一つ)ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)としています。

 立春は旧暦1月1日だという勘違いがありますが、ほとんどの場合は正しくありません。旧暦1日は必ず朔(さく、新月)ですが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にはなりません。ただし約30年に1度ほど、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年があります(朔旦立春)。近年は1954年・1992年がそうだったとうこてす。次は2038年と予測されているそうです。

 携帯にも誕生日のお祝いメールが入りました。曰く


2017年2月4日2013分  題 おめでとうございます


 日高先生     お誕生日おめでとうございます‼ 


とにかく一言、お祝いを申し上げたく、メール致しました。(メールですみません〓)


インフルエンザが流行っているようです。ご自愛下さい。 Kanami


2017年2月4日22時4分 題 遅くなりましたが、


 
 [祝]お誕生日おめでとうございます〓〓[クラッカー][くす玉][ボトル]〓〓[花束]


健やかで、穏やかな一年になりますように 「\(^ω^)/][\(^ω^)/][\(^ω^)/] Yoko


 


 Kanamiさん、Yokoさんありがとう。


 1月27日以来、ブログ更新をお休みしています。
 福岡の甥に依頼されて、彼がやっているウェブ句会の「句集」を製作していたためです。ワープロへの書き込みがやっと終了し、後はゲラの校正を待って印刷・製本にかかるところで、一段落ついた所です。

 いつの間にかはや2月。明日は節分です。
 節分とは元来、季節の移り変るときをさし、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前日でした。しかし太陰太陽暦では立春を年の初めと定めたので、立春の前日すなわち大寒の最後の日を特に節分 (太陽暦の2月3日か4日) として重視するようになりました。
ウェブニュースより
 節分は大みそかの行事だった? 豆で追い払う"鬼"の正体とは ―― 暦の上では春とされる立春。その前日(毎年2月3日前後となります)は節分(せつぶん)です。節分といえば、豆まきですね。近年では豆まきに加え、バラエティー豊かな恵方巻きをいただく方も多いのではないでしょうか。さて、風水でも節分には大きな意味があります。詳しく見ていきましょう。

 節分とは? 
 節分は文字通り「季節を分ける」意味を持ちます。本来は春だけでなく、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の新しい季節が始まる前日を節分と呼んでいました。
 いにしえの日本では立春を1年の始まりとしていたため、長い年月がたつにつれ、最も重要だった立春の前日の節分だけが残ったとされます。旧暦では立春を新年としますので、つまり節分とは大みそかを指します。その1年の最後の日である大みそかに、1年の内についてしまった厄や穢(けが)れを落とし、清らかな気持ちで新年を迎えようとしました。
 そもそも鬼って何?
 鬼とは、目に見えないものを表す「穏(おん)」が転じていつしか「鬼(おに)」と呼ばれるようになったとされています。天災、飢饉(ききん)、疫病、悪霊など、正体も知れずひそかに忍び寄る不穏な気配を感じ取り、それを総じて「鬼」と呼びました。
 目に見えるものだけが全てではなく、不吉なことは全て鬼の仕業と考えられていた時代の人々は、さぞ恐れおののいていたことでしょう。
 また、鬼は鬼門(丑寅・うしとら)となる東北の方角からやって来るとされ、鬼のもののけは、牛(丑)の角を生やし、虎(寅)柄のパンツをはいた姿で描かれています。
 豆まきは大みそかの行事だった
 節分に行う"豆まき"は、平安時代初期から宮廷で大みそかの行事として行われていた鬼払いである追儺(ついな)がもとになっているとされます。
 追儺は邪気を払い、清らかな新年を迎えることで幸せになるよう、鬼の面を着けた人を桃の木で作った弓矢で射(う)ち追い払うという風習です。
 また、節分の時に話題になる"恵方"も、その年の初めに降臨される年神様の方角を指します。節分が古代の大みそかだとすると、年神様をお迎えする方角を気にするのもよくわかりますね。2017年の恵方は北北西。特に北北西のお掃除を念入りにして、多くの福を呼び込みましょう。


 


 篠山の姪からメールが入りました。曰く、
20171261929分受信 題 ブログであげつらうのも
 品がないし、国の恥なのでメールで。
 1月24日の国会答弁で安倍晋三首相が「云々(うんぬん)」という漢字を読めず、「でんでん」と発言していた。これは蓮舫代表とのやり取りで安倍首相の口から飛び出てきた言葉で、プラカードを掲げた民進党や野党を皮肉る言葉を繰り返している中で「訂正云々(でんでん)というご指摘は全くあたりません」と発言。
 
あまりにも安倍首相が堂々と言っていることから野党側も気が付いていないようだった。
 驚いたのは、すぐには大手メディアが全く取り上げなかったこと。「武士の情け」か?
 
でも副総理が「未曾有」を「ミゾウユウ」と読んだときは、大騒ぎしてなかった? (26日の朝日天声人語ではさらりと皮肉っていましたが。)
 野党批判を、官僚あるいは側近に書かせて、そのまま読んでいる(読めなかったけど)、ことがバレバレ。
 それでやってきて、結構人気あるから演技派であることに間違いないんでしょう。
 このことで小学生に「云々」を「うんぬん」と読むことが知れわたれば、「怪我の功名」ですけど。
 腹が立ったままでは、健康によくないので、笑い話を一つ。ネットの声です。
 
そのうち「云々」は
・「でんでん」と読む学者もいるとスガが擁護
・「でんでん」で問題ないと閣議決定
・「でんでん」と読むことに解釈変更
・「でんでん」と読まないと五輪が開催できない
・アベ一代限り「でんでん」と読む特別法制定
とかなりそう。  CU
 
ウェブニュースより
 
安倍首相「でんでん」発言トレンド入り そういえば麻生元首相も... ―― 2017124日の参院本会議で、安倍晋三首相が「訂正でんでん」という意味不明な発言をする場面があり、ツイッターでは大きな注目を集めて、一時トレンド入りした。
 
「云云」(うんぬん)を「伝伝」(でんでん)と読み間違えた可能性があるが、麻生太郎氏が首相だった08年にも、漢字の読み間違いを相次いで報じられたことがある。
 蓮舫代表への反論の中で
「デンデン」発言は、民進党の蓮舫代表の代表質問への答弁で出た。蓮舫代表は、安倍首相が120日の施政方針演説で
「ただ批判に明け暮れたり、言論の府である国会の中でプラカードを掲げても何も生まれません」
と述べたことを問題視。自民党も野党時代に国会でプラカードを掲げたことを指摘しながら、
「私たちへの批判とどう整合性をつけておられるのですか」
などと批判。民進党も「必要な法案には粛々と賛成している」として、
「まるで我々がずっと批判に明け暮れているという言い方は訂正をしてください」
と述べた。
 この発言に対して、安倍首相は
「これはあくまで一般論であって、民進党の皆さんだとは一言も申し上げていないわけであります。 自らに思い当たる節がなければ、これはただ聞いて頂ければいいのだろう、このように思うわけであります」
と反論。その上で、
「訂正『でんでん』というご指摘はまったく当たりません」
と力を込めた。
 「云云」と「伝伝」を混同か この文脈では、「でんでん」だと意味が通じないが、「云云」(うんぬん)なら意味が通じる。広辞苑第6版によると、「云云」の項目の最初の説明には
「引用した文を中途で切り、以下を省略する時に用いる語。しかじか。これこれ」とある。安倍首相は「云云」と「伝伝」を混同した可能性があるが、答弁原稿にこの文字があったのかどうか不明だ。この安倍首相発言はNHKで中継されたこともあって、ネット上で注目を集め、一時ツイッターでは「#訂正でんでん」という単語が「トレンド」入りした。
 また、この安倍首相答弁を機に、ネットの一部では麻生太郎氏の首相当時の発言を思い出す人も現れた。麻生氏は08年、記者会見などで、「頻繁」(ひんぱん)を「はんざつ」、「未曾有」(みぞう)を「みぞうゆう」、「踏襲」(とうしゅう)を「ふしゅう」と読むなど、相次ぐ漢字の読み間違いがクローズアップされたことがあったためだ。 (2017125 150 J-CASTニュース)
https://www.youtube.com/watch?v=6vcOgS3ipas


 

大和物語 125段
 泉の大将、故左のおほいどのにまうでたまへりけり。
 ほかにて酒などまゐり、酔ひて、夜いたく更けてゆくりもなく物したまへり。
 おとどおどろき給て、「いづくに物したまへる便りにかあらむ」などきこえ給て、御格子あげさはぐに、壬生忠岑御供にあり。
 御階のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息申す。
「かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ となむ宣ふ」と申す。
 あるじの大臣いとあはれにおかしとおぼして、その夜、夜一夜大御酒まゐり、あそび給て、大将も物かづき、忠岑も禄たまはりなどしけり。
 この忠岑がむすめありとききて、ある人なむ「得む」といひけるを、「いとよきことなり」といひけり。
 男のもとより「かのたのめたまひしこと、このごろのほどにとなむおもふ」といへりける返り事に、
  「わがやどの ひとむらすすき うら若み むすび時には まだしかりけり」
となむよみたりける。まことに又いと小きむすめになむありける。
※泉の大将=藤原定国。高藤の息子。大納言・右大将をつとめた。(867~906年)
※故左のおほいどの=藤原時平。


 
現代語訳
 泉の大将が故左大臣のお屋敷に参上なさったということです。
 余所で酒などお飲みになり、酔って、夜ひじょうに遅くに突然いらっしゃっいました。
 左大臣さまがびっくりなさって、「どこにいらっしゃったついでであろうか?」などと申し上げなさって、家の者たちが出迎えの準備に格子をつりあげて忙しく立ち働いていますと、壬生忠岑がお供のなかにいました。
 階段の下に、松明をともしたままひざまずいて、訪問をお告げ申し上げました。
「カササギが渡しているはしの霜のうえを、夜中に踏み分けてわざわざ尋ねて参りましたよ、とおっしゃっておられます」と申し上げました。
 主人である大臣も、非常に風流で味わい深いとお思いになって、その夜、夜通し臣下を相手にお酒を召し上がりなさって、大将も衣類を褒美にいただき、忠岑も褒美の品をいただいたりなどしたということです。
 この忠岑のむすめがいると聞いて、ある人が「妻にしよう」と言ったのを、「たいへん結構なことだ」と言ったそうです。
 男のところから、「例の当てにさせなさったこと、近いうちにと思います」と言いました、その返事に、
「我が家にある一群のススキは、若くてみずみずしく、生長していないので、結ぶには十分な長さがないように、また、心が幼いので、夫婦の契りを結ぶにはまだ早いと思います」
と歌を作ったそうです。本当にまだ幼いむすめだったのです。


大和物語 132段
 同じ帝の御時、躬恒(みつね)をめして、月のいとおもしろき夜、御あそびなどありて、「月を弓張といふは何の心ぞ。其のよしつかうまつれ」とおほせたまうければ、御階(みはし)のもとにさぶらひて、つかうまつりける、
  てる月を 弓張としも いふことは 山べをさして いればなりけり
禄に大袿かづきて、又、
  しらくもの このかたにしも おりゐるは 天つ風こそ 吹きて来つらし
※弓張=弓形をしている月。特に、陰暦七・八日ごろの月を「かみの弓張り」、二十三、四日ごろの月を「しもの弓張り」という。
※大袿=平安時代に禄・かづけものとして賜った袿(うちき、平安時代以来、貴族の男性が狩衣〈かりぎぬ〉 や直衣 〈のうし〉 の下に着た衣服。女性の場合は唐衣 〈からぎぬ〉 の下に着た。単に衣 〈きぬ〉 ともいわれる)で、裄(ゆき)丈(たけ)を大きめに仕立てたもの。着るときは普通の大きさに仕立て直す。

現代語訳
 同じ醍醐天皇の御代に、躬恒(みつね)をお呼び寄せになって、月が非常に美しい夜に、管弦の宴などを催されて、「月を弓張というのはどういう意味だ。その理由を述べてみよ」とご命令なさったところ、御殿の階段のところに控えて、お作り申し上げた歌、
  夜空に照る月を、弓張とも言うことは、山辺を目指して入る(山のあたりをめがけて射る)からなのだなあ。
 天皇に頂いた褒美の大袿を肩に掛けて、又、次のような歌を作った、
  白雲がちょうどこちらの方におりてきてとどまっているのは(白雲のように白くてふわりとした大袿が、私の肩に高い御殿からくだってきてのっかっているのは)、空の風がまさに吹いて来たらしい。

無名抄27段 貫之・躬恒の優劣

  俊恵法師語りていはく、
「三条の大相国、非違(ひゐ)の別当と聞こえける時、二条の帥(そち)と二人の人、躬恒・貫之が劣り勝りを論ぜられけり。かたみにさまざま言葉を尽くして争はれけれど、さらにこときるべもあらざりければ、帥いぶかしく思ひて、『御気色(けしき)を取りて勝劣きらむ』とて、白河院に御気色給はる。仰せにいはく、『われはいかでか定めむ。俊頼などに問へかし』と仰せごとありければ、ともにその便(びん)を待たれけるほどに、二、三日ありて、俊頼まゐりたりけり。帥このことを語り出でて、初め争ひそめしより、院の仰せのおもむきまで語られければ、俊頼聞きて、たびたびうちなづきて、『躬恒をば、なあなづらせ給ひそ』といふ。帥思ひのほかに覚えて、『されば貫之が劣り侍るか。ことをきり給ふべきなり』と責めけれど、なほただ同じやうに、『躬恒をばあなづらせ給ふまじきぞ』といひければ、『おほしおほしことがら聞こえ侍りにたり。おのれが負けになりぬるにこそ』とて、からきことにせられけり。躬恒が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」とぞ。
現代語訳
  俊恵法師が語って言うことには、
「三条の太政大臣(藤原実行)が検非違使の長官と申し上げていた時、二条の帥(藤原俊忠)とふたりで、躬恒と貫之の優劣を論じ合われた。お互いにさまざまに言葉を尽くして論争をなさったが、いっこうに決着する様子がないので、帥がはっきりさせたいと考えて、『白河院の御意向をお伺いして優劣を決めよう』ということで、白河院に御意向を仰ぐ。白河院の仰せによるところでは、『予がどうして決められようか。俊頼などに問うがいい』とのことだった。そのような仰せがあったので、ふたりとも機会を待っていると、二、三日して俊頼(源俊頼)が参上した。帥はこの件について語り出し、最初に優劣を論じ始めてから、院の仰せの趣旨までお話しになったので、俊頼は話を聞いて、幾度も頷いて、『躬恒のことを、侮りなさいますな』と言う。帥は意外にお感じになって、『それならば貫之が劣っているのですな。躬恒のほうが優れているとお定めになるべきでしょう』と促したが、俊頼が依然としてただ同じように『躬恒のことを侮りなさるべきではありませぬぞ』と言ったので、『大体おっしゃっていることは理解できました。貫之が優れていると考えていた私の負け、ということですな』と、負けたことを辛くお思いになった。躬恒の詠みぶりの、深く思いを歌にこめてある趣は、他に並ぶものがないものだ」


 


 初場所は稀勢の里の優勝で幕を閉じましたが、ここ数場所小兵力士の活躍から目が離せません。小兵力士が好きなのは日本人ならではの判官贔屓なのかもしれませんが小さな力士が大きな力士を倒すのが無差別級の相撲という競技の醍醐味でもあるのです。特に今場所は十両の宇良の活躍は眼を見張るものがありました。
ウェブニュースより
 宇良 和輝(うら かずき、1992年6月22日~ )は、日本の大相撲力士。大阪府寝屋川市出身。木瀬部屋所属。最高位は東十両筆頭(2016年9月場所)。血液型はB型。

 関西学院大学相撲部創部125年で初のプロ入り力士である。
 レスリングの経験を活かした撞木反り[20]、居反り、足取りなどの珍しい技を繰り出す取り口の相撲はアクロバット相撲と評され入門前から注目されていたことから、入門記者会見では報道陣100人が詰めかけた。20171月場所13日目には天風に襷反りを決めたが、この技が十両以上の取り組みで決まったのは19601月に決まり手が制定されて以来初めての事であった。同場所ではやはり滅多に出ず「幻の技」といわれる首ひねりを、2日目に青狼に対して決めている。
 2016年の十両における敢闘精神あふれる力士評価では2位の石浦の2165(この年は十両5場所在位)を引き離して26044場所)で1位となった。
 https://www.youtube.com/watch?v=_oAyCdHzR3g
 


大和物語 三十
 故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)の君、なりいづべきほどに、わが身のえなりいでぬこととおもうたまひけるころほひ、亭子の帝(みかど、宇多天皇)に紀の国より石つきたる海松(みる)をなむたてまつりけるを題にて、人々うたよみけるに、右京の大夫、
  おきつかぜふけゐの浦にたつなみのなごりにさへや我はしづまむ
※海松(みる)=海藻の一つ。浅い海の底の岩に生え、濃い緑色の枝葉が分岐する。古くは食用とした。

※ふけゐの浦=いまの大阪府泉南郡岬町。『万葉集』に見える「吹飯浜(ふけいのはま)」。
現代語訳
 故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)さまが、出世してもよさそうな時分になっても、我が身が出世できないもんだなあとお考えになっていたころ、亭子の帝(宇多天皇)に紀の国から石が付着している海藻の海松を献上したということを題として、人々が和歌を作った際に、右京の大夫さまが、
  沖の風よ吹け、吹けという名をもつフケイの浦に立つ波の余波にあおられてさえ浜に打ち上げられることなく私は沈んだままなのだろうか(底に石がついたままの、この海藻のように、いつまでたっても上に浮き上がって出世できないものだ)
という和歌をお作りになったということです。

大和物語 三十二段
 亭子(ていじ)の帝に、右京の大夫(かみ)の詠みて奉りける、
  あはれてふ 人もあるべく 武蔵野の 草とだにこそ 生(お)ふべかりけれ
また、
  時雨のみ ふる山里の 木の下は をる人からや もりすぎぬらむ
とありければ、かへり見たまはぬ心ばへなりけり。「帝御覧じて、『なに事ぞ。これ心えず』とて僧都(そうづ)の君になむ見せ給ひける、と聞きしかば、かひなくなむありし」語りたまひける。現代語訳
 亭子の帝に、右京大夫が詠んで奉った歌、
  あぁ…懐かしいと、きっと言ってくれる人もいるように、せめて武蔵野の草にでもなって生えればよかったとつくづく思います。
また、
  時雨ばかり降る山里の木の下は、人が枝を折って間をすかせたせいなのでしょうか、来る日も来る日も、雨が漏っております。
とあったが、それは帝が右京大夫に目をおかけにならないのを恨むものだったのです。後に右京大夫は、「帝は、それを御覧になって、『何のことだろうか、この歌の意味がよくわからない』とおっしゃって、僧都の君にお見せになったということだったので、わざわざ歌に詠んだ甲斐がありませんでした」と、お話になりました。


 


ウェブニュースより
 稀勢 第72代横綱へ 25日に正式決定、19年ぶりの日本出身横綱誕生 ―― 「大相撲初場所・千秋楽」(22日、両国国技館)
 14日目に初優勝を決めた大関稀勢の里(30)=田子ノ浦=が横綱白鵬(31)=宮城野=をすくい投げで破って14勝1敗とし、初の天皇賜杯を手にした。取組後には、審判部が八角理事長(元横綱北勝海)に横綱昇進を審議する臨時理事会の招集を要請。23日の横綱審議委員会(横審)の推挙を経て、25日の春場所番付編成会議と理事会で正式に1998年の三代目若乃花以来、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。

 千秋楽、取組がすべて終わっても館内は熱気に包まれていた。待ちに待った優勝インタビュー。稀勢の里が登場すると、万雷の拍手と歓声がこだました。
 「ずいぶん長くなったけれど、いろんな人の支えがあって、ここまで来られた」と万感の思いを口にした。そして、両親が見ている前で勝った、と問われると、もう涙腺は耐えられなかった。「最後は必死になって残して…はい…」と、おえつ交じり。「一日一番という気持ちでやった結果」と男泣きしながら言葉を絞り出した。
 前日に悲願の初優勝を果たしても、気持ちを切らさなかった。「壁になる」と宣言した気合十分の白鵬が立ち合いからど迫力で突進してきた。左を差され、ぐいぐい押され俵に足がかかった。絶体絶命のピンチから代名詞の左のおっつけで相手を起こした。そのまま左を差して、大逆転の投げを豪快に決めた。
 常に優勝を阻まれてきた宿敵を直接対決で撃破。「気持ちだけ引き締めていきました。これから自信になります。自分一人の力じゃない。我慢して腐らずできて本当に良かった」とかみ締めた。


 自己最多となる大きな14勝目。「誰かに支えられている気がした」。踏ん張り切れた土俵際に、先代師匠の故鳴戸親方(元横綱隆の里)を思う。相撲も礼儀も、すべてを教わった角界の父に捧げる有終星には言葉にはできない感慨がある。
 11年11月。師の急逝に25歳関脇だった愛弟子は人目をはばからずに泣いた。中学2年の夏、中学校の担任にも告げずに鳴戸部屋の稽古を見学。「一番、稽古が厳しい部屋に」と荒波に飛び込んだ。
 指導は想像以上だった。部屋の力士一人が部屋のルールを破れば連帯責任で夜中でも正座を命じられた。テレビ出演の依頼を受けたが、白鵬と控室が同じだったため「仲良しこよしじゃ駄目だ」と出演は許されなかった。
 勝負の世界の厳しさを徹底的にたたき込んでくれた師匠。遅咲きで「おしん横綱」と呼ばれた。師匠が30歳9カ月、自身は師匠に次ぐ史上4位、30歳6カ月の年長で横綱昇進となることは確実だ。部屋に戻ると遺影の前で正座をし、手を合わせて思いを伝えた。
 審判部の二所ノ関部長(元大関若嶋津)は13勝でも「昇進相当」としていたが異論なしの14勝目。取組後、八角理事長に臨時理事会の招集を要請した。25日に、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。来場所からは17年ぶりの4横綱時代となる。
 「賜杯?言葉にならない」と喜びに浸りながら、自らの力に満足はない。「まだまだ物足りない部分があるし、強くなれる。これで終わりじゃない」。新入幕から73場所での昇進は史上最も遅い。「平成のおしん横綱」ははや先の戦いを見据えた。

「栄花物語」月の宴
 ただ今の摂政太政大臣にては、基経の大臣(おとど)の御子、四郎忠平の大臣、帝の叔父にて、世を政(まつりごち)ておはす。その大臣の御子五人ぞおはしける。太郎は今の左大臣にて、実頼と聞こえて、小野宮と言ふ所に住み給ふ。次郎は右大臣にて、師輔の大臣、九条と言ふ所に住み給ふ。三郎の御有様おぼつかなし。四郎師氏(もろうぢ)と聞こえける、大納言までなり給ひける。五郎師尹(もろただ)の左大臣と聞こえて、小一条と言ふ所に住み給ふ。
 さればただ今は、この太政大臣の御子ども、やがていとやむごとなき殿ばらにておはす。この殿ばら皆各々御子ども様々にておはする中に、九条の師輔の大臣、いとたたはしくおはして、数多の北の方の御腹に、男十一人、女六人ぞおはしける。小野宮の左大臣殿は、男三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり、一所は宮腹の具にておはす。差し次は女御にておはしけり。次々様々にておはす。小一条の師尹の大臣、男子二人、女一所ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり。
現代語訳
 この時の摂政太政大臣は、基経大臣(藤原基経)の子、四男忠平大臣(藤原忠平)でした、帝(第六十二代村上天皇)の叔父でしたので、世を治めました。忠平大臣には男子が五人いました。長男は今の左大臣で、実頼(藤原実頼。摂政関白太政大臣)と申して、小野宮(現京都市中京区。地下東西線丸田町近く)という所に住みました。次男は右大臣で、師輔大臣(藤原師輔)、九条という所に住みました。三男(藤原師保もろやす)のことはよく知りません(出家したらしい)。四男は師氏(藤原師氏)と申して、大納言までなりました。五男は師尹左大臣(藤原師尹)と申して、小一条という所に住みました。
 こうして今では、この太政大臣(藤原忠平ただひら)の子たちは、次第に身分高くなりました。この殿たちには皆それぞれ子が多くいましたが、九条師輔大臣(藤原師輔)には、たいそう多く子がありました、多くの北の方の腹に、男十一人(十二人、一人は僧)、女は六人いました。小野宮左大臣殿(藤原実頼さねより)には、男が三人ほどいました。女君もいました、一人は宮腹(源高明たかあきら。第六十代醍醐天皇の第十皇子)の妻でした。差し次([すぐ次])は女御(三女、藤原述子。第六十二代村上天皇女御)でした。次々それぞれでした。小一条師尹大臣(藤原師尹)には、男の子二人、娘が一人いました。男子一人(藤原定時さだとき)は、若くして亡くなりました。

大鏡 藤原忠平 貞信公
 この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
 つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
,世継*}『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
 この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
{*《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。

現代語訳
 このおとどは、基経のおとどの四男でございます。御母は、本院大臣時平殿、枇杷大臣仲平殿と同じです。この忠平殿は、延長八年(930)九月一日摂政、天慶四年(941)十一月関白宣旨をお受けなさいました。公卿にて四十二年、大臣の位にて三十二年、世をお治めになること二十年でございます。後の御いみなは貞信公と申しあげました。小一条大臣と申し上げます。また、朱雀院、村上天皇の御伯父であられます。この殿のご子息は五人。殿が太政大臣の位にあられた時、ご長男の実頼殿は左大臣にて、小野宮と申し上げます。次男の右大臣師輔殿は、九条殿と申し上げました。四男の師氏殿は大納言でいらっしゃいました。五男は、後に左大臣になられたのですが、師尹のおとどで、小一条殿と申し上げました。この四人の君達が、左右大臣、納言などに続いていらっしゃったことは、大変に素晴らしいご栄華でございますね。ご長女は、先坊の御息所でいらっしゃいました。
 実頼、師輔、師尹の三人の大臣が小一条に参上なさるために、小一条の南、勘解由小路には石畳が造られたのです。それは、未だに残ってございます。宗像の明神がお邸においでになったために、大臣方は東洞院と小代の辻より車を降りられたので、石畳は雨などが降る日のためだとお聞きしました。おおよそ、その一町に人々は参りませんでした。今は身分の低い者も車や馬に乗ってみしみしと通りますので、昔の名残を畏れ多く拝見いたします。私などは、今も、並々のことではそこを通りません。今日ここに参りましたが、腰が痛みましたので、仕方なくそこを通って参りました。それでも、石畳をよけて歩きました。南の端のたいそうひどいぬかるみを踏んでしまいましたので、汚い着物が更にこのようになってしまいました。皆さんにもお見せしましょう。さて、「先祖の御物は何でも欲しいものだが、小一条だけはそうでもない。人は子を産み、また死んでいくために家という物が必要だが、神が居られるためにそのような時に他へ移らなければならない邸は、どうにもならない。また、おおよそ、普段から気が緩むことがなくて、畏れ多い」とただいまの入道道長殿は仰られたのですな。全く、その通りでございます。この忠平殿には宗像の明神が現実に物など申し上げなさったそうです。「私より忠平殿の御位が高くいらっしゃるのは、差し支えがある」と申し上げられたので、それはとても不都合なことだと、神の御位をお上げになられました。
 何時というのは憶えておりませんが、思うに醍醐か朱雀院の御時でありましょう、忠平殿が宣旨をお受けになって、それを執り行うために陣座の方へいらっしゃる途中、南殿の御帳台の後ろ辺りを通られました。なにやら気配がして、忠平殿の御太刀のいしづきが捉えられました。とても変に思ってお探りになると、むくむくと毛むくじゃらで、爪は長い刀の刃のような手でありました。「鬼であるぞ」と大変恐ろしく思われましたが、臆した様子を見せまいとお念じになり、「帝の宣旨を承って定に参上する人を捉えるのは何者か。放さないなら、怒るぞ」と言って、御太刀を引き抜いて、その手を捉えましたところ、鬼は慌てて手を放して、丑寅の隅の方へ行ってしまいました。思うに、夜のことでありましょう。
 他の殿のことよりも、この忠平殿のことを申し上げるのは、畏れ多くもあり、またしみじみと思い出深いものでございますな。
 世継はそういうと、鳴き声になり、鼻を度々かんだ。
 どうしたことでございましょうか、忠平殿は七ヶ月でお生まれになられたと人々は申し伝えております。天暦三年(949)八月十一日にお亡くなりになりました。正一位が贈られました。御歳、七十一でございます。


 


ウェブニュースより
【全文】トランプ大統領就任演説「今日、この日から、アメリカ第一のみ」――第45代のアメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプ氏は120日(現地時間)、ワシントンで就任式に臨み、就任演説をした。全文は以下の通り。


 
 ジョン・ロバーツ連邦最高裁判所長官、カーター大統領、クリントン大統領、ブッシュ大統領、オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、そして、世界中の皆さん、ありがとうございます。
 私たちアメリカ国民は今、素晴らしい国家的な努力に参加し、国を再建して、すべての人のために約束を果たします。私たちは共に、アメリカの、そして、世界の歩む道を決めるのです。これから歩む長い道です。私たちは課題に直面するでしょう。さまざなま困難にも直面するでしょう。しかし、その仕事をやり遂げます。
 4年ごとに、私たちはこうした道のりのために集まり、秩序だって速やかに政権を移行します。この政権移行を快く支えてくれたオバマ大統領とミシェル・オバマ大統領夫人に感謝します。素晴らしい人たちです。ありがとうございます。
 本日の式典には、とても特別な意味があります。なぜなら、ひとつの政権から別の政権へ、または、ひとつの政党から別の政党へ、単なる政権交代をしているわけではなく、ワシントンD.C.から国民である皆さんへ、政権を取り戻しているからです。
 あまりにも長い間、ワシントンにいる一部の人たちだけが、政府から利益や恩恵を受けてきました。その代償を払ったのは国民です。ワシントンは繁栄しましたが、国民はその富を共有できませんでした。政治家は潤いましたが、職は失われ、工場は閉鎖されました。権力層は自分たちを守りましたが、アメリカ市民を守りませんでした。彼らの勝利は、皆さんの勝利ではありませんでした。彼らは首都ワシントンで祝福しましたが、アメリカ全土で苦しんでいる家族への祝福は、ほとんどありませんでした。
 すべての変革は、この場所から始まります。今、ここで始まっているのです。なぜなら、この瞬間は皆さんの瞬間だからです。皆さんのものです。今日、ここに集まっている皆さん、アメリカ中でこれを見ている皆さんのものです。今日という日は、皆さんの1日なのです。これは皆さんの式典です。そして、このアメリカ合衆国は、皆さんの国なのです。
 本当に大切なことは、どの党が政権を握るかということではなく、政府が国民により統治されることです。2017年1月20日は、国民がこの国の治める日として、これからずっと記憶に刻まれるでしょう。この国の忘れ去られた人々は、もう忘れ去られることはありません。誰もが皆さんに耳を傾けています。何千万の人々が、歴史的な運動に参加しています。
 今まで世界が見たことのない動きが起きています。この動向の中心にあるのは、とても強い信念です。それは、国は国民に奉仕するために存在しているということです。アメリカ国民は、子供たちのために素晴らしい学校を望んでいます。また、家族のために安全を、自分自身のために良い仕事を望んでいます。正しい人々、そして、正しい国民がそう望むのは正当で、当然のことです。
 しかし、多くの市民には、異なる現実が存在しています。母親と子供は都市部で貧困に苦しみ、工場は錆びき、アメリカ中に墓石のごとく散らばっています。教育は高額で、若く輝かしい生徒たちは、知識を習得できていません。犯罪、ギャング、麻薬があまりにも多くの命を奪い、花開くことのない可能性をこの国から奪っています。
 こうしたアメリカの殺戮は、今ここで終わります。今、ここでです。
 私たちはひとつの国家であり、彼らの痛みは、私たちの痛みです。彼らの夢は、私たちの夢です。そして、彼らの成功は、私たちの成功です。私たちは、ひとつの心、ひとつの故郷、ひとつの輝きに満ちた運命を共有しています。今日、私がした就任の誓いは、すべてのアメリカ国民の忠誠の誓いです。
 何十年もの間、私たちはアメリカの産業を犠牲にし、外国の産業を豊かにしてきました。他の国々の軍隊を援助してきました。一方で、アメリカの軍隊は、悲しくも枯渇しています。私たちは他の国の国境を守っていますが、自分たちの国境を守るのを拒んでいます。海外に数兆ドルを投資しましたが、アメリカのインフラは絶望に陥り、腐っています。他の国々を豊かにしましたが、自国の富、力、自信は、地平線のかなたへ消えて行きました。ひとつずつ、工場が閉鎖され、この国を去りました。数百万人のアメリカ人労働者が置き去りになることなど考えもしないで、そうしたのです。中間層の富が、その家庭から奪われ、世界中に再分配されました。
 しかし、それは過去です。今、私たちは未来だけを見据えています。私たちは今日、ここに集まり、新しい決意を発し、すべての街、すべての外国の首都、すべての政権にそれを響かせます。今日、この日から始まります。新しいビジョンがアメリカを治めるでしょう。今日、この日から、アメリカ第一のみになります。アメリカ第一です。
 貿易、税金、移民、外交についてのすべての決定は、アメリカの労働者と家族の利益のために下されます。他国の暴挙から国境を守らなければなりません。彼らは私たちの商品を生産し、私たちの会社を盗み、私たちの仕事を破壊しています。保護こそが偉大な繁栄と力に繋がるのです。
 私は全力で皆さんのために戦います。決して失望させません。アメリカは再び勝利します。これまでにない勝利です。雇用を取り戻し、国境を回復し、富を取り戻し、そして、夢を取り戻します。このすばらしい国の隅々に新しい道路、橋、空港、トンネル、鉄道を建設します。生活保護を受けている人たちに仕事を与え、アメリカの労働者の手と力で国を再建します。
 私たちは2つの単純なルールに従います。アメリカ製の商品を買い、アメリカ人を雇うことです。世界の国々と友好的な善意の関係を築きますが、すべての国には自国の利益を優先させる権利があることを理解した上で、そうします。私たちは自分たちの生き方をすべての人に押し付けることはしませんが、模範として輝やかせたいと思っています。私たちはすべての人が追随するような輝きを放つでしょう。私たちは古い同盟関係を強化し、新たなものを形づくります。イスラム過激派のテロに対し世界を結束させ、地球上から完全に根絶させます。
 私たちの政治の基盤は、アメリカ合衆国への完全な忠誠心です。国への忠誠を通し、私たちはお互いへの忠誠を再発見するでしょう。愛国心に心を開けば、偏見など持たないはずです。聖書はこう教えています。神の民が一体となって暮らすのは、何と素晴らしく喜ばしいことでしょう、と。私たちは隠さずに思っていることを語り、相違について討論しますが、いつも団結を求めなければなりません。アメリカが団結すれば、誰もアメリカを止めることはできません。
 恐れることはありません。私たちは守られています。そして、私たちはこの先も守られるでしょう。私たちは軍や法執行機関の素晴らしい人たちに守られるています。そして、最も大切なのは、神により守られていることです。
 最後に、私たちは大きく考え、さらに大きな夢をみなければなりません。アメリカで、私たちは分かっていると思うのですが、国家は、努力してこそ存続するのです。口ばかりで行動が伴わない政治家をこれ以上受け入れることはできません。彼らは文句ばかり言って、何もしていません。意味のないお喋りは終わりを迎える時です。今、行動の時が来ています。それはできない、と言うのはやめましょう。どんな課題も、心を開き、戦い、アメリカの精神を持てば、乗り越えられます。失敗することはありません。私たちの国は再び繁栄し、栄えるでしょう。
 私たちは、新しい時代の誕生に立ち会っています。宇宙の神秘を解き明かし、地球上から病気の苦しみを失くし、未来の産業とテクノロジーを利用する準備をしています。新しいアメリカの誇りは、私たちの魂を揺さぶり、視野を高め、分断を埋めるでしょう。今こそ、思い出す時です。兵士が永遠に心に刻む知恵です。黒い肌、褐色の肌、白い肌、誰であろうと、同じ愛国心の赤い血が流れています。私たちは同じ輝かしい自由を享受しています。みんな同じ偉大な星条旗に忠誠を誓っているのです。子供がデトロイトの都市部で生まれようと、ネブラスカの風の吹く平原で生まれようと、同じ夜空を見上げ、同じ夢を心に抱き、同じ全知全能の創造主によって生命の息吹が吹き込まれます。
 ですから、アメリカ国民の皆さん、すべての街に住んでいる市民の皆さん、それが近くても、遠くても、小さくても、大きくても、山から山まで、海から海まで、この言葉を聞いてください。皆さんは再び無視されることは決してありません。皆さんの声、希望、夢が、アメリカの歩む道を決めるのです。そして、皆さんの勇気、善意、愛が、その道を永遠に照らすのです。
 一致団結して、私たちはアメリカを再び強い国にします。アメリカを再び富める国にします。アメリカを再び誇り高い国にします。アメリカを再び安全な国にします。そうです。ともに力を合わせ、アメリカを再び偉大な国にします。ありがとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。そして、アメリカに神の祝福がありますように。ありがとうございます。アメリカに神の祝福あれ。 The Huffington Post  |  執筆者:吉野太一郎 メール投稿日: 2017年01月21日 11時34分 JST 更新: 2017年01月21日 11時34分 JST

大和物語 九十一
 三条の右のおとど、中将にいますかりける時、祭の使にさされていでたまうけり。
 かよひたまひける女の、絶えてひさしくなりにけるに、「かかることなむいでたつ。扇もたるべかりける、ひとつたまへ」といひやりたまへりけり。
 よしある女なりければ、よくておこせてむとおもふたまひけるに、色などもいときよらなる扇の、香などもいとかうばしうておこせたり。ひきかへしたる裏の端の方にかきたりける。
  ゆゆしとていむとも今はかひもあらじうきをばこれにおもひよせてむ
とあるをみていとあはれとおぼして、返し、
  ゆゆしとて忌みけるものをわが為になしといはぬは誰がつらきなり
※三条の右のおとど=藤原定方。内大臣藤原高藤の子。平安中期の歌人。官は従二位、右大臣に至り、三条の右大臣と呼ばれる。
現代語訳
 三条の大臣こと藤原定方様が、中将でいらっしゃった時に、賀茂の祭りの奉幣の勅使に指名されて出かけなさいました。
 夫として通っておられた女が、定方様の訪問が途絶えてひさしくなってしまった時に、定方様が「このたびこのような事態が起きて出発します。扇を持っておられたはずだから、一つください」と言っておやりになりました。
 由緒ある家柄のしっかりした女だったので、きっとうまく用意して寄越すだろうと思っておられたところ、色彩なども非常に綺麗な扇で、香などをたきしめて香りなども非常によい状態にして寄越しました。その扇の裏返した端のほうに書きつけてあった歌、
  祭りが終わればすぐ用済みになるのが不吉だからといって、贈るのを避けたとしても、結婚してすぐ用済みになったようにあなたに捨てられた私には、いまさらなんの甲斐もないでしょう。せめてこの扇に恨みつらみの思いをこめた歌を書いてあなたに贈りましょう。
と書いてあるのを見て、ひじょうに済まなかったとお感じになって、そこで作った返歌
  不吉だといって避けていた扇を、わたしのために「そんなもの無いわ」と言わないで、わたしのところにその不吉なものを贈って寄越すのは、いったい誰が冷淡なのだろう。(あなたのほうこそ、私に対して冷たいのじゃありませんか?)


 小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』といふ物には、「三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、いまだこのおごりをなさず」と書きためり。
 かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調へ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万の男を賤しくのみ思ひ下し、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、廿一にて兄に別れ、廿三にて弟を先立てしかば、単孤無頼の独り人になりて、頼むかたなかりき。
 いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊れて月の光むなしく澄み、庭は荒れて蓬(よもぎ)のみいたづらに茂し。
 かくまでになりにければ、文屋康秀が三河掾にて下りけるにいざなはれて、
  わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
など詠みて、次第に落ちぶれゆくほどに、つひには野山にぞさすらひける。懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけんかし。

現代語訳
 小野小町がまだ若くて、色を好んでいた頃、その美貌故のもてはやされ方は一通りではなかった。玉造小町形衰書と云う書物によれば、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、小町の栄華には及ばないと謂う。
 錦と刺繍をあしらった衣を重ね、海陸の珍味を食膳に並べ、蘭蕙香(らんけいこう)と麝香(じゃこう)の香りを身にまとい、口には和歌を詠じて、幾多の男を取るに足らぬものと見下して暮らしていた。
 皇后になろうかとさえ望みを掛けていたが、十七で母を失い、十九で父に先立たれ、二十一の時に兄も亡くなり、二十三で弟も逝って仕舞った。身寄りもなく、孤立無援の身では立身の見込みもなく、目を見張るばかりの華やかな暮らしも日毎に寂しいものになって行った。絶世と謳われた容色も年齢と共に衰え、心を掛ける男たちも次第に少なくなって行ったから、家は破れ寂びて月ばかりが虚しく澄み、庭は荒れ放題で雑草が生い茂るばかりであった。
 文屋康秀が三河の国司に赴任する時に誘うと、次の歌を詠んだ。
  侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
(落ちぶれて我が身が厭になる程の身の上だから、根のない浮き草が水の流れで何処にでも行くように、誘う人があれば何処にでも行こうと思う)
 時を経て、更に零落して、終いには野山をさすらったと謂うことである。


百人一首2130についても調べてみます。


 
21. 素性法師 今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな(古今集)
 素性法師(そせいほうし) 俗名良岑玄利(よしみねのはるとし、生没年不詳)は遍照の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。左近将監に任官した後に出家し、権律師(ごんのりっし)となる。
 現代語訳 あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。
22. 文屋康秀 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ(古今集)
 文屋康秀(ふんやのやすひで、生没年不詳)は平安前期の歌人。六歌仙の一人。文屋朝康の父。
 現代語訳 吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。
※小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったといいます。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたといいます。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになりました。
3. 大江千里 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど(古今集)
 大江千里(おおえのちさと、生没年不詳)は平安前期の歌人、漢学者。中古三十六歌仙の一人。在原行平・業平の甥。宇多天皇の勅命により『句題和歌』を編纂。
 現代語訳 月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。
※ 句題和歌とは 平安前期の歌人大江千里(おおえのちさと)の家集。『大江千里集』ともいう。894年(寛平6)成立。宇多(うだ)天皇より古今の和歌の類聚(るいじゅう)を求められたのに対し、唐詩の一句を題とした翻案歌110首(現存本は115首)をそれぞれの摘句とともに番(つが)えて、これを漢詩文集の部類をも参考に、春、夏、秋、冬、風月、遊覧、離別、述懐に分類し、末尾に自詠和歌10首(詠懐)を添えて献上したもの。和漢対照様式の斬新(ざんしん)な趣向は当代の好尚を反映するものですが、佳句撰(せん)的傾向が強く、題詠歌としては習作の域を出ません。出典の判明する88句中の8割が白楽天詩からの摘句であると言います。
24. 菅家 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(古今集)
 菅家 菅原道真 (すがわらのみちざね、845~903年)は文人官僚。894年、遣唐使に任ぜられますが、建言により廃止。従二位・右大臣となるも、藤原時平により太宰権帥に左遷されます。学問・詩文に優れ、『類聚国史』、『三代実録』などを編集。没後、学問の神、天満天神とされます。贈正一位。
 現代語訳 今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。
25. 三条右大臣 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人にしられで くるよしもがな(後撰集)
 三条右大臣 藤原定方(ふじわらのさだかた、873~932年)は三条に邸宅があったことから三条右大臣とよばれた。
 現代語訳 逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。
※ 逢坂山は山城国(現在の京都府)と近江国(現在の滋賀県)の国境にあった山で関所がありました。「逢ふ」との掛詞になっています。また、「くるよしもがな」の「くる」は「来る」と「繰る(手繰り寄せる)」の掛詞となっています。
26. 貞信公 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ(拾遺集)
 貞信公(ていしんこう) 藤原忠平(ふじわらのただひら、880~949年)は平安中期の貴族。藤原基経の子。時平の弟。「延喜格式」を完成。摂政・関白・太政大臣を歴任。長期にわたって政権の中枢に位置し、藤原摂関家の基礎をかためる。従一位・贈正一位。貞信公は諡号。
 現代語訳 小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。
※ 『拾遺集』の詞書によると、宇多上皇が大堰川に御幸された際、その景色を子の醍醐天皇にもお見せしたいとおっしゃったことを受けて、天皇の義理の兄である藤原忠平(貞信公)がこの歌に託して奏上したということです。寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます(『栄花物語』)。
27. 中納言兼輔 みかの原 わきて流るる 泉川いつ見きとてか 恋しかるらむ(新古今集)
 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ) 藤原兼輔(ふじわらのかねすけ、877~933年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。加茂川の近くに邸宅があり、堤中納言とよばれました。
 現代語訳 みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか。(一度も逢ったことがないのに)
※「瓶原(みかのはら)」は、山城国(現在の京都府)の南部にある相楽(そうらく)郡加茂町(かもちょう)を流れる木津川の北側の一部を指します。泉川は現代の木津川で、ここまでがこの和歌の序詞にあたります。
28.  源宗于朝臣 山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば(新古今集)
 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん) 源宗于(?~939年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の孫でありながら、官位に恵まれず正四位下右京大夫にとどまります。『大和物語』に不遇を嘆く歌を残しています。
 現代語訳 山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。
29. 凡河内躬恒 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花(新古今集)
 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』撰者の一人。官位は低かったが、紀貫之とならぶ歌壇の中心的人物とされました。
現代語訳 当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。
※『大和物語』に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話があり、『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と答えたと言います。
30.  壬生忠岑 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし(新古今集)
 壬生忠岑(みぶのただみね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人。忠見の父。
 現代語訳 有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。
※身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢されています。『大和物語』によると藤原定国の随身であったといいます。


 


プロフィール
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目高 拙痴无
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92
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1932/02/04
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