瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 百人一首31~40についても調べました。

31. 坂上是則 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(古今集)
 坂上是則 (さかのうえのこれのり、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。坂上田村麻呂の子孫といわれ、蹴鞠の名手と伝えられる。
 現代語訳 夜がほのかに明けるころ、有明の月かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。
※延喜5(905)年3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたといいます(西宮記)。
32. 春道列樹 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり(古今集)
 春道列樹(はるみちのつらき、?~920年)は平安前期の歌人。壱岐守に任ぜられたが赴任前に没した。
 現代語訳 山の中の川に、風が掛けた流れ止めの柵(しがらみ)がある。それは、流れきれないでいる紅葉の集まりだったよ。
33. 紀友則  久かたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(古今集)
 紀友則(きのとものり、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人であるが、完成前に没した。紀貫之の従兄弟。
 現代語訳 日の光がのどかに降りそそぐ春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろう。
34. 藤原興風 誰をかも知る人にせむ高砂の 松もむかしの友ならなくに(古今集)
 藤原興風(ふじわらのおきかぜ、生没年不詳)は9世紀後半?~10世紀前半?平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。管弦の名手。
 現代語訳 誰をいったい、親しい友人としようか。(長寿で有名な)高砂の松も、昔からの友人ではないのに。
35. 紀貫之 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける(古今集)
 紀貫之(きのつらゆき。868?~945年)は平安時代最大の歌人で、「古今集」の中心的な撰者であり、三十六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、定家に次いで第2位でもあります。古今集の歌論として有名なひらがなの序文「仮名序(かなじょ)」と、我が国最初の日記文学「土佐日記」の作者として非常に有名であり、教科書にも取り上げられています。役人で大内記、土佐守などを歴任し、従五位上・木工権頭(もくのごんのかみ)になりました。土佐日記は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を1人の女性に託してひらがなで書かれた日記です。
 現代語訳 あなたのおっしゃることは、さあ、本心なんでしょうか。私には分からないですね。なじみの土地では、昔と同じ花の香りが匂ってくるのものですよ。
※ 全く異なる解釈として、「花の香は今も昔も同じであるが、人の心は変わりやすく、あなたの心も私の知ったことではない」という内容であるとする説もあります。この歌は、主人の不満に対する即興の返答であり、親しさゆえの皮肉まじりの会話なのか、身も蓋もない険悪な反論なのかで見解が分かれるところです。
 この歌は古今集に収められたものですが、詞書に「初瀬に詣(まう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、『かく定かになむ宿りは在る』と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」とあります。すなわち、昔は初瀬の長谷(はせ)寺へお参りに行くたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れてみたら、宿の主人が「このように確かに、お宿は昔のままでございますというのに」(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね)と言った。そこで、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだ、ということです。宿の主人が女性で、遠い昔の恋愛を暗示している、と考えることもできます。どちらにせよ、紀貫之が世間と人生を語る一首といってよいでしょう。
 36.  清原深養父 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ(古今集)
 清原深養父(きよはらのふかやぶ、生没年不詳)は平安前期の歌人。元輔の祖父。清少納言の曽祖父。内蔵大允(くらのたいじょう)。
 現代語訳 夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。
37. 文屋朝康 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬき留めぬ 玉ぞ散りける(後撰集)
 文屋朝康(ふんや の あさやす、生没年不詳)は、平安時代前期の官人・歌人。
 現代語訳 白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。
38. 右近 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな(拾遺集)
 右近(うこん、生没年不詳)は平安中期の女流歌人。右近少将藤原季縄の娘。醍醐天皇の皇后穏子に仕えた。元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があったと言います。
 現代語訳 あなたに忘れ去られる私自身については何とも思わないですが、永遠の愛を神に誓ったあなたの命が、誓いを破った罰として失われることが惜しいだけなのですよ。
※一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われています。「大和物語」には、藤原敦忠(あつただ)・師輔(もろすけ)・朝忠(あさただ)、源順(みなもとのしたごう)などとの恋愛が描かれています。
39. 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき(後撰集)
 参議等 源等(みなもとのひとし、880~951年)は平安中期の歌人。嵯峨天皇の曾孫。中納言源希の子。
 現代語訳 浅茅が生えている小野の篠原の“しの”のように忍んでいるけれども、どうしてあの人のことが、どうしようもなく恋しいのだろう。
※「後撰集」の詞書には、「人につかはしける」と書いてあります。特定の人に詠みかけた歌のようです。古今集には「浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに(心の中に思いをしのばせていても、あの人は知ってくれるだろうか? いや、だめだろう。伝えてくれる人がいなければ)」(よみ人知らず)という歌があり、そこから本歌取りしたのがこの歌のようです。
40. 平兼盛 しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで(拾遺集)
 平兼盛 (たいらのかねもり、?~990年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の玄孫。家柄に比べて官位は低かったが、後撰集時代を代表する歌人です。
 現代語訳 他人には気付かれないように耐え忍んできたけれど、顔色に出てしまっているのだ。私の恋は。「恋の物思いをしているのですか」と他人が問うほどまで。
※「拾遺集」の詞書では、この歌は960年に村上天皇が開いた「天暦御時歌合(てんりゃくのおほんときのうたあわせ)」で詠まれたとされています。ここでは、「忍ぶ恋」の題で同じく百人一首に収載されている壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ」の歌(百人一首41)と優劣を競い合いました。しかしこの2首は、どちらも甲乙つけがたい名歌だったため、判定に困ってしまったのですが、天皇がこちらの歌を口ずさんだことで勝ちとなったという有名な話があります。


 


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